Number 013「月夜に照らされる」
楊・綺蝶は榛摺色の髪の持ち主であり、ひどく若々しく美しかった。
薄青の服装は華美というより清楚な印象を与え、本人の顔立ちも柔和で優しげ。
(たしか鳳国じゃ綺蝶って名前は、東の果てに棲まう水の精霊にあやかって付けられるって話だけど……)
水蝶宮の楊・綺蝶。
後宮の三貴妃にして、清澄な水の気を思わせる美人。
透明感のある彼女であれば、なるほど。
後宮に数ある宮殿のなかでも、水蝶宮が与えられていて不思議はなかった。
──夜。
日中の騒動も仮初の落ち着きを見せ、後宮は静かになった。
しかし、貴妃の住まう宮殿ではさすがに警備も厚いらしく。
薙刀を携えた女武者たちが、代わる代わるに寝ずの番をしてクセモノの警戒に当たっていた。
その警戒ぶりは熱心なもので、昼間の侍女たちの様子とそう変わりは無い。
「姫様は?」
「先ほどお休みになられました」
「そうか。だが私たちは、今日から最低三日は気を引き締めるぞ」
「はいっ」
楊・綺蝶は慕われている。
恐らく人柄が良いのだろう。
それは昼間垣間見た様子からも、少しだけ窺えた。
周囲の者に信頼を伝え、それが自身の安心であると断言し。
間近で顔を見るのは初めてである俺にさえ、〝この
美人というのはおっかない。
ただ外見がいいだけでも人は無意識に好意を抱いてしまうのに、内面まで良さそうに見えれば上限は突破される。
楊・綺蝶が後宮入りしたのは十五歳。
そこから一年で子どもを身篭ったという噂があるのは、つまりそれだけバカゴリラも楊・綺蝶に惹かれた証だ。
(けど)
残念ながら、バカゴリラは何処まで行ってもバカゴリラなので、その一年の間に花街に行って高級娼婦ともセックスしている。
それこそが白銀姫こと俺の母親であり、妊娠期間や誕生の時期を考慮すると、だいぶ初期から女遊びは始まっていたはずだ。
結果として俺が生まれたワケだが、一方で楊・綺蝶には流産の噂もあり、そこから俺に恨みの矢印が向いていたとしても何ら不思議は無い。
十五歳で孕んで十六歳で出産とか、前世じゃまったく考えられない非常識な話だ。
だが、そのあたりに今さらツッコミを入れるのはナンセンスという他ない。
父親が息子に薬漬け乱交パーティを自慢する家庭環境で、倫理も常識も無いのである。
ともあれ、楊・綺蝶は今年で二十六歳。
若々しく美しいと言ったが、彼女は今以って事実として若々しいのだった。
たまにある園遊会では、遠目から何度か目にしたコトがあったが、近くで見てみるとまた別格。
天萬は懐妊の可能性を仄めかしていたが、まだそうと分かる特徴は無かった。
妊娠していたとしても、かなり初期なのかもしれない。
(はぁ、嫌だなぁ)
こんな綺麗で優しそうなのに、裏では暗黒面に堕ちてるかもしれないとか、そんなふうに疑わなきゃいけないなんて。
鳳・玉瑛くんの人生は捻じ狂っていて困ります。
それはさておき、水蝶宮への侵入成功です。
(うーん。超人が一人もいないのか?)
