猛獣(神)と番う

夢乃みつる

第1話 山里の狄村(えぞむら)

 この物語は東北北半の岩手に近い、秋田の山里での話である。

時は慶長から元和あたりの、江戸時代の初めであった。

 標高五十丈弱(百五十メートル)程のところにある集落にウシロクという若者が居た。

漢字で表すと牛六と書く。

この字は単に音に合わせたもので、名前の由来を考察するに、同年代の若者に比べるとおっとりとした性格と思いがちだが、中々どうしてすばしっこくて行動的な青年であった。

 抑々この集落の民らは、北端の先の海峡を越えた蝦夷地から移住して来たアイヌであった。

 この頃のアイヌは蝦夷地の和人や下北半島、津軽半島の和人と盛んに交易をしていたのだが、そうした中に何時しか山形、宮城との境を下限として秋田、岩手に移住し、集落を形成していったのである。

 それらは狄村(えぞむら)と呼ばれ、時の領主に保護或いは仕えて、蝦夷地での騒乱鎮圧の一端を担ったのだ。

そしてそれらは軈て和人に同化して行った。

 ウシロクの生まれ育った集落は山間の部落の為、狄村として残った。

着ている物も所謂狄衣と言って、アットゥシ(樹脂繊維)等の着物を着けていたのである。

勿論和人との交易で得た物を着ている者も居た。

 家屋はどちらかというとアイヌの言うチセに近い造りで、中程には囲炉裏が切ってあった。

 この集落の大方の生業は炭焼きであったが、川での漁撈に熊やカモシカ、猪等の猟で得た毛皮を交易して、米やその他の食料に鍋釜などの道具と換えたのである。



 ウシロクはその名前が付けられた辺りから父親に連れられて山に入った。

杣道そまみちばかりでなく、獣道や時には澤伝いに上がって行く。

所々に紅葉が見られる季節であった。

 炭焼き小屋は可なり上がった所の台地に在って、土の窯に屋根が掛けられてあった。

その炭小屋には炭焼きの材料としてならやクヌギなどがびっしり積まれてある。

 ミチ(父親)のクニクルカが炭俵を用意して窯の中の焼き上がった炭を丁寧に掻き出して詰めてゆく。

その間にウシロクは灰を取って、次の準備をした。

「ロクそれを奥から積み上げろ」

 ウシロクはミチ(父親)に言われるままに窯に材料を詰め込んで行った。

「莫迦、それじゃあお前が出られなくなるだろう。少しは頭を使え」

 一生懸命になり過ぎて失敗することもあったが、この場合は初めてのことで要領を得なかっただけのことである。

この日は小屋に泊まって明日の火入れの準備をしたのである。

 翌日薪を燃やして窯に火を入れた。

ミチは窯に火を入れると、側に転がしてある丸太に腰かけて、煙管に刻み煙草を詰めてうまそうに吸って煙を吐いた。

 こうして二三日は火加減を見て、窯内の空気の調整を終えると、

「さぁ帰るぞ」

 ミチは俵に詰めた炭を背負子に括り、更に薪の束を括り付けると、それよりやや小さい背負子をウシロクに背負わせて、自らも背負って山道を下りて行く。

「今度いつ来るの」

「そうだなイイェエイワント(六日目)かその一日二日前に焼き上がり具合を見に来ないと如何のだ」

 実際には六日目に焼き上がりを見に来たのである。



「先ず先ずの焼き上がりだ」

 とミチは教えて呉れた。

 こうしてまた背負子で山里へと下ろすのだが、その度に窯に火を入れて炭を焼いたのである。和人との交易の為と越冬の燃料としても必要であったからだ。

