第2話 神の遣いとの出会い

 中腹にある神社に供え物をする為、ウシロクは道具一式と供え物を背負子に括り付けて出掛けた。

時折雪がぱらついたが、これまでは積ることもなかったので、一応は防寒具を身に着けて山刀と手槍を持って出掛けたのである。

 沢伝いの道を歩いて行くと、斑点のある魚が数匹遡上しているのが見えた。

姿を見せないようにブナの木に身を隠して良く観ると岩魚であった。

浅瀬で腹を見せた所で手槍を投げると、見事背びれと腹びれの間に刺さってバシャバシャと撥ねていたが、槍は抜けなかった。

 ウシロクは槍の石突で脳締めをして動きを止め、鰓に小刀を差し込んで血抜きをして締めると、細い蔓を顎に通して腰にぶら下げたのである。

その上流でも山女魚を捕獲すると、岩魚と同様に締めて束ねて吊るして歩いた。

こうすることによって鮮度を落とさずに食せたのである。


 中腹にある神社は和人の神を祀ったものの筈だが、何故アイノのウシロクが供え物などするのか不思議に思うだろうが、ウシロクのミチが蝦夷地から移住して来た時に他のアイヌと同様に横手の下手にそれらの定住地を求めたが、先住者らが陣取っていて狭い窪地位しか開いていなかったのである。

 その窪地に三十家族が野宿同然に暮らすことになった時、偶々通りかかった武士清原将衛門が事情を尋ねて来たので、長のクニクルカが包み隠さず状況を説明すると、

「難儀であったのう。其方たちを直接食わせることは出来ぬが、食っていける土地を貸し与えよう。ついて参れ」

 殆どの者は訳も分からぬまま城下を抜けて山へと入って行ったのだ。

 標高五十丈(百五十メートル)ほど上がった辺りで清原将衛門は、

「この辺りを中心にして集落を作ったらええだろう。材木はぎょうさん有るから伐採するが良い」

 こうしてこの山里が出来たのだが、扨て例の神社の話だが、この山の所有者が清原将衛門であったようにこの山を護る為、氏神様を祀ったものだった。

最初の頃は神社というより祠であった。

軈てそれが小規模ながら社殿になった。

 クニクルカは清原将衛門が病に倒れてお詣りに来れなくなったのを機に、集落の恩人である清原将衛門に代わって清原神社を祀ったのである。

 

 さて話は神社に供え物をしに行くウシロクに戻す。

沢から離れて獣道を登って行く頃になると雪が降りだしたのである。

ウシロクは六合目にある神社に着くと社殿の周りを掃き清めて、米や塩、野菜などを供えてお詣りすると、慌しく山を下りるのだった。

 今は未だ大した降りではないように思えるのだが、山は急変するので油断はできなかったのだ。

途中にある避難小屋に逃れて間もなく雪は止んだ。

 ウシロクはこの先のことを考えて炭と薪木を袋に詰て、更に干し肉を保存袋から取り出して必要な分だけ袋に入れて持った。

かんじきがかけてあったので念の為手に取って持ち出せる用意はしたのだが、外を見る限り、そこまでは必要なさそうだったので様子を見ることにした。

小屋で少しの間休んで暖を取ったので小屋を出た。

 積雪は二寸ほどである。

何処を見渡してもその程度のようなので、手にしたかんじきを小屋に戻して藁沓で山を下り始めた。

 するとまた雪が降り始める。

何時も降る雪の量と言えた。

また直収まろうからとかんじきを取りには戻らず先を急ぐ。

ところが止むどころか風が出てきて吹雪となった為、瞬く間に雪が積もり出したのである。

 先が見えなくなったばかりではない。

足元も覚束なくなって来た。

ウシロクは槍を杖代わりにして石突で足先の安全を確認しながら進んだ為、到頭進路を雪に遮断される羽目となった。

 ウシロクは近くに非常非難の為の穴倉があったことを思い出して探したが銀世界に隠れてしまって、なかなか見つけることが出来なかったのだ。

このまま凍え死ぬのかと覚悟してしゃがみ込んだその視線の先に穴蔵が見えたのである。〈助かった〉

 ウシロクは無防備な状態で穴蔵に転がり込んだ。

幾分傾斜が付いているらしく、飛び込むとそのまま少し滑って止まった。

地面に枯葉が敷かれてあったからだ。

如何やら単なる穴蔵ではない。

もしかすると清原家の避難用の洞窟なのかも知れなかった。

 暗くて良くは判らなかったが、天井も結構高いので割と自由に歩き回れそうだったが、外に比べて暖かかったので、疲れた所為もあって背負子等の荷物を脇に置くと、そのままそこで寝てしまった。