常日頃の命を懸けた逃走劇のせいか、俺の肌感覚は敏感になっているのかもしれない。
後宮ではそこかしこから隙だらけな人の気配を感じられ、その人の意識や集中が何処に向いているのか、リアルタイムで何となく分かった。
夜になり多少は人も疎らになれば、警備の隙間を縫って音なく動くのも容易く、問題なく美人の寝室に忍び込めそうである。
(──ふむ)
どうやら俺は、自分でも気づかない内に感度が五十倍くらいになっていたらしい。
命を狙われすぎて他人の気配に敏感になり、音を殺して動けるのは空燕先生の鍛錬のおかげか。
燕のように身軽な動きを自在にするには、足腰から爪先への体重移動を繊細に制御する必要があるからな。
万・亜門ほど気持ち悪い〝無音〟ではないが、俺もなかなかに静かな身体駆動を会得したものだった。
ほぼ半日ほど藪の中でジッとしていたので、カラダの節々がだいぶ強ばっていたのだが、調息で内気を循環させてどうにか全身を揉みほぐした。
さて、楊・綺蝶の寝室は何処かしら?
(ここかな──?)
そっと扉を開けて中を確認。
すると、見事にアタリを引いた。
楊・綺蝶はスヤスヤと浅く寝息を立てている。
寝付いたばかりなのかもしれない。
先ほども警備の女武者たちが、たしかそんなコトを言っていた。
部屋の外に人を置かないのは、バカゴリラの来訪を考慮してのものだろう。
鳳皇のお通りがある場所に下賎の者がいてはいけない。
たしかそんなルールがあると、いつだったか誰かから聞いた。
(あいにく、今日やって来たのは俺だけど……)
用事は枕元に手紙を置いておく。
それだけで済む。
抜き足差し足忍び足。
特に問題なく寝台に近づき、そっと枕元に手紙を置いた。
(やった!)
ミッションコンプリート!
美人の寝顔を拝めるオマケつき!
後は人知れず夜闇に紛れて、後宮からおさらばするだけだ。
(どっちかって言うと、むしろここからが本番みたいなところあるよな……)
何にせよ、このまま無事に帰れさえすれば一先ずはオールオッケー。
獺・暁明への反撃としては、かなり地味で控えめな〝仄めかし〟になるだろうけども、いったんはこういう所から始めていければと思う。
たとえ楊・綺蝶が獺・暁明と完全なグルで、殺意1000パーセントで俺を殺そうと企んでいたとしても、妊婦かもしれない相手を殺したりは出来ない。
それは人として、絶対にやっちゃいけない行いだ。
(それに今日の俺は豪農出身のタマ子ちゃん)
銀髪銀瞳の皇太子、鳳・玉瑛ではない。
後宮で下働きをする磨けば光りそうな下女である。
そしてそんな女の子は、今宵を限りにいなくなるのだ……
抜き足差し足忍び足。
来た道を行きと逆順に戻って水蝶宮を出る。
超人のいない後宮は、ザコな俺でも楽な隠密行動が取れた。
つまり、それほどにここは普段から平穏で住み良い場所なのだろう。
少なくとも、人間やめちゃってます人間はいない。
女の鳥籠であり、手弱女の集う花園。
超人がいないのは恣意的なものも感じるが、今の俺には考えたところで詮無き話。
塀、どうやって越えよう?
どっかによじ登れそうな場所がないか、少しだけ調べてみるとするか。
そんなふうに塀を眺めていると、雲間から僅かだけ月明かりが差し込んだ。
俺は慌てて、近くの物陰に身を移動させるが──
(……ん?)
そんな俺と同時に、月の袖から逃れるように動く影が、塀から飛び降りるのを見た。
超人の気配だった。
────────────
────────
────
──
寝室を去っていく気配に、実のところ綺蝶は数秒ほど前から気がついていた。
(子ども……? 何かを、置いた……?)
気配が遠のき、後ろ姿だけを薄目で確認する。
夜間であり寝入っていたばかりのため、視界はボヤっとしていてハッキリはしない。
それでも、自分の寝室に入ってきたのが、下女の格好をしていたのは分かった。
(知らない子だわ……)
その事実に、まずは驚きと少しの不安を得る。
普段は側仕えである侍女以外、自分の寝室に入れるコトはない。
もちろん、主君であり夫である今上の帝は除くが、だからこそ相手は確実に不法侵入者だった。
当代の鳳皇は筋骨隆々の大男であり、間違ってもあんな小柄な体型ではない。
(……けど、私になにか、直接的な害意があったワケではない──?)
