第5話 七月十六日の高校にて ③

 「そういえば、俺は何位だったの? まだ聞いてなかったけど」

「俺より五位から十位くらい下。東井には勝ってる」

「榊、ちょっと性格こじれすぎじゃない?」

六、七、八位あたりか。

全学年二百五十人中なので決して悪くはないのだろうが、もっと欲しい。少なくとも、「雪本直哉」と聞いた人間が、顔と並んで、頭の出来を思い返してくれるくらいに――。

「すみません、誰かいますかっ」

弾んだ息もそのままの声をノック代わりに、扉が勢いよく開かれた。榊は咄嗟に診断書を背中に隠して扉の方に向き直った。あまりきれいな手つきですっぽりと隠したので泉美が小さく吹き出した。しかし雪本に笑う余裕はなかった。

扉を開けたのは、石崎だった。何かに必死の様相で息を切らし、酷く汗だくになっている。どれだけ走ったのか、ハイソックスは足首までずり下がってしまっていて、勢い扉にもたれかかるようにして立っていた。

「あ、泉美ちゃん――あっ、雪本くんッ」

「石崎――」

目が合った瞬間、「しまった」と思った。絶対に嫌な顔をした自覚があった。それを裏付けるように、石崎はほんの一瞬たじろいで視線を泳がせたが、もう一度視線を雪本の目に合わせた時、何もかもを吹き飛ばしそうなほどの強い光をともしていた。

「今、雪本君のクラスの子から聞いたの。雪本君の財布がとられちゃったって」

「は?」

「あんまり急で、みんなびっくりしてたらしいんだけど、『ちゃんと話はしてるから』って、あっという間にとってっちゃったみたい。あの、こう、鞄から」

焦って身振り手振りが大きくなり、余計に息が荒れるのも構わず、石崎は必死で続けた。

「あんまり堂々としてるし、上級生だったから、部活系の事情とかかなって、みんな突っ込めなかったみたいで、その」

「誰が」

「望月。望月って、上履きに書いてあったって」

「――小銭しか入ってないのに。馬鹿だな。……ごめん。わざわざ言いに来てくれたのに。でもいいよ。どうせそのうち」

「雪本君、財布変えてない?」

石崎は不意に強くそう聞いた。目の光が強まって、だんだんと揺れ始める。

「まだ、二つ折り?あの黒い奴使ってる?」

「ああ、うん――」

「じゃあ多分、とられたの財布じゃないよ」

雪本が石崎の言葉の意味にたどり着いたのと、石崎の目から涙が一つ零れたのと、同時だった。石崎は泣いたことにも気づかないように、夢中で言い立てた。

「だって、言ってたの、茶色くて長財布みたいな、ちょっと変わった形だったって」

「石崎」

「あ、でも、わかんない、もしかしたらその子の見間違いかもしれないし、取りに行くほどのもんじゃないかもだけど、でも雪本君、部活来るって聞いて、今日とか日差しきついし―」

「わかった、ありがとう」

雪本の言葉に、石崎の目の光はいよいよ強くなった。やや小さいくらいの平凡な奥二重が、すべてを決めうる力を持った何かのように、一心不乱に光っていた。

「大丈夫?」

「うん、大丈夫。――ちょっと、行ってくる」

雪本はできるだけ早口にならぬよう心がけながら、石崎と一緒に廊下に出た。泉美は石崎に手を振った。榊も無言でうなずいた。やっぱり前から見ると違和感のある隠し方だった。

「練習までに間に合う?」

「間に合わなかったらまあ、誰かに借りるだけだし」

やっと安心したように、石崎はうなずいた。

「ごめん、いきなり押しかけて。――ごめん。私、友達置いてきちゃったから、戻るね、また部活で」

「うん。お疲れ」

石崎が廊下の角を曲がって、姿を見せなくなった瞬間、雪本は、全速力で逆方向の階段へと走った。

石崎なら真っ先に三年生の望月の教室に直接駆け込んだはずだ。それでなんの収穫もなかったのなら、望月は教室の方へは戻っていないと見るべきだ。

思考をみるみる後付けながら一階にたどり着き、昇降口へ続く廊下を見据えると、望月と高野が会話しながら、外の光を浴びようとしているのを見つけた。高野の手には、ブラウンの長財布『のようなもの』が握られていた。

「高野」

雪本の声は、やたら長くてやたら狭い廊下に鋭く響いた。高野も望月も、こちらを見た。雪本の足は叫んでも緩むことなく、むしろ一層スピードに乗ってあっという間に高野の表情が見えるほどの距離にまで詰まった。

