第3話 七月十六日の高校にて ①

 午後一時頃。


 店を出てからスマートホンを確認すると、いくつかメッセージが来ていた。昨晩のうちに、友人の榊と東井には、明後日(つまり、今日から見れば明日)の登校についての連絡を済ませていたので、その返信だった。少し悩んで、榊からの返信を先に開いた。榊は雪本と同じく陸上部で副部長の業務にあたっている。

『了解。診断書は昼休みに渡す。上級生がやかましいから部活にはとりあえず顔を出すつもりでいたほうがいいと思う』

 雪本は重い息をついた。今回は一週間も休んでしまった。まともに説明や連絡もし切れていない。本当に病気で仕方なく休んでいるのなら、治ったらすぐに部活に顔を出し、事情を説明するというのが筋だろう。

 続いて、東井からの返信を確認した。

『来られるならそれに越したことないけど、無理に来ることないから。体調を第一に。一応いつもの場所で待っておく。少しでも体調が厳しかったら連絡して』

 東井には病気の真相について知らせていないので、文面は労りと気遣い一色だった。雪本はいたたまれず、手短に返信してすぐにホーム画面に戻る。また別に、泉美から着信履歴も入っていた。今は十二時四十五分で、ちょうど昼休みのはずだ。

 かけなおすと、三コール目で、少し大人びた、女性の細い声が聞こえた。

『はい。泉美です』

「雪本だけど、ごめん、何か用事があった?」

『ああ。かけなおしてくれたんだ、ありがと。榊君から連絡貰って。明日、学校に来るの?』

「うん。……いや、ごめん、泉美さんにも連絡しといたほうがよかったか」

『それは全然平気』

泉美は陸上部の女子マネージャーで、榊と同じく、副部長の業務にあたっている。

『榊君から言われたと思うんだけど、明日多分、部活に出てもらうと思う。もし、先輩からなにかされたら、すぐこっちに知らせて』

「知らせてって――」

『適当でいいよ。心臓発作起こったふりでも何でも』

「そんな大げさな嘘つかなきゃダメ?」

『そのくらいの覚悟はしといたほうがいいと思うよ?』

泉美は軽く息だけで笑うと、余計な言葉を付け足した。

『先輩達、ちょっと怒ってるからね』


****


 翌、七月十六日。

 昼休みに入ってすぐ、東井は無言で弁当箱を開いて、黙々と平らげ始める。雪本が机の前に立っても、一瞬ちらりと視線を向けるだけで、すぐにまた口に食材を詰め込む。座っていることを差し引いても男子としてはかなり小柄でその分座高も低かったが、全身から漂う怒りの気配のせいで一回り大きく見える。天然の癖のついた黒髪を時折邪魔そうに手の甲でよけながら、生真面目にしっかり噛んで次から次へと飲み込んでいった。

「東井」

 雪本が呼びかけて、東井は箸を几帳面に置いた。雪本を睨む丸くて大きな目が、強張っていた。

 気が付くと、周りの生徒が少なからずこちらを見ていたので、せめてしゃがんで東井の側に回り込む。

「東井」

「何」

「ごめんね、今朝は」

東井は、少し悲しそうに眉をひそめた。

「あんな騒いだら、また体壊す」

「ごめん」

 朝、雪本と東井は待ち合わせて登校した。しかし、先に待ってくれていた東井に、雪本が大きな声をかけて駆け寄ったので、他の生徒たちが雪本の登校に気づき、気遣い半分勢い半分でひっきりなしに雪本に声をかけ、一緒に学校まで歩き始めてしまった。雪本が周りを気にせず来られるようにといろいろ気を回してくれていたのに、騒々しい思いをした挙句遅刻ギリギリになったこともあり、東井は午前中ずっと機嫌が悪かった。

 「悪気とか無くて、俺、普通にうれしくなって大声出ちゃっただけなんだ」

「にしたって――。しゃべる声もいちいちうるさいし、ご近所さんに迷惑だよ」

「だよな、気を付ける。ほんと、久々に外出て、身体の調子もよくて……」

そう言うと、真ん丸に怒った目は途端に勢いを失ってさまよう。

「……それであんなふうにはしゃぎ倒したら意味ないじゃん。そんなん」

「ごめん、東井」

「別にお前が悪いことじゃないし、謝んなくたっていいけど――」

 ――謝ったほうがいいんだ。謝らせてほしい。

 雪本は、ご近所さんの迷惑になることも、遅刻ギリギリになることも、東井を怒らせることも、全部承知の上だった。分かったうえで、わざと誰かに声をかけてもらえるように大声を張り上げたのだ。中途半端に意識されたりされなかったり、無言の圧力を受けるくらいなら、いっそ自分の方から『学校に復帰したぞ』と宣言したほうが幾分ましだと思ったのだ。

