第4話 七月十六日の高校にて ②

 陸上部の部室は、ファイルだらけの本棚と、何年使っているんだかわからない黒い革張りのソファ二つと、テーブル一つが置いてあるだけの、狭く簡素なつくりをしている。

 ソファとテーブルが入り口から見て『川』の字になるように配置されているせいもあって実際の面積よりもうんと細く窮屈に見えた。

 むき出しのコンクリートに覆われた壁は、雪本が一年生の頃はもっと落書きされていて汚らしく、高い熱伝導率のせいで夏場など五分といられた場所ではなかったが、榊と泉美の副部長二人組によって、今はきれいに落書きも落ち、エアコンも完備されている。


 「雪本君、おはよう」

泉美は、入り口側から見て左側のソファに腰かけていた。

「泉美さん、前髪切った?」

「――ああ、すごいね、気づくんだ。ありがと」

泉美は少し驚いたように目を開いて、口元を手で隠した。

「そりゃ気づくよ」

先週までは分けて額が見えていた前髪が、やや重たく、やや幅広に切りそろえられている。ただ前髪だけを切ったようで、セーラーカラーのあたりで毛先が内外にはねるセミロングは健在だった。

「眼鏡のフレームにあたって邪魔だったんだ」

「あ、なるほど。眼鏡当たるともこもこするもんね」

「そう。それに私、面長だから。このくらい切ったほうがこう、健康的……なのかな、榊君?」

「急に何」

榊は珍しく、心底うんざりした顔をはっきりと表に出した。泉美は平気で笑い飛ばして、嬉々として雪本に言いつける。

「朝練でね、榊君、気づいてくれなかったの。皆声かけてくれたのに榊君だけ——」

「気づいてた。しゃべる機会がなかっただけで」

「それじゃあホントかわからないよね」

「わからないねえ」

泉美はやや狐めいた一重瞼の目を愉快気に細めて笑った。

「でももしかしたら、雪本君がうるさくって、榊君も気が散っちゃったのかもしれないねえ」

「……やっぱり、うるさかった?」

「最初ホントに、町内会のお神輿かと思っちゃった」

「実際担いだことあるよ」

「いやだ、似合わない」

泉美のその言葉に榊が吹き出し、それを受けて泉美も余計に笑った。

 収まるのを待っているときりがないので、雪本はさっさとソファに座って泉美が抱えている木箱を指さした。

「それ、どしたの」

「救急箱をね、整理してる。朝練で怪我した子がいてね。慌てて使ったから乱れちゃってて」

「やっぱり、怪我は泉美さんが見てあげるんだ」

「定着しちゃったね。保健委員だったの去年の一年だけなのに」

「保健委員は泉美さんって印象、強いもん」

「嘘だあ、絶対榊君だよ、みんな言うよ絶対」

「今年も泉美さんがいてくれればもう少し楽なんだけどな、委員会としては」

榊がそう言うと、泉美は首をすくめた。

「陸上がこんな調子じゃ、委員会まで参加するとパンクしちゃうし、迷惑かけちゃうと思うな。榊君が楽とは全然言わないけど」

「わかってる。だからまあ、ただの愚痴だな。——むしろ夏の練習は、俺が怪我人の面倒を手伝う」

「それは助かる。ついでに男子どもに、基本的な処置くらい自分でできるように叩きこんじゃって」

 榊は苦笑い交じりにうなずくと、雪本に向き直って空笑いした。

「最近、三年生が暴走してる」

「暴走?——気合入りすぎってこと?」

「最近期末の成績がかえってきて、受験意識したりなんだりで、余計にって感じだな。テスト期間が終わって単純にはしゃいでるのもあるだろうし。——後輩も、先輩の足引っ張らないようにって無理に焦って、慣れてないから軒並みバタバタと」

泉美はゆったり頷きつつ、正方形の窓をうっとうしそうに見た。

「おまけに、この日差しだしね。去年も結構酷かったけど……」

「今年はちょっと尋常じゃないな」

榊も眉をひそめて頷く。雪本も外の暑さを思い出した。

「去年はまだ、雨が降ることもあったしね。——そういえば、そうだ。期末だ。俺まだ順位見てない」

「私、三番だった」

「さすが。榊は?」

「一位」

「防衛成功おめでとう」

 本来盛大に響いてしかるべき拍手も、榊の前ではほとんどままごとめいていた。

 