 ただ茫然と雪本を見ていた高野が、歯を食いしばり、睨み据え、光の方角に向き直る。

 走る。雪本がそう確信したときには、すでに高野の姿は昇降口からさえ消えていた。反応さえ取りきれなかった望月を横目に、雪本も校庭へと飛び出す。高野は数多くの生徒の視線を受けながら、五十メートル以上先で、体育館の角を曲がっていた。

 そのあまりのスピードに雪本は半ば鳥肌立った。高野が初速に優れた素晴らしい陸上選手であることは重々承知していたし、昨年までは走っている姿を嫌というほど目にしたが、ここまで美しい加速は未だかつて見たこともない。雪本がどうにか追いつき体育館の角を曲がると、高野は体育館と塀の間にある雑然とした細い道を校舎側に疾走していった。校庭は他の運動部の練習がまだ続いていたので、あまりに人目に付きすぎると踏んだのだろう。

 雪本は唇を軽く舐めて、悪路の中、むしろスピードを上げた。雪本はこうした、障害物や遮るものの多い場所でスピードを殺さず走ることがむしろ得意だった。土埃で汚れるのも構わず、ブロックを、草を、木の枝を超えてひたすらに走る。高野はせっかくついた勢いが殺され随分速度を落とし、一度ブロックで転びかけた時振り返って、雪本が五メートル以内に迫ったことに驚愕の表情を浮かべ、舌打ちをした。

「――わかった、返すよッ」

そう激しく吐き捨てると、片手に抱えていた茶色いケースを雪本の背後に投げた。雪本は即座に身をひるがえしてケースをキャッチしようとしたが、砂に足を取られて転倒し、ケースはずっと遠くで土の上に落ちた。立ち上がると妙なひねり方をしたのか、足首に鈍い痛みが走った。ケースを見ると、多少土はついていたが、払えば傷はついていなかった。大きく細工してあるファスナーも、やや強度に不安が残ると聞いた覚えのある縫い目も、全く乱れてはいない。無傷だった。

 振り返ると、高野はよほど疲れ果てたのか、砂の上にしゃがみこんで息を整えていた。雪本は歩み寄ると、しゃがみこんだその体を力いっぱい足で蹴り飛ばした。

「なんだよ」

高野は痛がるよりもまず度肝を抜かれたらしかった。

「もうなんにもとってない」

「謝れよ」

雪本はもう一度蹴った。

「謝れよ、何投げてんだよ」

「雪本」

「謝れ」

高野の襟首をつかみ上げる。自分より十キロは重たいだろう体を無理やり片手で持ちあげたので、腕の筋が痛んだ

「石崎に謝れよ」

高野はやっとまともに言葉が聞こえたかのように、雪本に目を合わせた。

「石崎?」

 その、反応に。

 この一年分の、様々な腹立たしさをすべてぶつけてやりたくなって、言葉を探し、探したうえで見つからず、息が詰まる。その激情そのままに、拳を振り上げた。

「ストップ」

背後から声が聞こえた。数秒後に、腕を強くひねりあげられて痛みで振り向いた雪本は、さっと自分の中の熱が引いていくのを感じた。

 後ろに東井が立っていた。体育館裏の物陰の、その涼しさが、陰の青さがひと吹き、風と一緒に入ってくる。その時になって初めて、息が切れた。

「あ――ごめん、東井、どしたの」

「榊が、部室で待ってるって言ってた」

東井はよどみなかった。いつも通りにまっすぐ強く雪本を見ていた。

「先生にも連絡してるって」

東井の冷静な態度に、雪本のほうがどんづまって、結局場違いな笑みを浮かべて頷いた。


*****


 部室の戸を再び開くと、榊は入り口から見て右側のソファの背面に立っていた。左側のソファには、望月がふてくされたようにして座らされていたが、高野が入ってくるのを見るなり立ち上がった。

「おい、なんだその痣。折れてるとかじゃないよな」

「折れてない」

雪本が答えると望月は余計に食って掛かった。

「お前がなんかしたのか、なあ」

「転んだんだよ」

雪本が何か言う前に、高野が遮った。

「勝手にブロックで転んで擦りむいただけだ」

それだけ言うと素早く歩いて、望月がいる側のソファに座った。高野がきっちり座ったのを見届けて、榊がやっと声をかけた。

「手当しますか」

「後ででいい。何なら自分でやる」

「じゃあ教えます」

 簡潔なやり取りを済ませると、榊は雪本に視線をよこした。榊が控えているすぐそばの、高野に向き合っているソファが空席だった。

雪本がいつまでも応じないので、その空席には榊が座った。

 「状況を整理しますけど、構いませんか」

 榊の言葉に、高野はすぐ頷いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る