 何かの気配で目が覚めて起き上がろうとすると、枯葉がカサカサと音を立てて床に落ちた。

掛けた覚えのない枯葉が体から落ちたのは如何したことかと首を捻りながら入り口の方を見ると、黒っぽい大きな塊が横たわっていたのだ。

〈何だ〉

 少し近づいてみると、何と熊であった。

〈シマッタ~何と言うことだぁ〉

 絶対絶命のピンチである。

自ら凶暴な野獣の元に身を寄せてしまったのだ。

洞窟に飛び込んだことは確かだが良く考えたら軽率だった。

 この洞窟を発見して飛び込んだ時、少し滑って止まったのだ。

そのまま寝込んでしまった筈なのに、気が付いたら更に奥で寝ていたのである。

〈そう言えば坂を転がる夢を見たような気もする〉


何かに押されるように奥に転がったとしたら、入り口で横になっている熊が押したことになる。

 躰に掛かっていた枯葉は熊がかけたのか転がった際に躰に付着したのかは不明であったが、それよりも熊が入り口を塞ぐように寝ていて起きる気配がないことの方が問題であった。

 暗がりに慣れて手前や奥の様子が次第に分かって来た。

この先はどうやら行き止まりのようで、入口から四間ほどの深さで横幅は凡そ一間半ほどであった。

 すると入口近くに横たわっている成獣は足を伸ばして背を向けているので、二足立ちしたなら五尺ほどはありそうだ。

そして枯葉が敷き詰められていて分からなかったが、よくよく見ると入口の方がやや高いように見える。

 詰まり奥が低いのである。

要するに入口近くに寝てしまったウシロクを穴蔵に戻って来た熊が鼻づらで奥に押し込んだのであろう。

軽い傾斜ながら難無く奥に転がったものと見える。

 それを夢として捉えていたのだろう。

〈さてさて困った〉

 入り口を塞いでいる熊の端から外を窺う限り雪は止んでいるようだが、その体が出口を塞いでいるので、外に出ることは叶わなかった。

 得物は手元に無かった。穴蔵が安全であることを確信した時に腰の山刀や槍を端の方に置いたのだ。例え山刀があったとしても、狭い洞窟の中では熊の方が有利であろう、〈槍は何処だ〉

 暗がりに目を凝らすと、端の方に槍と山刀が背負子と共に置いてあった。

槍を使えば何とかなるかも知れなかったが、天井までの高さは三尺から四尺ほどしかないので失敗すれば終わりであった。

 何れにせよ此処から脱出することを考えねばならなかったが、〈熊は何故自分をかみ殺さなかったのだろうか。仰向けに寝て居た筈だから喉元に咬みつけば一巻の終わりであった筈だが…〉

 時折り吹雪くことがあったが、そんな時熊は無意識の内だろうか、背中を外に向けるように向きを変えるのだった。

その瞬時に冷気が洞窟内に入って来た。

外はやけに寒いようだが入口近くに居座る熊のお陰で寒さが凌げていることに気が付いたのである。

〈何と言うことだ。この熊は入り口を塞ぐことでおいらを助けて呉れたんだ。それをどうやってやっつけようか等と身勝手な考えをしたものだ…〉

 そう解釈すると入口で冷気を遮断して寝ている熊が愛おしくなった。

そう思うと無理にここから脱出することもなかった。

 そこでここで暮らす方法は無いものかと奥を探ってみると、横穴があった。

そして良く観るとそれに縦穴が深く穿たれていて下の方から微かに水の流れる音が聞こえてきたのである。

その横の土棚の上には荒縄が置かれてあり、如何やら此処は用便の為掘られたものであったようだ。

反対側には水瓶や柄杓等の生活用品が見つかったのだ。

 さらにもう一つ発見があった。

奥の壁面に窪みがあり、その先に竈のようなものがあって鍋が載って居たのである。

鍋を手に取って見ると、それで煮炊きして居たらしく、その痕跡が残って居たのである。竈からは薪の燃えカスが出てきた。

竈の上を見ると斜め横に細い孔が穿たれているので、恐らくは煙を外に逃がす為のものと思われる。

従って、此処で火をくべても洞窟内を煙が充満することは無かったに違いない。


 食料は乾物を持っていたのと、沢で取って来た岩魚と山女魚を入口近くの雪の上に置いといたので、後で食べたい時に取り出せばよかったのだが、それとて熊が退かないことには手元に適わないのである。

