しあわせの25セント

四季苺

しあわせの25セント

「│ぜろ!」

 シャンパンゴールドの電飾が輝く丸の内仲通りで、│紅林星野くればやしほしのは叫んだ。突然の大声に何事かと振り返る人もいたが、すぐに「ああ大学生のおふざけね」という感じで興味を失ったように見える。

「ちょっ、ちょっと星野〜」

「なんだ、ストレスか?」

 恥ずかしそうに周囲を窺いながら私の袖を引っ張るのは│高倉紬たかくらつむぎ。涼しい顔で上から見下ろしているのは、│長谷大志はせたいし。二人とも、私のバイト仲間だ。

 今日は三人とも17時からのシフト。東京駅で出くわしたから一緒にバイト先のカフェに向かっているところだった。

「ごめん、カップルばっかりでムカついて」

 十二月はイルミネーションを観にくる恋人同士が特に多い。この時期の土日やクリスマスはカフェも大忙しだ。時給は変わらないのに。

「星野、彼氏いるじゃ〜ん」

「………」

 紬の言葉を流そうとする私に、大志がズバリと切り込んでくる。

「なんだ、│北斗ほくととケンカしたのか」

「ケンカっていうか…」

 北斗というのは、私の彼氏だ。大志のイトコで親友の彼とは、大学生になってすぐ学外のサークルで出会った。その年の秋に付き合い始めたから、もう交際期間も一年ちょっと経つ。だというのに、アイツは…。

「留学するんだって」

「え~っ」

「そうか」

 重大事件のように驚く紬と、だから何だという表情の大志。

「どれくらい?」

「一年だって」

「えっ長い!いつから?」

「明後日」

 沈黙。

 いつも冷静な大志も、さすがに目を見開いている。彼も聞いていなかったようだ。親友なのにね。

「…そ、それは急に決まった話なの?」

 紬はせめてもの救いを求めて、質問を重ねる。

「ううん、何ヶ月も前から決まってたし準備もしてたらしい。けど昨日聞いた、ラインで」

「…それは、星野が怒るのも無理はないな」

「そうでしょう?べつにいいよ、北斗がアメリカに行こうがアフリカに行こうが、勝手だよ!だけどさ!もうちょっと早く教えてくれたって良くない!?私、今日も明日も予定ぎっしり入れちゃってて、出発前に会うこともできないんだよ!?」

 紬はコクコクと何度もうなずいて、賛同の意を示してくれた。大志も、無表情のように見えるけど眉間にちょっとだけシワが寄っているから怒っているようだ。

「結構長い間付き合ってるのに…北斗にとって私って、そんなに軽い存在なのかなって思ったら…」

「うんうん、悲しいよねっ」

 紬は両手のこぶしをギュッとにぎって応援するようなポーズをする。かわいい。だけど、反論させて頂きます!

「違う!私は怒ってんの!」

 すぅっと息を吸い込む。瞬間、大志が両手でサッと紬の耳をふさぐのが見えた。

「爆ぜろ!北斗!!」

 私の叫びは丸の内の空に吸い込まれていった。



                ★

 私は最初、北斗が嫌いだった。

 だって胡散臭いから。いつも穏やかに微笑んで、誰に対しても公平で、本音を見せない。そんなヤツ、信用できないでしょ?

 だから、北斗が「星野はオレに冷たいよな。なんで?」なんてきいてきた時、ハッキリ言ってやったんだ。

「アンタと親しくしたら、変な壺とか買わされそう」

と。

 そしたらアイツは大笑いして、「よく分かったな」って言った。その笑顔は「ホンモノ」だった。紛れもない、長谷北斗だった。

 それから北斗は私によく構ってくるようになった。みんなに見せるよそゆきの北斗じゃなくて、腹黒くて怠惰で、少し弱いところもある本当の北斗で。


 そんなの、特別みたいだ。


 そういう存在になれたこと、ホントは嬉しかった。でもこの気持ちを素直に認めるのは、なんかイヤだった。サークルで一番人気の男子に簡単に落ちたみたいで。そんな私が「なんか良い雰囲気になって自然と付き合ってた」とか、「いつの間にか友達から恋人同士になってた」なんて、できるわけがない。

 ああそうですよ、意地っ張りなんです!