女の細首ひとつ。
掻こうと思えば容易く掻けた状況で、謎の下女は枕元に何かを置いた。
充分に時を置いてから、恐る恐る確かめる。
上体を起こして身体を捻ると、ちょうど天井近くの窓辺から月明かりが紛れ込んだ。
闇に慣れていた両目は微かな明かりにも眩しさを覚えたが、枕元にあるものが文らしきコトは手触りからも分かった。
(──恋文、ではないわね……)
香に浸した薫りもなければ、見目のいい花なども挟まれていない。
恋文だと思ったのは、後宮では稀に同性からも手紙を贈られるからだ。
今上の帝は文を交わして愛を綴るようなタイプではなく、ただひとりの男性に対して後宮はあまりにも多い女を抱えている。
美人であるコトは、嫉妬も招くが憧憬や恋情も集めかねない。
然れど、今晩、綺蝶のもとに届けられた文はそういった類いのものではなさそうだ。
〝危険──警戒を〟
「…………」
不審。
養父からの連絡ではない。
緊急性の伴う警告であれば、養父はもっと直接的なメッセージを送ってくる。
水蝶宮には養父の家から送られてきた侍女もいるし、手紙など証拠になりやすいものを〝燃やせ〟などの指示もなく送ってくるのも不審だ。
では、送り主は──?
「いえ、そうではないわね」
この場合、真っ先に考えるべきは文の内容である。
危険──警戒を。
これはどう考えても、綺蝶の身を案じているものとしか思えない。
だが、簡潔すぎる内容は詳細が不明すぎて、いつ何にどこで何を警戒すべきなのかが分からなかった。
あるいは差出人も、綺蝶に迫る危険に目星がついていないかのように。
「それでも、私に文を届けたってコトは──」
危険が訪れる。
それだけは確実だと自信を持って頷ける根拠があったからか。
今日はちょうど、侵入者騒ぎもあった。
陰謀の香りがする。
野望と野心と、それに巻き込まれた人間が軋みを上げながら足掻く音も。
綺蝶はとりあえず、呼び鈴の紐を引いた。
貴人の寝室には側仕えや侍女を呼ぶための鈴紐があり、それを引っ張れば別室で待機している者がすぐに駆けつけてくれる。
けれど、
「──え?」
引いた鈴紐が、そのまま床に落ちた。
普段なら一定のところで手応えがあり、自動的に巻き戻っていくのに。
紐はブツリと断線していたのか、綺蝶が引っ張った勢いそのままにスルスルと床に落ちてしまった。
驚いた綺蝶が不意を突かれた思いで固まると、その瞬間、部屋の真ん中に異形の影が佇んでいた。
扉の開閉音が、遅れて響き月光がシルエットを映し出す。
角の生えた鬼面の武者だった。
「──ッ!? な、だれ──」
「────」
返答はなく、武者は剣を黙々と抜く。
綺蝶は察した。
白刃の煌めきが、自分を襲おうとしている……!
「だ、だれかっ! たすけ──!」
声は届かない。
迫る凶器の方が早い。
不審な手紙の内容は、まさかこれを警告するためだったのか。
(だとしても、ちょっと間が無さすぎるんじゃ──!?)
恐怖から両目を閉じ、腕を翳して身を庇おうとした直後。
ガキィィィィィィンッ!!
刃物と刃物が交差する。
鬼武者と綺蝶の間には、先ほどの下女らしき子どもが入り込んでいた。
手には先ほどには無かった、一振りの鳳国剣を携えている。
(ま、守って……くれた……?)
綺蝶はその横顔を見た。
ハッキリと見た。
歯を食いしばり、目を見開きながら鬼武者に対峙する幼子。
髪は黒い。
だけど、目だけは……
「
秋の夜の月のように。
冴え冴えと凍る銀色だった。
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