第13話

下がってゆく水温の冷たさがスーツを通して皮膚に伝わって来る。やがて明るさが陰り出して海藻の姿が途切れ出すころ、砂地が目立ちはじめてあれほど敷き詰められていた岩がもう役目を終えるように点在し始める。此処から先にはもう自分たちは行けないとでも言うように。その向こうに霞むようにみえる闇の世界はその奥に漆黒の底を澱のように湛えている。海面から射し込む陽の明るさはまだ少し此処に留まっている。僕はふとフィンの動きを止め静かに海底の砂地に両膝を降ろして腕時計を見てから残圧計を確認した。浮上する時間を考えてもまだ余裕があった。

膝にあたる海底の砂はとても柔らかだった。僅かな体の揺れにしたがって膝が砂の中に沈んで行くように感じられた。膝を動かすと細かな砂が塵のように舞い上がり、僅かな流れに乗って次第に霧のように視界に広がり、それはさらに深みへ誘われるように降りて行った。おそらく海溝があるのだろう。流れはその海溝に向かっているのだ。遠くこの砂地の先に横たわるように見える闇の向こうには確実に深淵があるのだ。その深淵は、あらゆるものを呑み込んでしまう。海に沈んだあらゆるものはこの流れに引きずられながら果ての無い闇の中に沈んで行く。暗黒の地の上に幾重にも重ねられた夢の灰が時を失い音もなく積もり、その灰はやがて灰ですらなくなるのだ。何処にも行かない。あるいは何処にも行けない。でも僕は其処に行く。足元の砂はまるで草原を飛び立つ何十万、何百万の小さな虫の群れのように全ての視界を覆い尽くした。その霧の中に僕はフィンを蹴った。霧は何処までも深く僕の視界を閉ざした。僕は左手の指先を海底の砂地に添わしながらゆっくりと前へ進んで行った。

五ミリのスーツはもう保温機能を失っていた。急激な水温低下が体温を奪っていく。まるで氷の中にいるようだった。その時、海底の砂地に添わしていた左手の指先に激しい痛みを感じた。僕はフィンを止め膝を海底につけて左手をマスクの前に近づけてみた。指先が切れたのだ。ニセンチぼど切れている。やがて傷口に血液が赤い糸のように滲み、それはまるで煙突から立ち上る煙りのように水中に溶け漂い出した。僕は右手の掌でその指先を握りしめた。でも握りしめた右手の指の隙間から血液は溢れ出した。溢れ出した血は煙のように漂いながら急速に広がり出し舞い上がる砂の霧を真っ赤に染めて行った。指先から血は流れ出ていたけれど、不思議と痛みは感じなかった。その赤い霧に覆われた世界は僕の中に存在する虚無と言う時の流れの行く先だった。何かとても熱いものが僕の中心に生まれて、それは僕の体の中を抉るようにかけ上がってきた。涙が溢れた。涙は溢れ続けた。流れ出る涙に霞む真っ赤な霧の中にぼんやりと小さな白い影が見えた。影は蜃気楼のように緩やかに揺れていた。揺れながらそれは少しづつ近づいてきた。スカートのように見える。フレアーの入った白いスカート。


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