 「オレの彼女になりませんか?そうしたら、この幸運になれる壺を差し上げます」

 十九歳の誕生日に、北斗はそう言って瑠璃色の花瓶を差し出してきた。花瓶を斜めに走る細かい白い塗料が、まるで天の川みたいなデザインだった。

「壺…」

 なんだこの交際の申し込み方は。ロマンのかけらもない。

「良いでしょう、この壺」

「そうだね、綺麗」

 どこで買ったんだろう?こんな綺麗な花瓶、見たことない。

「欲しいでしょう、この壺」

「まぁね。でも、アンタと付き合わなきゃもらえないんでしょ?それは嫌だわ」

「幸せになれますよ」

「いや、絶対ウソ」

 笑って流そうとする私の両手を取り、北斗は花瓶を手渡した。

「…騙されちゃってくださいな。そうしたら…」

 言葉はそこで途切れた。

 ああ、そうか。北斗は私に「幸せになれる壺欲しさに騙されて付き合う」という体を作ってくれたんだな。それは、意地っ張りな私に作られた、やさしい逃げ道。

 ふぅっと息を吐いて、覚悟を決める。

「ホントに?ホントに幸運の壺なの?」

「もちろんです。今なら、なな、なんと!こちらのキシリトールガムもついてきます!」

 北斗はパーカーのポケットからヨレヨレの包装紙にくるまれたガムを差し出してきた。

「古そう!汚い!いらない!」

 壺を抱えたのとは反対の手で、ガムを叩き落とす。

「じゃあ、壺のみで交渉成立ですね。」

「…ハイ」

 なんだか気恥ずかしくて、目を逸らすと北斗はずいっと一歩距離をつめてきた。

「オレの彼女になったということなので、ハグしてもいいですよね?」

「………ハイ」

 北斗は私の背中に腕を回して、壊れ物みたいにそっと抱きしめてきた。いや、実際、私と北斗の間には壺という壊れやすい物があったのだが。

「幸せにするよ」

 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、北斗はそう言った。

「幸せになる」じゃなくて「幸せにする」…言葉にすればほんの少しの違いだったけれど、そこに込められた意味を思って、私は不覚にも涙をこぼしてしまったのだった。



               ★

「ホントに騙された!!!」

「コラ、静かにしろ!」

 店長に頭をペシッとはたかれて、ハッとする。昔のことを思い出していたようだ。

「すいません…」

 慌てて店内を見回すが、お客様はそれぞれ寛いだり談笑したりしていて、店員(私)の奇行には気付いていない様子だった。

 チョコレートブラウンの壁、オフホワイトのソファ、イミテーションのシャンデリア。ヨーロッパをイメージしてアンティーク調の家具で飾られた店内は時が止まっているような不思議な感覚がする。

 チラリと時計に目をやると、まだ夜の七時。お店が終わって片付けをして帰れるのはまだまだ先だ。

「今日はなんだか上の空だな。何かあったのか?…ハッ!もしやオレの大人の魅力に気付いてしまったとか?」

 店長はあごに人差し指を添えて、ニヤリと笑う。

 オマエこそ静かにしろと言いたい。

「いえ…大丈夫です」

「何が」

「店長には大人の魅力を感じていないので大丈夫ってことです」

「冷たいな!…まぁ、相談したくなったらいつでも言えよ?おっと、電話だ。ちょっと離れるからホール頼むな」

 店長は私の頭にポンと軽く手をのせると、バックヤードへと消えていった。セクハラですよ、触らないでください。

「何アレ…」

「また紅林さん…」

 背後のカウンターからヒソヒソ話が聞こえてきた。声の主は私より二、三歳年上のフリーターである藤原さんと高梨さんだ。彼女たちは店長のファンなので、よく構われている私が気に入らないのだ。