 ウシロクはこの他にも漁撈や狩猟の技法を教え込まれたのである。

 この集落では最近は殆どの家が狩猟と農業を兼業し、中には炭焼き等もしていたが、それらは城下に売りに行くほどではなく、自家で消費したのである。

それでどうにか生活が出来たが豊かとは言えなかった。

 そうした中、次第に狩猟や漁撈に米作りを兼ねたりして、或いは野菜を作って城下に売りに行く家もあった。

それらの農作物は和人との交易、交流によって齎されたもので、確かな技術を得ての取組であった。


 ウシロクの幼馴染にサンニョアイノ(思慮深い人)と言う男の子とトメマツという女の子が居た。

 幼い頃から家が近いこともあって、良く遊んで居たのだが、ウシロクがミチと山奥に入るようになると、その少し前から遊ばなくなったのである。

 トメマツは不思議に思ってウシロクに問い質したが、

「嫌いじゃない」と言うばかりで理由を言わなかった。

 そこでサンニョアイノ(思慮深い人)に訊いてみると、

「山の神様が女だから妬くんだってさ。

だから山に入る時には悪さされないように女との接触を避けるって聞いたよ。そういう理由じゃないの」

 流石思慮深い子である。

まさにそのような理由からであったが、トメマツは反論するように、

「それ可笑しくない?だって抑々此処は山の中よ。今だって山の神様が見ているんでしょ」

 そうトメマツに言われるとサンニョアイノも答えに弱すのだった。

そこに当のウシロクがやって来るとその話題に加わって、以前ミチに同じことを聞いた時の答えを話した。

「ミチの生まれ育った北の地のコタンでは、山の神と言えばキムンカムイ(ヒグマ)のことで、女神というと火の神アベフチカムイとかニタツウナルべ(湿原に住む鬼女)とか言って和人の言うカムイとは違うみたい」

「そんなの可笑しいわ、和人だってアイノ(人間)じゃない。同じアイノだったら神様だって同じ筈だと思わない?」

 トメマツやウシロク位の年齢では、人種の違いや生活様式の違いに宗教観など理解出来なくて当たり前であった。

だが彼らは子供ながらに、そこには異質な風習が存在することを知るのだった。

 サンニョアイノ(思慮深い人)は話を纏めるように、

「此処は和人のカムイの支配する所でも自由なんだよ。だけど此処から先に(登って)行くとなると山の女神を怒らせちゃいけないってことだとさ」

 サンニョアイノ(思慮深い人)はそう解説してみせた。

子供は子供なりの解釈をして納得したようだった。

 ウシロクのミチ(父親)クニクルカが城下に炭を届けに行くというので、ウシロクは遊び仲間に声を掛けて背負子を集めた。

大半が子供であったが、中には大人も居たのである。

子供らは小遣い銭稼ぎや食い扶持稼ぎであったが、大人は酒代捻出の為に手伝ったのだ。 この集落での炭焼きは兼業と言っても殆どが自給程度の量しか造らなかったので、城下に売りに行く家は僅かであった。

その中の数軒が城下の端の里村に住むアイヌを相手に売ってはいた。

 クニクルカは炭屋を相手に納めていたので量としては多く、稼ぎにはなった。

臨時雇いの担ぎ屋も他での手伝いで収入を得ていたのである。



 横手と言う街は久保田藩の支城で佐竹の一族の戸村十太夫家が代々城代を勤めた小城下町でその城下の端に在る炭屋、末広屋に納めに行ったのである。

大人で三俵から四俵、子供らが二俵ほどであった。(一俵十五キロ)