 榊は、一年生から今の今まで首位から転落したことが一度たりともない。恐らく今後もないだろう。  

 一度泉美が二位まで迫った時でさえ、二位の泉美と一位の榊との間で、総合得点は二十以上も開きがあった。

 

 「東井の順位が随分上がったんだ」

榊は静かに言った。静かだったが心底誇らしそうな空気があった。

「え、何位だった?」

「十一位」

間髪入れない榊の答えに、雪本と泉美は二人がかりで感嘆の声を上げた。

「すごいね、随分上がった」

「あんだけ夜遅くまでバスケ漬けでよくそこまで」

「それでも毎日二時間ずつ勉強してた」

榊は饒舌だった。

「テスト期間でバスケ部が休みになって、そこから十二時間に増やしたって」

「榊、勉強教えてやったの」

「自分でやるって聞かなかった。まあ東井なら、任せた方が伸びるタイプだし」

 

 榊が東井と交友を持ったのは、実は、自然な流れではなく、雪本が引き合わせての事だったが、やや榊が東井の面倒を見すぎていることを除けば、そうそう見ないくらいに息の合う、正真正銘良い友人になった。

 

 そこを行くと雪本と榊は、雪本と泉美は、「悪い友人」に違いない。

 

 「――これが今回の分」

 榊は黒いクリアファイルから、『診断書』と書かれた書類を取り出した。そこには雪本が、一週間ほど休養を余儀なくされるような病気にかかっているという旨の記載がある。

 雪本が授業の、そして何より部活動の欠席を可能にする最も重要なアイテムを用意すること、それが榊の「悪い友人」としての役目だった。

 

 この高校から十分ほど、雪本の自宅から二十分ほどのところに、榊医院という、それなりに大きく設備の整った病院がある。その病院から三分ほど歩くと、これまた大きく見事な日本家屋の、榊家がある。

 古くからこの土地に根付いた家で、地元の人間では皆知っているようなその一家の一人息子が、今、この陸上部の部室にいる榊知理であり、つまりこの『診断書』は榊が自分の家の病院で使用されている診断書を真似て作成したダミーだ。万が一にも露見すれば榊も雪本も怒られるどころの話では済まなくなってしまうので、診断書を出すよう要求された時のための保険に近い。

 

 「お前、分かってるだろうけど、部活動はともかく、授業の方は気を付けて出席しとけよ。いくら成績がいいって言ったって、出席日数はシビアだし。去年は半年分まともに出席してたからギリギリセーフだっただけで――」

「うん。そうだよね。今回の一週間は、なんだ……うん。事故。俺もこんなタイミングでこんな休む気なかった」

「実はちょっと、やっちゃったなあって思ってるんでしょ。それでお神輿担いできたんだ」

「なるほど、あのバカ騒ぎは、後悔の裏返しみたいなものか」

「で――」

榊と泉美がまた良くないラリーで遊ぼうとし始めているのを遮る。

「女子の方は?」

「ああ……」

 泉美は愉快そうな色をふっと抑え、視線を下げた。

「えっとね、二年になってから、割と雪本君、部活に来てたじゃない」

「うん、人も入れ替わるし、慣れとくならここかなってだけなんだけど」

「雪本君の存在感がこう……高まったのよ。一年の女子もキャッキャ言ってるし」

「——来ない方がよかった?」

「あ、ううん、そういうことじゃないの。雪本君の判断は正しかったと思う。先輩たちも喜んでたし、病気さえ治れば大会にも、って言ってる人もいたくらいだったの」

泉美はふと言葉を区切ると、雪本を見て笑った。

「勘違いしないで、男子の選手の中にもそういう人いたよ。ね」

榊はうなずいた。

「そもそも、誰がどう見たって、雪本はエース級だし。実力は十分も十分、去年の事も風化して、二年生になって、割と真面目に参加してきてたから」

泉美はそれに頷きつつ、また目を伏せた。

「雪本君、今回休み始める前の最後の練習、高野さんが良いタイム出したの覚えてる?」

「ああ——」

 高野とは、雪本たちの一学年上の部員だ。実力、努力量、勝負強さ、自己管理、全てにおいてトップの選手で、雪本でさえ、タイムで勝てたのはほんの数回に留まった。そして泉美の言葉のとおり、確かに、雪本が七日間休むようになる直前の練習で、自己新記録を更新していた。

