第5話
そこ?、そことはいったい何処だろう。じゃあ、そこには何があると言うのだろう。父は車のハンドルを握りながらあの海を見ているのだろうか。その横で母は眠っているのかも知れない。きっと妹も隣で眠ってしまったのだろう。音も無く、時が行く、嗅ぎなれない匂いのする、世界に閉ざされて。僕達はかつて僕達が立っていた場所に広がる深淵の縁に気付いてしまう。でもそれに気付いた時、はたして僕達は何処を歩いているのだろう。僕は目に見えるこの世界の明るさを全く感じなかった。すべての色は空しく、虚空の中に抜け出していた。僕のはく息の奥にある心臓の音が空々しく喉を突き上げる。ここは何も無い世界なのだ。何も無い世界が僕に意味を無理強いする。意味なんてあるはずが無いのにと思う。僕はまた再び眠りに落ちて行った。その途中で僕は長い夢を見た。まだ眠りに落ちるほんの僅か前だったような気がする。お兄ちゃんと僕を呼ぶ可奈の声が、森の木々の間をすり抜けて僕の背中に届いて来た。僕は目を開けた。すると僕はあの森の道を歩いている。その声に僕は立ち止まって振り向いた。森の空気はまだ冷たくて、妹の吐く息が白く忙し気に現れては消えている。息づかいが聞こえてきそうだ。少女の体が木々の幹に見え隠れしている。その幹の肌に小さな手が止まる。本当に小さな手だ。目線を逸らせばもう見逃してしまいそうな手だ。その手は幾つかの幹に止まりながら近づいて来て、やがて可奈が僕の目の前に現れる。赤いランドセルが背中で重くぶらさがっている。僕はそのランドセルを妹の背中から取り上げて肩に担ぐと妹の手を取って、また森の奥へ向かって歩き始めた。深い森だった。鳥の声も風の音もしない。随分歩いたはずなのに僕達はまだ歩き続けている。辺りの木々や叢が色を深くしてゆく。薄暗い闇が次第に近づく気配を見せ始める。可奈は僕の手を握ったままただ黙って付いて来ている。さっきから僕はこの森に不安を感じ出している。違和感があるのだけれど、それが何なのか解らない。僕は妹の手を握り直す。心の中で僕はこの道を引き返えした方がいいと思っているのだけれど、どうしても引き返せない。
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