「店長なんかにちょっかい出されても全然嬉しくないんですが」

「はぁ!?」

「アレ…声に出てた?」

 私は口を手のひらで覆ってみる。もう今さらだ。

「出てたわよ!何よ!」

「いや、『何アレ』とか『また紅林さん』とか聞こえてきたのでご説明を。私は、お二人と違って店長なんか全然好きじゃないですよ」

 聞えよがしに悪口を言われるのはしょっちゅうだった。これまでは面倒だったから相手にしなかったけど、今日は黙っていられない。本日の紅林はご機嫌が悪いんです。

「そうですよ。星野にはちゃんと彼氏がいるので」

 キッチンの奥から大志が洗い終わったカップとソーサーを運び込んできた。

「わっ!は、長谷くん!」

 藤原さんと高梨さんは後ろを振り返るとびくりと身を震わせた。二人は大志のことが怖いらしい。たぶん、背が高くて無表情だからだ。いいヤツなのに。

「星野、オーダー」

 大志が目線で指し示す方向に、軽く手をあげているお客様が見えた。追加注文のようだ。

「ただいま参ります」

 ギャルソンエプロンから伝票を取り出しながら、私はテーブルへと足を速める。

 つい感情的になってしまったが、もめてもいいことはない。お金のために働いているんだ。冷静に行動しなくちゃ。

「オーダーお願いします」

 オーダーのカウンターには紬がいた。彼女は今日、オーダーをキッチンに通して食器の準備をする係になっている。あと、夜はあまり来ないけどテイクアウト窓口の担当も。ちなみに藤原さん達がドリンク、大志がキッチン、私と店長がホールを担当している。今日はシフトに入れる人数が少なめだが、あまり混んでいないので余裕がある。

「大丈夫?」

 紬は心配そうに私を見つめた。

「うん、大志に後でお礼を言わなくちゃ」

 追加注文はすぐに出来上がり、笑顔でお客さんのもとへそれを届けた後はやることがなくなってしまった。

 こんな日に限って暇なのはなんでよ、忙しかったら良かったのに。暇だと、ついアレコレと考え事をしてしまうじゃないか。窓の外に視線を移すと、夜の闇の中で輝く金の光が目に映った。北斗とイルミネーションを観に来たことはなかったな、とふと思う。そして、思考が過去へと引きずり込まれていった。


               ★

「ディズニーランドに行かないか?」

 先々月、北斗は唐突にそんなことを言い出した。

「は?」

 彼にしては意外すぎる提案に私は驚いた。上からひらひらと黄色い銀杏の葉が降ってきて、北斗のパーカーのフードに入るのが見えた時、ようやくフリーズが解除された。

「アンタ、そういうの好きだったっけ」

 取り除いてやろうと思って指で葉っぱを摘んだ後、やっぱり戻す。

「戻すな」

「いや、どれだけ降り積もるか見てみようかなと思って」

 北斗は苦笑いをして「で、ディズニーは?」と問い直した。

「んー。正直あんまり気乗りしない。ああいうアミューズメントパークって、女子の友達と行くから楽しいっていうか。紬とかさ。私べつにキャラクターとか好きじゃないし。可愛い女子が耳つけてはしゃいだり『キャー!ミッキー!』とか騒いだりしてるのを見るのが醍醐味じゃん?」

「おまえ、オッサンかよ」

「なんとでも言いなよ。私と北斗で行ってもスン…ってなりそう。アトラクションの待ち時間も研究資料読み込んだりして」

「………確かに」

「どっか行くならさぁ、私、国立科学博物館に行きたいんだけど。新しい企画展が始まるから…」

「それだと、デートっぽくない」

「ん?いつもこんなもんじゃない?」

「デートっぽいおでかけがしたいんです、オレは」

「…ふぅん?」

 私はなぜ北斗がこんなことを言い出すのかわからなかった。私達はお互いに結構忙しい。大学の課題をこなしたり調べ物をしたりする合間を縫ってバイトでお金を稼ぎ、時々サークルに参加しているので、毎日何かしら予定が詰まっているのだ。

「んー、じゃあ…冬休みなら行けるかも」

「遠いな」

 ムッとして私は言い返す。

「じゃあ、北斗は今月空いてる日あるの?」

 北斗はスマホを操作し始めた。スケジュールを確認しているのだろう。すると、すぐに絶望的な表情を浮かべた。

「…ない」

「なんなの」

「今日は夕方四時まで空いてる」

「舞浜にもたどり着けないわ」

「…だな」

 なんでデートっぽいことしたいの?と問いかけようとした瞬間、私のスマホのアラームが鳴った。

「あ、ゴメン。私、もうバイトに行かないと」

「ん。気を付けて」

 北斗は何事もなかったように微笑んで、手を振った。

 なんでもなかったのかな?

