第9話

僕の家からは見下ろすように町の一部が見えた。左から山が迫り出していたから、いつも町の右側が見えていたのだ。そこには赤い消防署の建物があり、役場のビルがあるはずだった。商店街の一部が見えていて、港の市場もあるはずだった。でも、それらの建物の姿はなく、もうもうとした土煙がまるで綿菓子の様にその辺りを覆っていた。パトカーのサイレンの音や、救急車のサイレンが鳴り響いていた。人々の慌てる姿や、車の移動する様子が見てとれた。学校は左の山の向こう側にあるはずだった。そしてその向こうには海があった。それから十分ほど経った頃だと思う。海が降ってきたのは。

母はすぐ帰って来ると言っていたのにまだ帰っては来なかった。僕は時間を見ようとしたけれど、そこに時計はなかった。たぶん、十分以上は過ぎていると思った。十五分かそれ以上か。でも窓から見ても、母の車は見えなかった。水平線に陽炎が立っていた。よく見る陽炎だった。陽炎だと思った。それは次第にはっきりとした一本の線となった。その線はくっきりと太くなっていった。やがてそれは見る間に立ち上がり、それと同時に海が低く低く引いて行った。そこに見えるものはもはや計り知れない巨大な壁だった。凄まじい壁の海が町を飲み込むのにそれほど時間は掛からなかった。僕の家のすぐ下を海が濁流となって流れ、そして返った。それは繰り返された。しかしもう、波が浚うものは何も残ってはいなかった。僕は母の帰りを待っていた。母は帰るといったからだ。父も仕事に行ったのだし、いつも帰って来る。妹は学校にいるから、大丈夫なはずなのだ。僕はずっとその光景を見ていた。気が付くと、何時の間にかお腹の痛みはなくなっていた。喉も乾かなかったし、お腹も減らなかった。お腹が痛くなくなったことをはやく母に言いたかった。僕は外を見るのに飽きると、ベッドの際に座った。いろんな音が僕の周りで聞こえていたけれど、それらは次第に僕から遠ざかって行った。僕は何一つ音のない静寂のなかでただ待っていた。部屋が次第に暗くなっていた。僕は明かりを付けようとスイッチを押したけれど、明かりは付かなかったから、またベッドの際に戻って座り、みんなの帰りを待った。

外は薄黒い雲が空を覆っていた。雨が降り出してもおかしくなかった。音はまるでその雲が吸い取ってでもいるように消されていた。そこに帳が降りた頃に、外から僕を呼ぶ父の声が聞こえて来た。僕はちょっと不機嫌になって、腰を上げた。階段を下りて行くと、食器棚やテレビなどが倒れていた。部屋の中はいろんな物で散乱していた。僕は足元にアーモンドチョコレートが一箱転がっているのを見つけた。それをポケットに入れると、僕は靴を履いて玄関を出た。


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