第6話 癒せなくて困っています
第6話「癒せなくて困っています」
「片瀬っ!」
紡に抱きつかれて、やっと僕の気持ちは落ち着いた。
朝日が仄かに差し込む山小屋の中、僕と紡はようやく再開を果たしていた。お互い血みどろ、悲惨な格好をしている。
「おぉ…」
失血で軽く目が回る。
「片瀬、その目…」
紡が顔を青くしながら僕を見ていた。
これはそう、対価と言うか。
紡の手が恐る恐る僕の左目に触れる。激痛が走ったが堪える。
「癒せた!」
「…あーなるほど」
そもそも「不可逆な傷」が条件だっただけあって、鞍持は徹底的に左目を破壊したらしい。一、二度気を失ったしな。
「見えない」
「…そんな、なんで…」
紡が泣きそうな顔をする。おいおい、いつもの威勢はどこ行ったんだよ。
「鞍持との交換条件だからな、しょうがないんだ」
「でも、それって私のっ…!」
遂に泣き出してしまった。
でも、僕の心には安心しかなかった。
紡が誘拐され、その実行犯、傷師・鞍持普との交換条件。
その一、僕の体の一部を再生不能なほど破壊すること。
その二、…抱くこと。
その二つは、僕のみならず紡の心にも深い影を落としていた。紡の心には一が、僕には二が。重く圧し掛かっている。
その日は急にやってきた。
紡の誘拐があった翌日。
紡は急に癒術が使えなくなった。
依頼者に帰ってもらって見送った所で、振り返ると、紡はデスクに突っ伏して泣いていた。…いや元より泣き虫は泣き虫なのだが、あんなことがあってから自分のせいだと気に病んでいて泣き虫に拍車がかかっている。
「なんでぇ…」
「…まぁそういう日もあるだろ」
僕の方は僕の方で、鞍持の呪いともいうべきあの日の情事がずっと頭を巡って邪魔をしていた。これはそう、紡に対する罪悪感。
紡はきっと僕を許さない。
「ねぇ片瀬、こっち来てよ」
「なんだよ」
とはいえ、今は仕事だ、切り替えないと。
紡は僕の胸に頭を預ける。紡に癒してもらった胸の傷がズキズキ痛んだ。
「癒術使えないと、私…」
「癒術が使えなくても紡は紡だよ」
「でも誰も癒せない…」
紡の瞳からぼろぼろと大粒の涙が零れて、僕のシャツに染み込んでいく。
そもそもが奇跡、不安定な力なのだ。癒術にしろ、傷術にしろ。
癒師としての生き方を生き甲斐と豪語していた紡だ、癒せなくなったことは如何ほどショックか。…こんな状況でも人を癒すことを最優先に考える紡に、僕は何も言えそうにない。
胸がズキズキ痛む。
「きっと、少し休めってことだよ」
「…そうなのかな」
いつもの気の強さはどこへやら、弱々しくて放っておけない。今の状況の紡を「救える」のは僕しかいないか…。
胸の奥の痛みを堪え、今は紡のために。
まるで免罪符だ。
「糸村家に、行こう」
糸村一族。
某県某所、その豪邸は居を構えている。広さの程は定かではない敷地面積、後方に広がる山林も私有地の範囲内と言うのだから恐れ入る。
遥か昔から癒術が相伝される家系、癒術で築いた富。
今でこそ紡が無償で癒しているが、それも過去に築いた莫大な資産があるからこそできること。
「随分久し振りだな」
「…うん」
広大な敷地をいつもの軽で進みながら、僕は正直うんざりしていた。
紡に雇い上げられる手前、ここ糸村家で面接的なものを受けたのだが、そこでの評価は必ずしも褒められたものではなかったのである。紡の推しがなければ決して今の任を任されることなどなかっただろう。
紡の親からすれば本当にどこの馬の骨が、と言ったところである。
「片瀬」
「ん?」
「私が守るからね」
僕の気持ちを察してか、紡が小さいけどはっきりした口調で言った。
「僕は大丈夫だって。それより、紡こそ大丈夫なのか?」
ほぼ無計画に里帰り、となるわけなのだけれど、紡も僕を推して喧嘩別れのような形で家を飛び出している。紡が癒術を取り戻すきっかけを得られればと思って計画した急拵えの里帰り、お互いに気が重い。
「…んなこと言ってる状況じゃないもん…」
それは紡の言う通り。
門扉を越えてからどれだけ走らせただろうか、車はようやく荘厳な佇まいの邸宅に到着した。ノンアポだったが、玄関先にはメイドの貴崎さんが立っていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「はいはい」
慇懃に挨拶する貴崎さんを尻目に紡はぞんざいな態度。見てる方がハラハラする。紡はズカズカと歩いていく。
「当主様始め皆様お待ちです」
「わかってるって」
僕は紡の代わりに貴崎さんにすいませんと謝っておく。
「右浦様もようこそいらっしゃいました。歓迎…と言うわけではありませんが、当主様が特に楽しみにされていましたよ」
「そうなんですか…なんでしょうね」
僕は楽しくなんてさっぱりないが…。
「貴崎、早く案内してよ!」
「はい、ただいま参ります」
本当にハラハラする。貴崎さんは僕や紡より当然年上である。
立場とかあるんだろうけど、もうちょっとこう丁寧な…
「おばーちゃんにしか用ないんだから!」
おばーちゃんとは当主様、現糸村家当主の紡の祖母。
癒師、糸村細(さい)のことである。