 少し歩いて振り返ったら、北斗はまだ同じ場所に座っていた。彼のパーカーのフードに、数枚の銀杏の葉っぱが降り積もっているのが見えた。



               ★

「思い出を作りたかったのかな?」

 独り言を口にしてしまって、慌てて口を塞ぐ。慌てて周りを見渡してみたが、小声だったので周囲には聞えていなかったみたいだ。店内にはもう一組しかお客様は残っていない。ラストオーダーを終えてキッチンは後片付けに入っている。

 なんだか疲れた。明日も朝早く研究室に行かなきゃいけないし、今日はなるべく早く眠ろう。

「お会計お願いします」

「はい」

 最後のお客様から声がかかった。ウチの店はテーブル会計なので、私が対応をする。店長?なんかいないから、煙草でも吸いに行ってるんでしょう。

「お会計、六千六百円となります」

「はいはい、ちょっと待ってね」

 初老にさしかかった男性は、ゆったりとした動きで小銭を探す。

「ん?これ違うな」

 トレーに並べた百円玉の中の一枚を人差し指で触れて、眉を寄せる。

「二十五セントですね」

 奥様らしき女性がふわりと笑う。財布の中にうっかり外貨が紛れ込んでいるなんて、海外に頻繁に行かれているということでしょうか?服装や仕草に品が感じられるし、なんか素敵。

「これは君にあげるよ」

 初老の男性はひょいとコインをつまみ上げ、私の手の平にのせた。

「幸せになれるかもしれないよ」

 笑顔でそう言われた時、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。嫌なことばかりだった今日の中で、唯一嬉しい出来事だった。

 アメリカでは、記念の年に発行された二十五セント硬貨を加工してお守りにするとか、聞いたことがある。

「…ありがとうございます」

 ふふ、と女性も笑い温かい空気が流れた。「ごちそうさま」と言って去るお二人を見送った後も、心地良い余韻を感じていた。


 …なのに


「紅林さん!ちょっと!」

 藤原さんと高梨さんが腰に手を当てて背後に待ち構えていた。



               ★

「…何ですか?」

 もう、最後のお客様も帰ったし、ちゃっちゃと清掃を済ませてちゃっちゃと帰りたいんですけどね。そう思いながら私は、次々と椅子を動かし始めた。この後掃き掃除をスムーズに行うための下準備だ。

「あなた、さっきお客様からチップもらってたでしょう?」

「ダメなのよ!チップもらうのは!店長だって断ってたんだから!」

「はぁ?チップて!二十五セントですよ?」

 反論しつつも手は止めない。帰るのが遅くなるのは嫌だ。

「お金はお金でしょ!?」

 冷静に、と思っていたけど抑えられないくらい腹がたった。


 今日のレートで、一ドルは百五十五円。二十五セントはその四分の一だから、三十九円にも満たない。

 でも私は嬉しかった。わずかなお金をもらえたことがじゃなくて、今日初めて会って、もう二度と会うこともないかもしれない私の幸運を、ほんの少しでも願ってくれたことが。

 でも、そんな気持ちはこの人たちには分からないでしょう。


「分かりました。店長に報告して渡しておきます」

「はぁっ?何ていう気よ!?」

「そのままですよ。お客様が『幸せになれるかもよ』と言ってご厚意で二十五セントくださったけど、藤原さんと高梨さんが『チップもらうんじゃねぇ』って言ったから、店長にお渡ししますって」

「何よそれ!」

「私達の印象が悪くなるような言い方しないでよね!」

 はぁ〜、うっっざ。もう取り繕うこともできず、あからさまに深い溜め息が出てしまう。チラリと目線をホールに向けると、自分の担当を終えた紬がホールの反対側の椅子をどんどん動かしてくれている。キッチンからは水音がするので、大志は洗い物やシンクの掃除をしているようだ。この人たちもさっさと片付けすりゃいいのに。

 なお、店長はまだ戻ってきていない。役立たずめ。

「…どこがいいんだか、あんなオッサン」

「…なっ!アンタ店長の悪口言ったの!?」

 キーンと耳に響く大声で、高梨さんが叫んだ。

「言ってません。どっちかというとお二人の悪口です。男の趣味が悪いんじゃないかと」

 二人は目を吊り上げてさらに怒り出した。

「あ、あの…」

 紬が手にホウキを持ったまま、オロオロしながら近くまで来る。取りに行けない状況なので、私はそれを頂戴して掃き掃除を始めた。目で大丈夫だと合図を送ると、彼女はうなずいて掃除に戻っていった。

 この際だからハッキリさせておこう。

「お二人は店長がお好きみたいですけど、私は全然好きじゃないです。今だってサボってるじゃないですか。みんな片付けてさっさと帰りたいのに。ホント無責任」

「あんな可愛がってもらってて何言ってるのよ!今日だって、相談しろって言われたり頭ポンッてしてもらったり!」

「あんなの嬉しくないです。むしろ嫌です。お二人は私を目の敵にしてますけど、店長は女たらしなので、他の子にも似たようなことしてますよ。シフトが被ってないから知らないでしょうけど、店長は私よりみるるちゃんとかリィナちゃんとかの方がお気に入りですよ」

