第2話
元いた世界ではマンガかコスプレでしか見たことのないクラシカルなメイド服に着替えて志穂は姿見の前に立った。実際にはメイド長のシルキーのなすがまま言われるがままに着たという感じなのだけれども。
「これで……大丈夫です」
志穂の頭に乗っているメイドキャップの位置を直し、短く切った黒髪を撫でてシルキーはこくりとうなずく。
シルキーも志穂と同じメイド服姿だ。足首まで隠れるほどの黒いスカートに丈の長い白のエプロンを身につけている。感情の起伏がないのか、表に出ないのか。いつも抑揚のない調子で喋る女性だ。
「それでは、こちらをお願いします」
そんなシルキーがやはり抑揚のない調子で言って差し出したのは銀色のお盆だ。お盆には濃い紫色の液体が入ったグラスが乗っていた。
「できたばかりの果実酒が届いたのです。産地はこちらのメモに書いてあります」
グラスの下に置かれたメモには、確かに黒いペンで何か書かれている。
「クレイズ様の部屋は先程、説明したとおりです。粗そうはあって結構です。肩書は領主でもしょせんはクレイズ様ですから」
メイド長というくらいだから領主であるクレイズに仕える身のはずだ。だというのに、シルキーは澄ました顔のまま。〝しょせん〟などとさらりと言う。志穂は困り顔であいまいにうなずいた。
「何か聞かれたら素直に答えてください。遠慮は無用です。粗そうはあって結構です」
大事なことなのだろう。同じことを二度言ってシルキーは志穂の後ろに回り込んだ。
「メイドとしての初仕事です。それでは、お願いします」
シルキーにそっと背中を押され、志穂はふかふかの絨毯を踏みしめて長い廊下を歩き出した。
父が〝異世界〟と呼び、追い求めていた場所。死に場所になると思っていた場所。この場所に来て一週間。
なぜかメイドとして働くことになった志穂が初めて与えられた仕事が〝これ〟だった。
***
「失礼します。旦那様、
扉をノックして寝所に入ると志穂はシルキーに教わった通りに言って一礼した。
「来たか、来たか。もっと近くに来い!」
天蓋付きのベッドに横たわって本を読んでいたらしいこの邸の主――クレイズ・ナイトメアが手招きした。声の調子は少年のように天真爛漫だ。けれど、領主をしているくらいなのだから父に近い年令なのだろうと志穂は思っていた。
そもそも人間と同じような年の取り方、寿命なのかもわからないのだけれど。
クレイズに促されて志穂はベッドの枕元へと歩み寄った。志穂がお盆を差し出すとクレイズはグラスを受け取り、ワインによく似た果実酒を一口含んだ。
「うむ、すっきりとしていて飲みやすい。これは……ミリア北部のものだろう?」
どうだ! と、言わんばかりに言うクレイズに志穂はメモを差し出した。
「シルキーさんが書いてくださったのですが……」
メモを受け取ったクレイズは目を丸くする。
「聞くのも話すのも問題ないようだから同じ言葉を使うところから来たものと思っていたが……文字は読めないのか。もしや、お前が生まれ育ったところでは読み書きは習わないのか?」
「いえ、小学校か……幼稚園の頃から習います」
「ショウ、ガ……? ヨウチ、エン……? まぁ、良い。おいおい聞くことにしよう」
噛み合わない会話に困り顔になっていたのだろう。クレイズはそれ以上、志穂を追及するのはやめてメモに目を落とし――。
「ふむ……ふむ? あ、えっと……や、やはりな! う、うむ、今年も良い出来だ!」
上擦った声で言った。恐らく、クレイズの予想とは全然、違う産地が書かれていたのだろう。
「さて、志穂」
咳払いを一つ。クレイズはサイドテーブルにグラスを置くとベッドから立ち上がった。
そして――。
「お前にはいろいろと聞きたいことがある。だから、ほら。こっちに来い。お前の声は小さくて離れていてはよく聞こえん」
志穂を軽々と抱えあげるとベッドに下ろし、自身も隣に横たわると腰に腕をまわして引き寄せた。
「そう怯えるな。こんなに小さなお前を取って食ったりはせん」
小さくなって固まっている志穂の背中をクレイズはけらけらと笑いながら大きな手でぽん、ぽん……と叩いた。頭にはクレイズの太い腕が当たっている。一応は雇い主とメイド、邸の主人と居候という関係なのに腕枕だなんて。
なんだか、むしろ――。
「……お父さん、みたい」
「ん? 今、なんと言った?」
小さ過ぎて志穂の声はクレイズの耳には届かなかったようだ。不思議そうに首を傾げるクレイズに志穂はゆるゆると首を横に振った。
「それで聞きたいことというのは」
尋ねてみたが大体の予想はついていた。
志穂は得体の知れない穴の唯一の手掛かりだ。得体の知れない不審者でも屋敷に置いて、食事や衣服、寝る場所やメイドという仕事まで与えて面倒を見てくれているのはそれが理由。
だから、勘違いしてはいけない。
クレイズも、シルキーも、この屋敷にいる人たちも志穂に優しくしてくれるけど、それは利用価値があるから。
利用価値はないと判断されれば――。
「いろいろとあるのだが……そうだな、どんな話からしてもらおうか」
クレイズにぽん、ぽん……と優しく背中を叩かれて志穂は唇を引き結んだ。
何を聞かれるのだろう。クレイズたちが知りたいことを自分は知っているだろうか。うまく答えられるだろうか。クレイズたちが知りたいことを知らなかったら、うまく答えられなかったら、どうなるのだろうか。
クレイズの質問を身構えて待っていると、ぽん……と背中を叩かれた。
「よし、お前が元いた世界の物語を話して聞かせてくれ。父や母、乳母が寝る前の子供に読んで聞かせるようなやつだ」
「……物語、ですか?」
予想していたのとは違う質問に志穂は口をぽかんと開けて固まった。志穂が話し始めるのをうきうきして待っていたクレイズだったが志穂の様子に気が付いたらしい。
「もしかして、お前の世界に物語というものはないのか。おとぎ話だ。作り話だ」
困り声で尋ねた。
「い、いえ、あります」
「なら、父や母、乳母が寝る前の子供に読んで聞かせる風習がないのか」
「いえ、それもあります」
ただ、もっと別の――現実的なことを聞かれると思っていたのだ。想像していたのとは全然、違う質問に戸惑って、答えに窮してしまったのだ。
「私が所望しているのはそれだ。私はもう寝る。寝る前にお前に物語を一つしてもらいたいのだ」
本当にそんなことでいいのだろうか。もっと聞きたいこと、聞くべきことがあるのではないだろうか。
志穂が迷っているとクレイズは大きな手でぽん……と背中を叩いた。
「話して聞かせよ。これは領主としての命令だ」
吐息が髪にかかるほどの近さでそう囁く。命令と言いながらも優しい声。クレイズの吐息にトクンと小さく跳ねた心臓はすぐにじんわりと温かいもので満たされた。
「わかり……ました」
懐柔するためにまずは関係ない話を、と考えているのかもしれない。でも、父に添い寝してもらった子供の頃のようにすごく安心するのだ。
心地良いまどろみに目を細めて、志穂は昔、読み聞かせてもらった物語を思い浮かべた。いざ思い出そうとすると最初から最後まで話せそうな物語はあまり多くない。
しばらく悩んで――。
「桃太郎……と、いうお話です」
志穂はか細い声でそう言った。
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