それを二往復したのである。

 末広屋の番頭孝右衛門は、炭焼きの奉公人たちが炭小屋に炭俵を収納して戻ると、白湯と饅頭を全員に振舞いながらクニクルカに代金を渡した。

「牛六はいっと間がにおガったんでねが」

 番頭の孝右衛門は小さい頃からウシロクを見ていたのでその著しい成長が見て取れたのだろう。

ウシロクは照れるように笑って白湯を飲み、饅頭を食べた。

「此れたんゲあめ(凄く甘い)よ」

 他の者も同調するように肯いて見せた。

クニクルカはその出された饅頭を食べずに懐に入れると、孝右衛門は残った饅頭を紙に包んでクニクルカに手渡した。

 孝右衛門はクニクルカが娘に食べさせたいが為そうやって持ち帰って行くのだと知って余分に渡すようになったのだ。

「こしたに土産さ貰ってめやくだ(申し訳ない)」

 クニクルカは流暢な和語で礼を述べるのだった。

 此処からは自由行動ということで、荷役手当として大人には二十文(五百円)を払い、子供達には八文ずつ払った。

大人を除いて子供六人と共に集落に戻った。 城下への納品は手元に在庫がある限りは二人三人で納めに行き、その間にも炭焼きは続けていたのである。


 ウシロクはサンニョアイノ(思慮深い人)やトメマツらと麓から山里までの道を整備しようと考えていた。

集落の人々が荷物を背負って上り下りする山道を何度も往復しなくとも、一度で大量の荷物を運ぶ方法を城下で見たからであった。

 山から川沿いに城下へと出た折、船着き場で船から陸に上げた米俵を荷車に乗せていたのを目撃したのである。

〈これだ〉と思ったが、道が狭くてはこうした車両で通行するには厳しいものがあった。

「道を広くするのとなだらかな坂にしなければならないでしょう。それを」

「それを?」

 男二人はトメマツの次の言葉を待った。

「荷車をべコ(牛)に牽かせるのよ」

「そうかベコか」

 トメマツは女の子ながら活発で発想も豊かで進歩的であった。

ベコに牽かせるにしても、なだらかでゆとりのある坂道の方がいいに決まってる。

それは集落全体の問題なので、村長のクニクルカに三人で提案したのである。

「お前たちも大人になったな。これはこの集落の課題で以前からの重要案件だったのだが、年寄ばかりで着手できなかったのだ」

 緊急を要する所はその都度行って来たが、里に通じる公道とも言える道の開削には手が付けられなかったのが、若者らの自発的提案によって漸く実現の運びとなりそうだった。

 だがそれには工事に架かる人手はとも角、道具類の調達が必要であった。

 そこでクニクルカは横手の炭屋に相談に行くと城下にある道具屋を紹介して呉れたので、既に所有している鋤や鍬以外で必要とするもっこやふご(竹や藁で編んだ入れ物)に地面を平らにするとんぼ等を買い揃えたのである。

 城下には日傭取り(日雇い)人夫が居たが、手間賃を払うなら、その分で道具が揃えられたのである。

クニクルカは私財を投じてそれらを揃えると、杣道を開削し、集落から麓までの標高差五十丈弱に、荷車が通るに十分な幅の山道を二年がかりで開通させたのである。

 子供からお年寄りまで殆どの者が作業に従事したのである。

事故がなく済んだ訳ではなく、樹木の伐採で倒れる木の下敷きになって怪我を負ったり、崖沿いの山肌掘削で岩が落ちて来たり、伐採の木材を使った杭打ちで誤って足を踏み外して崖下に落ちたりと結構事故は起こったが、幸い軽い怪我で済んだのが不思議であった。 開始前には集落の中程に山の神様に作業の無事をお願いする祭壇を設えてお祈りしたのである。

その所為で大事には至らずに済んだのだと誰もが思っていた。

 二年に渡ったことは、先ず土木作業に関しての専門家に頼らず集落の住民だけで行ったことと、冬は降雪があり、それが融けるまでは作業が出来なかったことにあった。

だが可能な期間は集落の民は本業をやりながら作業に参加したのである。

然も道作りは主要道路に限らず、脇にある澤への上り下りの為の階段を何か所かに設けて、水汲み場や洗い場を増やしたのだ。


 この事業の延長を望む者が、集落から更に上に伸ばすことを提案して来たが、掛かる費用の捻出と作業員をどうするかの問題から時期尚早として先送りしたのであった。

荷車などの車両は通れないにしても、誰とはなしに杣道に階段を付けたりして、昇り降りは以前に比べれば楽にはなっていた。



 それはさて置いて、集落と城下との通路が出来たことによって、部落の民ばかりか城下の人も行き来が出来るようになったのだ。

その多くは商人であったり、城下近くに住むアイヌであった。

その中には蝦夷地の同郷が居たり、同族と言える者も居たのだ。

 こうして城下との交流が活発化すると、自ずとクニクルカの集落は豊かになった。

それと言うのも商人らが獣の皮を買い求めて来るようになったからである。

中にはそれらの肉を欲しがる者も居た。


 集落の内には獣を追って猟を生業とする者が居て、以前から城下にその毛皮を売りに来る者が居たからであった。

村長のクニクルカもその一人であったが、保存したそれらの肉を持ち込むことまではしなかった。

 そこに目を付けたものが現れたのだ。

小城下町ではあるが山に囲まれた盆地には武家屋敷があり、通りに面して商家が建ち並んで鍛冶屋も鋳掛屋も呉服屋に旅籠、町屋や百姓家もあり、その固まりの中に料理屋ならぬ食い物屋も沢山あった。

