呼ぶもの

 僕はいつもイヤフォンをしている。カナル型の耳の穴に押し込むタイプのもの。

 カナル型は密閉性が高い為、呼ばれていても気付けない時がある。そう言った時はよく怒られる。しかし、僕は決してイヤフォンを外さない。

 寝る時もイヤフォンをつけて音楽を流している。音楽はなるべく歌声が入っているものを選ぶ。誰が歌っているのかわかるから安心するからだ。

 大学の授業中や友人と一緒にいる時でさえつけているからか、友人からは呆れられながら訊かれた事がある。

「なんでいつもイヤフォンしているの?」

 言ったところで信じてはもらえないだろう。あの日の事は――。






 当時、高校生の僕はイヤフォンなんてしていなかった。音楽に興味がなかったし、耳に何かが入っているのは好きじゃなかったからだ。それに、大体友人と一緒に帰っているから必要もなかった。

 ただその日、いつも一緒に帰っていた友人は用事があるとかで先に帰ってしまい、一人で帰る事になった。耳が寂しいと思いながらも一人で帰路についた。

 大通りでは車の音が始終鳴り響いていたから寂しさも紛らわせたが、住宅街に入ると途端に無音と呼べるほどの静けさに変わって何度もため息を吐いたのを覚えている。

 しかし、今思えばそれは奇妙な事だった。住宅街だとはいえ、人通りがある場所ではあったし、多少の生活音が聞こえていたはずなのだ。それなのに、その日は本当に音がなかった。

 夕方ともなれば買い物に出掛けた主婦や学校帰りの学生の姿があるのに、僕だけしか歩いていなかったのだ。

 わずかに鳥肌が立った。その時――



「おーい」


 背後から声が聞こえた。遠くから人を呼ぶ声。ようやく誰かの音が耳に届いて安堵した。たまたま人がいなかっただけなのだ、と。

 その声は聞き覚えがなかったので僕は特に振り返る事はせずに歩みを続けた。


「おーい」

 

 再び呼び声が聞こえた。気付いてもらえないようだ。かわいそうだな、と思った。


「おーい」

 

 もう一度呼び声が聞こえた。その声は先ほどと同じ声量だった。


「おーい」


 次に聞こえた声で、僕はほんのりと不安を抱いた。何せ先ほどから声量が変わらない。向こうも僕のほうに向かって歩きながら叫んでいるようだ。しかし、聞き覚えのない声だし、身体が振り返るのを拒否している。

 少し、足が速くなる。


「おーい」


 また、同じ声量だった。

 さらに足を速くする。

 視界にT字路を見つける。あそこを曲がればきっと声は聞こえない、そう信じて加速する。


「おーい」


 声はいつまで経ってもやまない。僕を呼んでいるのだろうか。だが、振り返る事はできない。

 T字路まで来た。曲がる時に後ろを見てみようかと思った。しかし、怖くて目をつぶる。僕はそのまま角を右に曲がった。

 そのまま軽く走る。目の前に見えたT字路をさらに右に曲がった。

 これで大丈夫。確信なんかないのに、安堵する。そのせいか足が停まっていた。


「おーい」


 びくりと肩が跳ねる。

 また、声が聞こえた。角を曲がったのに音量が変わらない。遮蔽物があるのだから多少なりともくぐもったり、聞こえづらかったりするのに鮮明に呼ぶ声が聞こえたのだ。

 ふと思う。はたして駆け足などの音は聞こえただろうか。

 

「おーい」


 焦りと恐怖が襲ってくる。ふわりと風が肌を撫でると鳥肌が立つのを実感した。

 嫌な想像が浮かぶ。僕を呼んでいるのだろうか。

 そうだと返事をするように、背後から「おーい」と聞こえた。

 生ぬるい空気が膨らんで僕を包むような感覚がした。アレは僕の後をつけている。振り返ってはいけない。追いつかれてはいけない。

 やばい、と思った。その瞬間、僕は速度をあげていた。


「おーい」


 声は一定の間隔でついてくる。

 冷や汗のようなものがこめかみを流れる。僕の足は自然と駆け足になっていた。追いつかれたら大変な事になる。そんな気がして足を止められなかった。

 何度も角を曲がって走る。気付けば全力疾走していた。ゼーハーと乱れた息が口から零れていく。

 もう駄目だ。

 心臓が暴れて息がうまくできない。僕の足は止まっていた。


 ふと、声が聞こえない事に気付いた。

 コンクリート塀に体重を寄せて息を整える。走ったおかげか鳥肌も治まっている。

 僕は大きく息を吐いた後、振り返った。後ろには誰もいない。どうやら僕は逃げ切れたようだ。

「はは、ざまぁみろ」 

 そう呟いた時、塀の透かし穴からソレはこちらを覗いていた。


「おーい」


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