夜ごと、メイドは語る。
夕藤さわな
第1話
両手に手錠、腰にロープを巻かれて移動するようすはまるで犯罪者だ。実際のところは犯罪者というより実験動物なのだけれど。そんな扱いを受けても痩せ細った少女は抵抗することもなく歩いていく。
幼い顔付きと低い背、やせ細った体のせいでぱっと見は小学生、十一、二才に見える。でも、この研究所に連れて来られるまでは大学に通っていた。十九才か、二十才になったのか。窓もない部屋にずっと閉じ込められていたせいで時間感覚も日付感覚もなくなってしまった。少女自身も今、自分がいくつなのかわからない。
父にアビシニアンモルモットみたいだと言われたやや癖のある黒髪は無造作に伸びっぱなしになっている。何ヶ月か、何年か。手櫛すらろくに入れていないせいだ。
淡い緑色の検査着は膝下まで隠れるワンピース型なわけではなく、少女には大き過ぎるサイズしか用意されていなかっただけのこと。その証拠に片方の肩はだらしなく見えてしまっていた。
実験で使用されるモルモットやハツカネズミは透明なケースに入れられる。両手の手錠と腰に巻かれたロープを外された少女も筒状の透明なケースに入れられた。
自ら、特に抵抗することもなく入っていった。
スーツを着た人や白衣を羽織った人たちがアクリルガラス越しに少女と、少女が入った〝装置〟を見つめている。
立ちくらみでも起こしたのか。ふらりとよろめいて筒状のケースに手をついた少女を見て、白衣を羽織った男がマイクの前に立った。
「中央に真っ直ぐ立つようにね、志穂ちゃん。でないと体の一部だけが転移されてしまうよ」
少女――志穂の体調を心配するでもなく、白衣を羽織った男はマイク越しに言う。
「頭だけ転移してしまった君のお父さんみたいにね」
スピーカーを通して聞こえてくる男の声は薄ら笑いを含んでいた。だが、その声に反応することもなく、志穂と呼ばれたは少女はぼんやりと自分の裸足のつま先を見つめるだけだ。
「お父さんが作った装置は未完成だった。でも、あの日の失敗を
男が言う〝大丈夫〟という言葉の軽さを志穂は知っていた。
未完成だったのではなく周囲の思惑に気が付いた父が装置を完成させなかっただけだということも志穂は知っていた。
この研究所に捕らえられてすぐに見せられた光景を思い出す。
降下してきた輪っか状の装置に父の頭だけが飲み込まれ、残された首から下の体がぐらりと傾いて筒状のケースに崩れかかった光景を。
透明なケースに血がべったりとついて広がった光景を。
見た瞬間は泣いたし、吐いたし、叫んだ。しばらくはふとした瞬間に思い出し、夢に見た。大好きな父が目の前で死んだことも、自分も父と同じように死ぬのだろうことも悲しくて恐ろしかった。
でも、檻のような研究室の一室に閉じ込められ、実験動物のように扱われているうちにそんな気持ちは薄れていった。
いや、あらゆる感情がなくなっていった。
人形のような無表情で自身のつま先を見つめるばかりの志穂を見て、白衣を着た男は肩をすくめる。
「お父さんで実験したときと同じ座標にしておいた。運が良ければお父さんに会えるかもしれないよ」
首から上だけの、父と――。
白衣の男の無神経で非情な言葉にも志穂は無表情のまま。泣くことも、吐くことも、叫ぶこともしなかった。
「それでは、始めます」
志穂にではなく後ろに立つスーツを着た人たちに向かって白衣の男がそう言うのを聞いても。
父を殺した装置が動き出しても。
志穂はやはり自身のつま先をぼんやりと見つめているだけだった。
「消耗しつつあるこの地球に代わり、第二、第三の地球を手に入れるため。人類の未来を守るため。君と君のお父さんはその
志穂からしたら父も自分もただ殺されるだけのことなのに、白衣の男はさも素晴らしいことのように言う。その声がふと遠退いて志穂はようやく顔を上げた。
ジー……と微かな耳鳴りがするだけでそれ以外の音は一切しない、真っ白な空間にいた。
でも、それも一瞬のこと。
叩き付けるような強い風に反射的に目をつむる。そして、再び目を開けると青空が広がっていた。
虹色に輝く雲が浮かぶ、志穂が生まれ育った世界と似ているようで違う空。
「い、せかい……」
父が〝異世界〟と呼んで追い求めた地球とは違うどこかにある空。
多分、きっと、そうであろう空を見つめて志穂は微笑みを浮かべた。人形のような無表情ではなく、へら……と気の抜けた微笑みを。
親友だと思っていた男に裏切られ、自らが作った未完成の装置で首から上だけ転移させられて死んでしまった父。それでも、追い求めた〝異世界〟の空を見ながら死ねたなら少しは幸せだったのだろうか。
少なくとも大好きな父が死ぬ前に見ただろう空を見ながら死ねるなら自分は幸せだと、志穂はそう思った。
体のどこも欠けることなく〝異世界〟に転移したことにこのときの志穂は気が付いていなかった。
装置によって出来た〝穴〟が遥か上空に開き、このままでは地面に叩き付けられて死んでしまうことにも、このときの志穂は気が付いていなかった。
ただ、自分は死ぬものと思い込み、やっと終われると安堵していただけ。
檻のような研究室の一室に閉じ込められ、実験動物のように扱われて心も生きる気力も失くしてしまっただけのこと。
だから――。
「なんだ、気を失っているのか」
叩き付けるような風が止み、やけに明るい男の声が耳元で響いても、志穂はぼんやりとしたまま。顔をあげて声の主の顔を確認することすらしなかった。
「空から落ちてくるから有翼種か飛行魔法でも使えるのかと見守っていたが、ぼさっと見守り続けていなくてよかった」
「だからと言って何ともわからない穴から落ちてきた、どこの誰ともわからない者を領主自ら助けに行かないでください! 抱き留めに行かないでください! 何かあったらどうするつもりですか!」
「しかし、ずいぶんと軽いな。有翼種は空を飛ぶために体が軽くできていると聞くが……やはり有翼種か!」
「こちらの話を少しは聞いてください、クレイズ様っ!」
怒鳴る従者らしき男を完全に無視してクレイズと呼ばれた男は志穂の耳元でけらけらと呑気な笑い声をあげた。
父にアビシニアンモルモットみたいだと言われたやや癖のある志穂の黒髪をクレイズは大きな手でそっと撫でる。
「コエットのように柔らかな髪だな」
囁くようにそう言う声はどこまでも優しい。
手の甲で頬を撫でられ、志穂はクレイズの肩に頭を預けてゆっくりと目を閉じた。
「肌も服もすっかり汚れているではないか。シルキーに言って綺麗にしてもらわんとな」
「だから……こちらの話を少しは聞いてください、アホ領主っ!!」
クレイズと従者の声、それから馬の蹄らしき音を他人事のように聞きながら志穂はゆっくりと意識を手放した。
大好きな父が死ぬ前に見たのと同じ空を見て、誰かに髪を撫でられながら死ねるなら、幸せだと、そう思いながら――。
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