荘厳な室内。高い天井にはシャンデリアが掛かり、映画にでも出てきそうな洋館と言う表現が適切なエントランス。華美な装飾に彩られた室内には野暮ったいものなど一つもない。
「おばーちゃーん!」
そんな空間に紡の野暮ったい声が響く。
僕たちは糸村細のいる離れに通された。途中庭園も通り過ぎたがそれもまたよく手入れされた…
「片瀬!何してるの!?」
「ん?ああ、悪い」
空気感を享受している暇はなさそうだ。
「二人とも、よく来てくれたねぇ、あんな出て行き方したのに」
糸村家当主、糸村細は。
離れの中央、王の玉座を思わせるような椅子に腰かけていた。出て行った二年前から何も変わっていない。深い皺の走る穏やかな表情、気品さえ感じる余裕。この人を見る度に自分とは格が違うのだと痛感させられる。
「おかえり、紡」
「…ただいま」
まだ何か思う所があるのか、穏やかに接されても紡の態度は変わらない。
実の祖母だろうに。
ちなみに祖父は若くして亡くなったため、彼女は女手一つでこの屋敷を仕切ってきたといっていい。
「右浦くん、いつも紡をありがとうね」
「いえ、こちらこそありがとうございます」
糸村細は僕の返事ににっこりと微笑んだ。
「おばーちゃん、あのさ…」
「いえ、いいのよ、紡。あなたが急に帰ってきた理由はわかっているから。癒術、使えなくなったのでしょう?」
紡は驚いた顔をしながら頷いた。
なるほど、癒術が急に使えなくなることは癒師にとってはそう珍しいことでもないらしい。
「大方、一度に何回も癒術を使ったのでしょう?」
「うん…まぁ」
「それも限界を超えてね。甘いものは摂ってたの?」
「摂れなかったし…」
やっぱりね、と糸村細は目を細めた。
「だから、おばーちゃん!早く癒術使えるようにしてよ!」
まるで駄々っ子である。祖母の前ですっかり素が出ている。
…あぁ、僕もほとんど身内みたいなものか。
「すぐには無理ねぇ」
少し困ったような顔をする。
「…ところで紡、あなた男性経験は?」
「…っはぁ!?」
僕以上に紡が真っ赤になって驚いていた。何なんだ急に…。それと同時に嫌な予感が胸に去来する。
「ど、どういう…こと」
糸村細は穏やかで落ち着いた表情のままで続ける。
「もう分ったでしょう、そう言う事よ。
癒術を取り戻したかったら性行為しないといけないの」
…あーやっぱりか。…実は僕はそうであろうことはここに来る前からわかっていた。
鞍持普。彼女が僕を求めた理由。
彼女自身が語った事実はそう言う事であったから、きっと癒師も同じなのではないかと。
「ばっ、ばば、そんな」
紡は真っ赤になって何も言えずにいる。
やたら落ち着いている僕に気が付いたのか、糸村細が目配せしてきた。
いや、待ってくれ。
そういう流れになるだろうことは何となくわかってはいたけれど、何度も言おう、僕にとって紡は妹みたいなものでそれ以上でもそれ以下でもないのだ。
「…さて、話は終わりね。紡、今夜は泊っていくの?貴崎に部屋を用意させるけれど?」
「………帰る」
紡はやっとそれだけ絞り出すと、離れを飛び出した。
「紡、あれでよかったのか?」
帰りの車の中、紡はずっと頬杖をついて外を眺めていた。
「…いいよ」
見送ってくれた貴崎さんも無視していたし、他の家族には挨拶一つしていない。
「………」
「………」
お互い無言になる。
無理もない、解決策は見付かったけれど、僕らにとっては凄まじく高いハードルだった。
先に口を開いたのは紡だった。
「ねぇ片瀬」
「ん?」
「…私、…ど、どう?」
質問の意味は分からなかった。
「どうって…なぁ。僕にとっては妹みたいなもんだよ」
「………ここだけだけど、私にとっても片瀬はお兄ちゃんみたいなもんだよ」
紡も僕のことそう見ていたのか。
「…いや?」
嫌かって聞かれるのも困る。西日が紡をオレンジ色に染めていて頬の色まではわからない。…しかしきっと赤面していることだろう。
「…いやじゃ…ないけど」
僕もつい歯切れが悪くなる。
「じゃあ…する?」
即答は出来なかった。間の悪いことに信号で車が停まる。
「………」
再び沈黙。なんて居心地の悪い空気なんだろう。
「…ちょっと一旦この話から離れないか?」
「誤魔化さないでよ」
紡が僕を見ていた。その目には決意が宿っている…が、まだ僕の心は揺れていた。
ふと脳裏に鞍持普の顔が浮かぶ。
頭をブンブン振った。
「………わかったよ」
「………うん、そう」
ますます自分のことが嫌いになりそうだった。
「…なんか恥ずかしいね」
「そう…だな」
事務所に帰ってきて、僕は改めて紡をベッドに誘った。
照明を消した事務所は薄暗く、月明かりで仄かに見える。
お互いに下着姿になってベッドに横になっていた。シングルベッド、二人で寝るには窮屈で、紡は僕にくっついてきた。
胸が、当たる。
「ねぇ片瀬、やっぱりその私…」
その続きは聞けなかった。キスで唇を塞いだからだ。
…紡は初めてだった。
紡を抱きつつ、僕は。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます