第2話 カフェにて


 「——じゃ、明日からはガッコ―行くんだ?」

「はい。ちょっと我慢すればすぐ夏休みだし。また文化祭で変なことやらされたらたまんないし。今年のクラスは、今のところ屋台かなって空気で、そこはほんとによかった」

「いやあ、屋台だって、雪ちゃんみたいな子は『看板生徒』にされちゃうよ。急にコスプレさせられたりして」

「いいですよもう、ロミオじゃなければ」

 真菜は無遠慮に大笑いした。笑っていられる側は気楽なものだ。だからこそ、大笑いの真菜を見て笑える今がありがたい。

「断ればよかったのに。そんなに嫌なら。それもできないくらいイケイケな感じなの?クラスのみんな」

「まあ、どうしてもって言って、断ることはできたと思うけど。……でも、俺が断ったら、誰かが代わりに、絶対やんなきゃいけなかったんですよ」

「いいじゃん。やりたがってた人いるかもよ」

「でも、ロミオですよ」

「うん。主役だよ。誰かはやりたがるよ」

「ロミオ役に推薦されてるんですよ。既に。俺が──」

「何?学校一の美少年がやる予定だったロミオの後釜やれる奴なんていないだろうってこと?」

「そうです」

「いい性格してんねえ、雪ちゃん」

「性格の問題じゃないでしょ、事実なんだから」

「雪ちゃんが気にする問題でもないでしょ。——ああ、いらっしゃい」

 客が入った。朝の時間帯によく来る常連客だ。時刻は十時二十二分。平日はいつもこのあたりから徐々に客足が増え、真菜も忙しくなってくる。

 真菜が件の常連客にカフェオレを出して、またカウンターの中に戻ってくると、雪本に名刺を渡してきた。

「——え?」

「あの常連さん、イラストレーター志望で、今学生さんなんだけど」

真菜が少し声を潜めた。

「雪ちゃんをモデルにして描いてみたいんだって。もし興味あったら、いつでも連絡してくださいって。課題制作の一環だから、お金はそんなに貰えないかもしれないけど」

「あ、なるほど──」

「直接お願いしてみたらって言ったんだけどね、なんか小っ恥ずかしいんだって。断りづらくさせても申し訳ないみたいで」

 雪本は、視界の端に座るその常連客を盗み見た。心無しいつもよりも落ち着きの無い素振りで、ペース早くカフェオレを飲んでいる。線の細い内気そうな二十代半ばほどの男性だ。以前、指輪を左薬指にはめていたことがあるので、恐らくだが既婚者だろう。

「信頼はできる人だから。なんならここで、私が付き添ってる中ででもいいって」

「わかりました、考えてみます」

「西洋画って言うのかな。──あの、天使の絵のね、顔の参考にしたいみたい」

雪本は二重の気恥しさで思わず噴き出した。真菜も半笑いをこらえるように俯く。真面目でいつも勉強をしているような青年が、天使の絵に使いたいのでモデルになってくださいと、男子高校生に依頼するのは確かに恥ずかしいのだろう。頼まれた側の雪本がむず痒いのだから頼んだ側はよっぽどバツが悪いに決まっている。

「──真菜さんは」

「うん?」

「見た目がよくて、困ったこととか無いですか」

「え?なにそれ」

「いや、冗談とかじゃなくて——」

雪本は咄嗟に作った下手な半笑いをコーヒーカップで隠した。

「ほら、外見がいいと、『それ以外』の部分をすごい——求められたり、ケチつけられたりするじゃないですか」

「いや、全然?」

真菜の答えは明快だった。

「だって、数学ができても走れない人はいるじゃない。外見がよくても他の事全部だめって人がいたって全然おかしくないって思うけど。……何か言われたことあるの?」

 真菜にじっと見つめられて、雪本はただ首をかしげた。真菜はただ笑った。ごまかす余地も嘘をつく余地も、いつだって残してくれた。

 

 去年の今頃、風邪をこじらせた雪本は、一日だけ学校を休んだ。その日は偶然、クラスで文化祭の話し合いがある日だった。

 まさか演劇部の一人もいない自分のクラスが劇をしようと企画するとは思わなかった。

 まさか演目がロミオとジュリエットだとは思わなかった。  

 一日欠席して翌日登校すると、すでに雪本はロミオになっていた。

 劇そのものは、投げもせず腐りもせず真面目にやりぬいたつもりでいる。周囲からの純粋な評価もその自覚を裏切るようなものではなかった。雪本自身、劇そのものが耐えられない程苦痛であったわけではないし、楽しく思える瞬間もあった。

 ただ、雪本がロミオになったことを皮切りに、その以前から雪本の周囲にはびこっていた様々な歪みが、とうとう無視ができない程に鮮明に浮かび上がった。所属していた陸上部での状況は輪をかけて深刻で、長引いた。雪本と直接トラブルを起こした張本人が、何を隠そう、陸上部員だったのだ。雪本かその相手かを責める空気が四六時中蔓延しなかなか消えてくれなかった。

 雪本は、病気を患ったことにした。学校もちょくちょく休み、部活動にはほとんど顔を出せなくても仕方がないくらい、体が弱い可哀想な人間ということになった。信じる者は皆味方になってくれたし、信じない者も証拠がない以上大っぴらには疑いを口に出せなかった。

 そんな時期に、このカフェで真菜に出会った。

 真菜は初めから正直に雪本の顔を誉めた。雪本の顔を誉め、良い顔を持って生まれた雪本の運を誉め、その顔で生きている雪本を誉めた。

 真菜のシンプルな態度を前に、雪本はようやくくつろぎを取り戻したのだ。

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