何とか雪の中から取り出したいがその機会は中々来なかった。

 竹筒には水が入っていたが、必要なら雪を融かしたり、或いはこの近くに水の流れがある筈なので心配はなかった。

 だが全てはそれはそこに寝ている熊次第で、共存を前提としなければ実現しないのだ。

果たしてそうはならないことも考えて置かなければならなかったのだが、ウシロクはその時はその時と腹を括っていた。

 熊の胸には白い三日月の様な模様があった。ツキノワグマと言う奴だ。

ウシロクは無論熊を見るのは初めてではなかったが、その三日月模様が真ん中で分断しているのが珍しかった。


 ウシロクは背負子に括り付けてある袋から薪を出して竈に入れて火を点けると熊が寝返りを打つのを待った。

すると熊はその思いを察しるように足を折って、隙間をつくるのだ。

それが不思議でならなかった。

 鍋や竹筒に雪を詰めたり、岩魚を雪の間から取り出したりするのが済んでウシロクが穴蔵に戻るのを待ってまた足を伸ばすのであった。

火にくべた薪がぱちぱちと音を立てた所為で熊が目を覚ました。

少し煙が洞窟内に流れた。

 熊が目を瞬かせたので、

「煙いか」と声を掛けた。

 熊が人の言葉を解る筈もないのに思わず掛けた言葉であった。

 ウシロクには熊に対する恐怖心が無かった。また熊もウシロクに対する警戒心がなかったと言える。

だから背中を向けて寝ていたのであろう。

 ウシロクは板の上で岩魚を生のまま半分以上を熊に与えると、残りを尾鰭を持って竈の上に載せて焼いた。

熊は直ぐには食べずに、まるでウシロクが焼き魚を口にするまで待って居るようだった。

それは思い過ごしではなく、ウシロクが食べ始めると漸く口にしたのだ。


 こうして人と熊との奇妙な共同生活が始まったのだが、それはある程度雪が無くなるまでのことであった。

その間にこの洞窟の周りを探索すると、後ろに(洞窟で言うと奥側だが)小さな沢があり、この沢の水が排便を処理して呉れていたのである。

その上流の水を汲んで飲み水や料理などに使っていたのである。

 まだ辺り一面に雪が積もっていた。

こうして見るとこの辺りは見覚えのない所で、如何やら吹雪の中で道を間違ってしまったようだった。

入口の傍の岩の雪を払って良く観ると、大山祇命(おおやまつみのみこと)と彫られてあった。その横に年号が彫られていて、康平二年若しくは三年とも読み取れるので随分と古い石塔であることが解る。

この類の石塔は注意深く見ると、結構随所にあった。

 見覚えのある山を見ると何時も見ている側とは違った面を見ているようで、可なり見え方が違っていたのである。

常に見ている面の横側、詰まり普段は見ることのない南側のように思えるのだった。

そしてその東側中腹辺りに瘤の様な出っ張りがあることを初めて知ったのである。

 現在地が訪れたことの無い場所であることには間違いなく、どの辺りなのかはとんと掴めなかった。

 ウシロクが洞窟の近辺の探索をしている間に熊は出かけて行き、大きな鮭を銜えて戻って来た。

それをウシロクの足元に落したのである。

腹に未だ卵が入っているようで丸々と太っていた。

 沢に遡上してくる鮭にしては大きかった。それを山刀で半身に捌いて何時ものように分配し、半身は雪の中に保存したのである。

 熊はどの場合でも先には食べなかった。

ウシロクが食べ始めると初めて口にしたのである。それは用心してのことではなさそうで、人間界のように、先ず主人(旦那若しくは亭主)が口にしてから食べ始めるのと同じとしか思えなかった。

 ウシロクはこの熊がどうやらメスで、お腹の辺りが膨らみ始めていることを知ったのである。

如何やら子どもを身籠っているようだが、ウシロクの為に食べ物を探しに毎日出かけて行った。

それが何とも愛おしく思えてならなかった。

 ウシロクはそのツキノワグマにチュプハポ(月の母)と名付けた。

「チュプハポおいで、これを上げるから子供らと食べな」

 アイヌ語が分かる筈ないが、チュプハポはウシロクが下山する際に山小屋から持ち出してきたどんぐりの実を袋毎渡すと、その中身を確認するように前足を入れて鈎爪にドングリを二、三個挟んで取り出すと、それをポリポリと音を立てて食べたが、それ以上は食べようとはしなかった。

 恐らく生まれて来るであろう子熊の為に取って置くのだろうとウシロクは思った。

「チュプハポよ、そろそろおいらは里に降りなければならない。何時までも此処には居られないんだ。また来れたら来るからな」


 ウシロクが帰り支度をして外に出ると、チュプハポは先に外に出て待って居た。

少し行っては立ち止まってウシロクを見る。

チュプハポはウシロクが道に迷って穴蔵に迷い込んだことを悟って居たようだ。

それで如何やら道案内をしているらしかった。

「チュプハポ、もういいから戻りな」

 ウシロクは身重な熊の躰を案じていた。

だがチュプハポは積雪の残る山里近くまで送って来たのである。

見覚えのある景色となった。

正に何処かで反対方向に向かってしまったのだろう。

「チュプハポ有難う。元気な子を産むんだよ」 ウシロクはそう言ってチュプハポの鼻づらにおのれの鼻を擦り付けると、チュプハポは愛らしい眼差しを見せて口元をぺろぺろと舐めたのである。

 ウシロクはチュプハポが樹林の中に姿を消すまで見送って集落へと戻った。

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