第15話

あれは死んでいたんだ。でも君はあの時、お気に入りの緑のRVRの窓際の席に座って外を見ていた。あの水筒を持ってね。

「お兄ちゃん、私には、何も分からない。でももう遠い昔に全ては終わってしまった事なのよ。」

赤い霧の中に揺れる白い影に僕は手を延ばす。必死にフィンを蹴りながら白い影に手を延ばす。でもその白い影はあまりに遠く僕から隔てられている。僕の手は空をさ迷う。まるで蜃気楼に手を伸ばしているみたいだ。どうやっても手が届かない。可奈、また手が届かないんだ。お願いだ可奈、僕の手を握ってくれ。そうしないと僕はまた君を救えない。

「いいのよお兄ちゃん。もういいの。」

可奈を包み込む白い影が僅かに揺れ始め、海の中を覆い尽くす赤い霧が少しづつ移動しだした。僕はただ見ているしかなかった。やがて霧はとてつもなく膨大な流れとなって深い暗黒の淵に向かって吸い込まれ続けた。その中で可奈の白い影はその流れに引きずられながら少しづつ広がり始めて行った。広がりながら可奈の影は強大な赤い霧の流れの中に散るように引きちぎられ、引きちぎられたひとひら一片がまるで吹雪のように舞い、舞いながら赤い霧の流れの中に滲むように消えて行った。その後を追うように緑色の影が時間の隙間を転がるように流れて行った。一つの森、一つの場所、一つの雲、落ちて行く涙、叫ぶ声、優しい囁き、僕を抱き締める柔らかな体温、ぬくもり。全ての影が深淵へ注がれて行く。どの影も僕は知っていたのだ。どの影もそれは僕の記憶だったのだから。強大な流れは海底の砂さえも呑み込んで行く。僕は砂の中に潜り込むようにして必死に体を支えようとしたが、徐々に深淵は近づいて行った。その時右手に固い杭のような物が触れた。僕はそれを両手でしっかりと握りしめた。僕の体の上を川のように砂が流れた。長い時間だった。まるで少年の頃の一時期が流れ過ぎたようだった。世界から全ての音が消えた時、僕はゆっくりと砂地から顔を上げた。もう赤い霧は消えていた。薄暗い海底の風景が無音の中に沈んでいた。僕が砂の中で握っている杭の先端が少し出ているのに気が付いた。白っぽく見えるその先端は鋭く尖っていた。おそらく僕が指を切ったものに違いないだろう。


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