「あの時、タイムを見て『自己新記録ですよ』って最初に褒めてあげたのが、石崎さんだったじゃない」

「えっ、あ、そうなの」

「気づかなかった?」

本当に想定外の答えだったのか、泉美は珍しくも素っ頓狂な声をあげた。

「すごい大きな声だったからみんな見てたよ。雪本君も見てたと思うんだけど」

「全然わかんなかった。そうだったんだ。それで?」

「高野を石崎がほめたから、お前が休んだんじゃないかって言いだす馬鹿がいたんだよ」

榊の言葉は率直で、雪本は笑うしかなかった。

「どうせ高野のとり巻きだろ。名前なんつったっけ」

「望月」

「やっぱり……」

 高野は選手としては素晴らしかったが、人間としてはやや狭量で勝気すぎるところがあった。地道に鍛えた技と体で成績を残す質実剛健な大エースの高野は、生まれつきの体格とそれなりの努力でエース並みに走り抜けその容姿から必要以上の声援を受ける雪本のことを、はじめから、生理的に嫌悪せざるを得なかったのだ。

 望月という生徒はムードメーカーでお調子者の一方、高野のそうした『調子』に合わせてしまうところがあった。高野が体裁だけでも呑み込んだ言葉を、望月が無意識のうちに代弁し、ムードをもたらしてしまう。

 事実、良い性格をしていない自覚のある雪本は、対抗をしない代わりに、ただ彼らを遠くから冷ややかに眺めた。

 「そしたら、こう、石崎さんと雪本君の去年の話を一年の子にする人が出て来ちゃって」

 石崎というのは、雪本と同学年の女子生徒であり――昨年、雪本と直接トラブルを起こした、その当人だった。

「女子の方はもう、散々かな。嫌がらせとかは無いんだけどね。それに石崎さんにも味方はちゃんといるよ。最近後輩の女の子とよく帰ってるし」

「泉美さんは一緒に帰ったりしないの?」

「放課後に待ち合わせてご飯食べたり、お休みの日に出かけたりはしてるけどね。こないだは遊園地に行っちゃったもん」

なぜか得意満面に笑う泉美に、水を差すくらいの気持ちで指摘する。

「そこまでするなら一緒に帰っちゃえば良いのに。それとも泉美さん、その後輩の女の子が嫌いだったりして?」

「そんなことはないよ。いろいろお話もするし。いい子だよね、榊君」

榊はよどみなくうなずいた。

「浜上さんだろ」

「知ってるの」

「副部長の仕事を良く手伝ってくれるんだ。『委員会大変だろうから』って。賢い人だよ」

「榊が言うなら間違いないか。でも、だったら、それこそ、一緒に三人で帰ったりとかするもんじゃないの?」

 心底不思議に思った雪本が尋ねると、泉美はこともなげに返した。

 「だって、みんなが見てるところで一緒にいちゃうと、私が石崎さんの為に動き回ってるってバレちゃうじゃない。皆と均等に接してる人のほうが、言うこと聞いてもらいやすいでしょ」

もう一人の『悪い友人』として、泉美は、雪本の知りえない『女子部員』の情報をまとめ、その調整を行うとともに、石崎側のフォローをしてくれていた。石崎の方ではそんな事情は知らないで、単に泉美の事が好きで、交友を深めているようだった。

「高野さん自身、それなりに人気があるから、余計ややこしくなってるのは否めないけどね」

「実際、不思議なんだ。なんで俺にいちいち食って掛かるんだろって」

雪本はソファにもたれかかった。なまった肩がバキバキいった。

「俺よりタイムいいじゃない。俺より頑張ってるしさ、格好いいし、成績いいし」

「実際期末も問題なかったらしい」

榊はそう言って、険しく眉間にしわをよせた。

「だから困るんだ」

「え?」

「言ったろ。『三年生が』、暴走してる」

 めまいを覚えて天を仰いだ。ついでに両手で顔を隠す。心底下級生が気の毒だった。

「別に高野さんだけのせいじゃないんだけどね。筆頭かなっていうくらい」

「それフォローになってないよ」

「ははは。――ところで雪本君。全然関係ないけど、体調はどう?今日は部活に来られそうかな?」

「ああもう、わかった――今日は絶対、真面目に参加して、そんで礼儀正しくしとく。やれることはやるって」

 返しながら再び姿勢を戻す。スマートホンを確認すると、休み時間終了まで十五分ほどだった。

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