「病み上がりでそんなはしゃいでにこにこして疲れない?」

「え、いや」

「疲れるだろ」

教室には七割程度のクラスメイトがたむろしている。七割のうちの四割が、雪本と東井の会話に気づき始めていた。

「――ちょっとは?」

つい昨日の名残で首をかしげると、東井が鋭く言い放った。 

「当たり前だ、病み上がりだっつってんだから、お前もお前だけどさ、周りにしたって」

「東井」

廊下側、最後列からの呼びかけに、東井の言葉が遮られた。榊だった。手元のスマートホンを見たままで大して声も張っていないが、榊の声はいつでもどこでも、問答無用で正確に届いた。

「バスケ部、緊急集合してるらしい。顧問が明日休みだから、明日の分の筋トレを今日やるって」

「えっ」

「急だから、来られる奴だけでいいって話だけど」

榊の言葉を聞き終わる前に、東井はもうジャージを引っ張り出していた。

「行く、絶対行く。サンキュ。ごめん雪本、俺行くわ」

「行ってらっしゃい」

東井が一目散に教室から出ていこうとすると、担いだジャージを入れた袋の紐が近くの女子の机に引っかかった。

「あ、ごめん、ほんとにごめん」

「あっ、いや、大丈夫だよ」

「ごめん、なんか落ちてない?」

「全然平気。紐長いからしょうがない」

「あ、いや紐長いっていうか」

東井が何か言おうとして、すぐにやめた。

「うん、ごめん。もうちょっと持ち上げりゃいいんだ」

東井がもたもたと濁す間に、榊がひょいと袋を持ち上げて、東井と同じように担いだ。百八十三センチの榊が持ち上げると机に引っかかる気配もない。綺麗に持ち上げすたすたと廊下に出ていった榊のすぐ後を東井が追いかける。会話だけが教室に聞こえてきた。

「俺が持ってく」

「いいよ、返せよ」

「いいよ、遠慮しなくて」

「最低だよお前、返せよ」

「なにが最低なんだよ」

問答が聞こえなくなってしばらくすると、榊一人が手ぶらで帰ってきた。

「東井、なんか怒ってたけどどうしたの?」

「さあ」

「せっかく助けてあげたのにね」

雪本の言葉に。教室の大半の人間がくすくすと笑った。雪本はひそかにほっと息をついた。東井は真面目で正直者で、だからこそこんな風に、危ういタイミングを作ってしまうこともある。

「雪本、まだ食べてないだろ」

「うん。榊も?」

「今用事が片付いたところだし、これから食べる。どうせなら付き合えよ」

そういって榊は、コンビニのレジ袋のほか、黒いA四サイズのファイルをひらひらと見せつけた。雪本は昨日のメッセージを思い出して頷く。

「付き合うっ」

スキップ混じりに榊の腕にしがみつくと、榊がすかさず強く振り払う。笑いが起こった。


****


 しばらく歩いて人気のない階段に差し掛かり、確かめる。

「大丈夫かな」

「あれだけやれば十分だろ。気にしてる奴がいても、忘れたことにしてくれるし」

榊は雪本に先んじて階段を降りながら、淡々と粛々と続けた。

「これから部室に来てもらう」

「えっ、何、呼び出し?」

「今は泉美さんくらいしかいない。でも上級生が来ることもあるから。放課後に向けてなじんどけ」

「なんでわざわざ」

鼻で笑うと、榊が思わずといったように足を止めて、冷たい視線を返した。長身はまだ伸び盛りなのか制服の裾は万年やや短い。大きく切れ長の三白眼の双眸に下から見据えられると緊張感があった。

「今朝、登校中バカ騒ぎしたろ」

「ああ、うん」

「今日は水曜日だ」

「……うん?」

「水曜日は、毎週朝練がある。一週間でもう忘れたか」

「……あ……お邪魔、でしたか」

雪本は朝、登校する時の情景を思い返した。要らないところで上級生の神経をさらに逆なでしてしまったようだ。

「でも、そんな大げさにうるさくはなかったでしょ、上級生が気にしすぎなだけ――」

「うるさかった。反省してほしい」

 榊は雪本の返事も聞かずに踵を返してまた階段を降り始めた。雪本は恐る恐るその後を続いた。

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