蜥蜴の殺し方 【夏休み前】

@chuBachi_irie

第1話

 十八歳の四月一日。

 冷たい風が首を撫でる。昨日の雨が、今日の空気に交じっているようだった。空は青い。十数分前から日が差しはじめ、風が奪った熱を日光が補っていく。

 雪本は一瞬立ちすくんでから、再び足を前に進めた。

 コーヒーを二本、スポーツドリンクを一本、左腕に無理やり抱えている。どれもこれも冷たい物で、かさばって重たい上に、登り坂で息も乱れる。

 大学の塀は高い。道路からでは桜の一つも見えはしない。ただ視界の端の植え込みでは、真白いツツジが蕾をつけて、紛う事ない春の日だった。渦巻く風の分厚さに急かされて早足になると、飲み物を取り落としかける。辛うじてかかった指に力を込めて、雪本は深く息をついた。

 本当なら、こんな春の日は、絶好の花見日和だろう。

 真菜にしろ、川上にしろ、隙あらば季節を愛でる。雪本も、二人と出会っていなければ、風にだって春にだって急かされることはなかっただろう。季節を味わい始めてから、時間の重みに敏感になった。不意にそれまでの時間やこれからの時間が一気に頭の中をめぐって、息が苦しくなることもある。

 二人と出会ってからこっち、嫌というほど弱くなり、少なからず失って、何度も迷った。重たいはずの時間は、あっという間に溶けて消え、二歳も年をとっている。

 今はまだ、ずっと先の未来を思い描くのは難しい。

 その代わり、目の前に待つ時間の価値を、今すでに手にしているものの意味を、確信している。


 ゆっくりと坂道を上る。入学式が始まってから、二十分ほど経過していた。


 ****

 

 高校二年生の、七月十五日のこと。

 洗濯機が止まるのを確認するなり、雪本は中に一枚入った白い半袖のYシャツをこそぎ取った。

 明日は学校で文化祭の係決めがある。間違ってもうっかり休まないようカレンダーに赤いマジックペンで丸を付けたところまではよかったが、制服のチェックを怠っていたことに起床した瞬間気が付いた。七日ぶりに引っ張り出した制服は洗濯もアイロンも済ませてあったが、カバーをかけるのを忘れており、Yシャツの肩口に埃がうっすらと付着していた。

 ベランダにハンガーでYシャツを干すと、その一瞬だけでもうんざりするような暑さだったが、明るい日差しを浴びて青空に向かって風に乗る白い半袖はなかなか絵になり、気分は爽やかに満たされる。ベランダに続く窓を後ろ手に締めながらリビングの時計に目をやると、九時二十五分を指していた。四十五分に間に合えるだろうか。

日焼け止めを手に取って手早く伸ばす。雪本の肌は生まれつき日焼けに向いていない。紫外線にさらされても上手い事黒く染まることができずに薄赤く火傷してしまう。

 一通り手早く済ませ、玄関前の姿見で最終確認をした。服は一つの皺もなく、これといった寝癖もない。

 何の問題もなさそうだと判断してから、ほんの一瞬、全く別の事実を確認して、鍵を右手に扉を開け、日に日に最高気温を更新してゆく七月半ばのお天道様の下へ身を晒す。


 雪本直哉は、生まれてこの方、自分より美しい顔の持ち主に出会ったことがなかった。


 結局、到着は五十分を少し過ぎたころになった。真菜は開店前のカフェのカウンターに気だるく頬杖をついたまま、白いまぶたを閉じている。

「約束、忘れたかと思った」

「ごめんなさい」

「飲みたいっていうから待ってたのに。早起きしたから眠たいなあ」

「ごめんなさい。でも、十五分早く出るだけでしょ」

「いやあ、緊張して寝れなかったんだよ?起きられなくて、雪ちゃん待ちぼうけにさしたらどうしようって」

「本当に?」

「うそ」

 一つ大きく伸びをすると、黒一色のシンプルなエプロンがグイとカーブを描いた。伸ばした腕を優雅におろし、パチッと音が鳴りそうなくらい潔く目を開ける。笑顔の目尻に気品が灯り、頬の周りが輝いた。

「作ろっか」

 雪本はこの西口真菜という女性に初めて会った時から親しんでいた。それが恋慕に変わるまで、大した時間はかからなかった。

 カウンターの中央の席に急いで腰掛け、少し身を乗り出すと、ちょうど真菜が密閉された袋の一角をはさみで切った。切り口から驚くほど華やかにコーヒーが香り立つ。

「入荷したて、開けたてのほやほやだからね。これが飲みたかったんでしょ、贅沢もんめ」

「はい。ごめんなさい。わがまま聞いてもらっちゃって」

 新しく入荷されたコーヒーを一番に飲みたいと駄々をこねると、開店する十五分も前に来れば間違いなく一番乗りだと教えてもらった。つい昨日のことだ。

 一人暮らしをしているマンションを出て、籍を置いている高校の方角にきっぱり背を向け住宅街を歩くと、木々に覆われた公園に入る。その中をまっすぐ突っ切って階段を上り、その奥の現代美術館の裏手の花壇の片隅に佇むこのカフェまでは、平均して十五分。

 「はい、できました」

「ありがとうございます」

青い薔薇が華奢に描かれ、白がやたら目立ったコーヒーカップを受け取ると、軽やかな香りが追いかけてきた。誘われるようにその薄い飲み口に唇をつける。真菜がまんじりともせず感想を求めるように雪本の表情を追いかけていた。その視線はくすぐったいばかりで、少しも重くはなかった。黙って笑みを向けると、真菜は少し口元に力を入れて小さなガッツポーズをした。

 

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