 その中で一風変わった料理を出す店があった。

主に鶏肉料理が多かったが、時には猪肉もあった。

 主人の名は越努比禾留と言って矢張りアイヌだというが、和人の間ではオノと聞き違えていたから越努自身も屋号を小野としていたのである。昔ならヲとオの発音に区別はあったが、江戸時代には何方もオと発音して居たのでアイヌ語で正しく発音してもその通りには聞き取らなかったのである。

 

 そういう訳でこの小野屋が熊や鹿の肉を欲しがった。

それらの肉と野菜で作る鍋物はこの寒冷の地に於いて商人や侍に受けたのだ。

 城下には横手城代戸村十太夫の家臣らが居た。

支城とは言え戸村家の禄を食む侍である。

こうして城下との交流が盛んになった集落は散逸するアイヌの集落の中でも可なり豊かになったのである。

 そうなると城下の端にある集落の中から、クニクルカの集落に移り住む者が現れた。

勿論清原家の認可と村長の許可を得ての話である。

 それらは漁撈や狩猟に携わる者達ではなく、木材を扱う杣人で、森林保護の為に木の成長と樹林の伐採と林の再生を行う民であった。 生い茂る樹林を間引くことによって陽の光が森の隅々に届き、様々な生命に息吹を与えて、その切り株からはまた新しい芽が出て来ると言う。

物質と生命の循環とでも言うのだろうか…。


 その新しく加わった民から伐採した木材の搬出路が必要との意見と要望が村長の元に出されたのだ。

以前にもあった要望だが、重たい材木を荷台に載せて運ぶのが牛だとしても、道の傾斜には十分な配慮が要った。

 そこでクニクルカは道の開拓も然ることながら重量のある木材は谷川に落して、水の流れに載せて下流に流す方法を指示したのである。

下流にある砂洲で陸に上げて大八車に積み替えて製材所に運び込んだのである。


 三人組の一人サンニョアイノ(思慮深い人)は木材に興味を抱いたようで、森林での伐採から大鋸での裁断加工まで注意深く見ていた物だから、木挽職人の棟梁から声を掛けられ、自然な形で弟子入りしてしまったのである。

 トメマツ(花女)はというと、高台より眼下に広がる城下を眺めて居ると、何時か横手の炭屋末広屋に炭を収めに行った際、人出で賑わう街並みや華やかな出で立ちの人々を見て、それらの暮らしぶりに思いを馳せると、街での生活に憧れを抱いたものだった。

〈大人になったら賑やかな所で暮らしてみたい〉と考えたあの時のことを思いだしていたのだ。

 トメマツは両親の許しを貰って、城下の旅籠の下働きとなった。

初めのうちは狄衣を着ていたが、女中頭から古着を渡されて着替えると、髪型以外で見るとそこらの娘っ子と遜色なく、いや寧ろめんこいと言えた。

「とめ、何してる?」

 女中頭が台所に顔を出す。

「なんも」

「だば裏からデゴ(大根)持って来いや」

「は~い」

 トメマツはとめと呼ばれて和人の暮らしに馴染んで行った。


 一人残ったウシロクは、ミチ(父親)に言われるままに行動しているだけで、二人の友のような自発的な行動は取らなかった。

 山の紅葉も終わりを告げるように大地に落ちると木の枝間に隙間が出来て、その辺り一面の視界が開けたのである。

 時々山の斜面を移動する生き物を見てはいたが、それらを捕獲しよう等とは考えもしなかった。

ミチから狩猟の仕方は教わって居たので何でも狩ることが出来たのだが、必要とする以外は決してやらなかったのだ。



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