 紬も可愛いので気に入られているが、この二人に目をつけられたら可哀想なので言わないでおく。

「誰よそれ!」

「店長に聞いて下さい。とにかく、逆恨みで私に突っかかってくるの止めてください。あんな人、好きになる価値ないですよ。こないだだって、バックヤードでお店のナイフ二本使って鼻毛切ってたし」

「え」

「やだ〜」

 二人は目を丸くし、紬は小さなつぶやきをもらした。

「汚ねぇし、危ねえ」という低い声がキッチンから聞えてくる。大志は片付けしつつ話を聞いているようだ。

「あと、オープンの準備で出勤してきたら、店長が寝坊して来てなくて店入れなかったことあったし」

「………」

「バイト辞めたいって言いに来た人から逃げ回ってたところも見たことありますし」

「………………………」

「あと、こないだも…」

 お二人が黙ってしまったので、間を持たせるために思いつくまま店長のしょうもない行動を話し続ける。もちろん床掃除の手は止めない。

「ふぅ!完了!」

 話していたらいつの間にかテーブル拭きまで終わっていた。これでもう帰れる!

「ほ、星野ぉ…」

「ん?」

 紬の声に気付いて振り返ると、店の入口に店長が立っていた。一体いつからいたんだろう。あと、なんか頬が濡れているような?

「な、泣いてる…」

 紬は哀れみの目を向けていたが、私は全く気にならなかった。



               ★

「お疲れさまでした〜」

 着替えを済ませてロッカールームを出る。ここはビル内のテナントの共用なので、他のお店の人への挨拶だ。藤原さんと高梨さんは担当の片付けが終わっていないので、まだキッチンに残っているだろう。

「おつかれ」

 ロッカールームを出てすぐの場所で、大志は本を読んで待ってくれていた。帰りが遅い時は必ず駅まで一緒に歩いてくれる律儀なヤツだ。

「うーわ!さむ!」

 ビルを出ると、キンと凍るような寒さが感じられた。ぶべし!と完璧な淑女に相応しいくしゃみをしたら、大志が私のトートバッグから勝手にマフラーを引っ張り出す。

「巻いとけ」

 ごっつごつの大きな手でお母さんみたいに世話を焼こうとする。やっぱりイトコだなぁ、北斗の行動と似ている。なんかムカついて「やですー!」と言ってそっぽを向いた。

「反抗期か」

 大志は無表情のまま呆れたような声を出す。すると紬が横から手を伸ばし、きれいに巻き直してくれた。

「星野、あったかくしとこ?」

「うん♡」

 私が急に素直になったので、大志の眉間にシワが寄る。

「…なんで北斗と付き合ってるんだ?オマエ絶対女子のが好きだろ」

 そう言いながら彼は、駅へと向かって足を進めた。私達二人も、それについて歩く。

「確かに私は可愛い女の子が好きだけど、恋愛対象じゃないんだよね。あ、それも可愛い女子限定だよ?│藤原さんと高梨さん《意地悪BBA》とか全然好みじゃないよ?」

「オマエは何にルビを振っているんだ…」

「え?ルビ?」

 大志のメタい発言に、紬は目をぱちぱちさせる。

「はー、真面目な話、なんであんなに絡んでくるんだろう?あの二人」

「…うらやましいんじゃないかなぁ?星野は背が高くてカッコイイし、ツヤツヤの長い黒髪も綺麗だし、あと偏差値高い大学に通ってるし…とにかくいろいろ、周りの人の目を引くんだと思う」

「ええ…」

 私はコートのポケットから、初老の男性にもらった二十五セントを取り出し、くるりと返して眺める。表面には初代アメリカ大統領、裏面にはアメリカの国鳥である鷲がデザインされていた。それを見て、思う。

 

 物事にはすべて、裏と表がある。


 紬は「背が高くてカッコイイ」と言ってくれたけど、これまでに「デカくて可愛げがない」と言われたことは数え切れない。艶のある長い髪も、「鬱陶しい」とか「日本人形みたいでホラー」だとからかわれたこともある。そして、難しい大学に合格して通い続けることは喜ばしいことばかりではない。費やしたお金も労力も、本当にたくさんなんだ。そんなに簡単に羨まないでほしい。

