第7話

でも僕はそこで息をのんだ。巨大な波が僕の脳裏に見えていたからだ。それは波と言うより、海そのものだった。海が空から落ちて来た。手摺に掴まれと言う父親の声が幻聴のように聞こえる。目の前にある手摺を握り締めながら僕は思わず可奈の方を見る。可奈の体は強い風に煽られて今にも吹き飛ばされそうに見える。可奈、早く座るんだよ。手摺にしっかり掴まって放すんじゃない。決して覗いたりしたらだめだよ。其処から動かないで、今僕が行くから。僕は立ち上がって手摺に掴まりながら妹の方へ歩み寄ろうとする。その時誰かが僕の肩を掴んだ。車に戻っていなさいと言う父の声がする。僕は肩を抱かれるようにして車の後部座席に入る。その奥のシートの上にぼんやりとした気配を感じる。それからゆっくりとそこに、可奈の姿が描かれて行く。妹は何事もなかったみたいに眠っているようだった。それから車のドアの閉まる音がして、僕は振り返る。窓硝子の向こう側に父が立っている。断崖の方を向いたままじっと動かない。朱色に燃える太陽が哀しげに西に遠ざかっている。それは、思うよりも早く時を連れて行く。得体の知れない記憶の中にいすわる小さな柔らかな塊が急速に膨れあがり、あらゆるものを呑み込んで行こうとしている。それは西陽の輝きが届くのを待ちわびていたように重なり合う場所の時間を消し去る。父親の、母の名を叫ぶ声が血飛沫のように放たれる。僕は断崖に佇む母の姿を見る。フロントガラスを通して、母の姿はまるで夢の中の出来事のように霞んでいる。その時間と僕の中の時間が遠く隔たる。お母さんと僕は心の中で叫んでいる。母の体は断崖をかけ上がる風に今にも吹き飛ばされそうに揺れている。黒い髪が宙に舞い千切れそうに見える。それでも母は必死に手を伸ばす。断崖の中に向けて何かを掴み取ろうとするかのように身を乗り出しながら叫び続けている。可奈を呼んでいる。確かに可奈を呼んでいるんだ。どうして、お母さん、可奈はここにいるよ、と僕は言った。


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