 そんなことをつらつらと話しながら歩いていると、あっという間に東京駅が見えてきた。

 「まぁ、もちろん、藤原さん達がどう思ってるか分からないけどね。あの人達が星野の裏の気持ちや努力を知らないのと同じで、私達も知らないんだから」

「そうだよね。鼻毛店長を好きな人の気持ちなんて知りたくもないし」

「そ、そのあだ名はやめてあげて」

 紬は優しくって思慮深いなぁと感心していると、大志にポンと肩を叩かれる。

「そんじゃ、気を付けてな」

「えっ?なんで?一緒に帰らないの?」

 私達の最寄り駅は同じではないが、途中までは同じ電車に乗るのに。

「オマエはそっち」

 大志は総武線へと続く通路を指さしてそう言った。紬は「あっ」と小さな声をあげる。

「藤原とか高梨とかはいいけどさ、オマエには裏の気持ちを知っておかなきゃいけない相手がいるんじゃねぇの?」

 その「相手」が誰を指しているかすぐに分かり、胸が痛くなる。北斗が留学すると教えてくれなかったことの裏に、私の知らない気持ちがある…?無意識に、ポケットにしまったコインを握りしめていた。

「私のことそんな大事に思ってないからじゃないの…?」

 自分達がそうだったとは思いたくないけど、大学生同士の付き合いなんてそんなもんだ。軽いノリで付き合ったり別れたりするって聞く。

「それはないだろ。告る時だって、何ヶ月もかけて花瓶作ってたし」

「えっ!アレ、北斗の手作りだったの?大志はなんで知ってるの?」

「親戚の工房で作ったからな。オレも一緒に」

「大志も花瓶作ったの?」

 紬がわくわくしながら尋ねる。

「いや、オレは火焔型土器」

「えっ……」

「当時好きだった考古学部の女子に渡したんだけど、フラれたわ」

 …おぅ、なんと言っていいか分からない。

「でも、黙って諦めるよりは良かったと思ってる。『土器はともかく気持ちは嬉しい』って言ってくれたし」

 土器も!土器も喜んであげてぇー!!

「…星野も、伝えておきたい気持ちあるんじゃない?北斗くんが留学先に行っちゃう前にさ」

 紬が真剣な目で私を見つめる。大きな瞳に映る私は、思いのほか心細そうな顔をしていた。このままでいいのか?と迷っているように。

「そうかも…」

「じゃあ、とりあえず行け。あと三分で総武線来るぞ」

「ええっ!?間に合うかな?遠いんだよね、ホーム」

「走って!」

 二人の後押しを受けて、私は駆け出してしまった。

「ありがとう!またね!」


 走りながら、私はこれからの予定を組み直す。明日は朝イチで研究室に行かなきゃでしょ?そしたら北斗と話した後、急いで帰ってちょっとだけ仮眠取るか北斗んちの近くのネットカフェで眠って始発で大学行くか…うーん、話し終わった時間で考えよう。

 それから、北斗に伝えるべきことも考える。

「バカ」とか「なんでもっと早く言わなかったの」とか、「私のことなんてどうでもいいんでしょ」とか、そういう言葉の裏側に隠してしまった、私の本当の気持ち。


 さびしいよ

 心配だよ

 でも応援してるよ


 もっともっと、あるはずだ。意地っ張りで、余裕ぶりたくて、いつまでたっても素直になれない私だけど、今日だけはそんな自分を変えてみたい。


 コインを入れているのとは反対のポケットから振動が伝わる。北斗かと思って慌ててスマホを取り出すと、大志からだった。

GOOD JOB!と書かれたチョウチンアンコウのスタンプ。

「…?」

 すぐに「まちがえた」という文字が届き、GOOD LUCK!と書かれたチンアナゴのスタンプが追加された。大志のスタンプのセンスはいつも変だ。そして、紬からも「ファイト!」と書かれた可愛いウサギのスタンプが送られてきた。

 それだけで、北斗と向き合う勇気が湧いてくる。

「…二人とも、大好き」


 会ってちゃんと伝えよう。遠い場所で北斗が頑張れるように。温かい気持ちで日本を離れられるように。私も、今日自分がしてもらったように、北斗の幸せを願う。

 私は迷宮のように奥深くまで続いていく階段を、いっそう力強く駆け下りていった。



 





 







 




 


 


 



 











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