凍える冬が、すぐそばに待とうとも
「あァ、その人が『ゆうちゃん』?」
面白がるような声に振り返ると、そこにはひとりの男がいた。
頑強な骨格を覆うようによく鍛えられた浅黒い体を惜しげもなく晒す薄い──しかし下品にならない程度に整った服装に、自信の張り付いた笑顔、脱色したツーブロックの髪に、見るものの心を奥底まで射抜く一等星の瞳。
見ているだけで、胸がざわめく。
どす黒い何かが、僕の中で確かな輪郭を持つ。
こいつが……こいつが……!
「
僕が確信するよりも早く
「私っ、私いっぱい練習したよ? いろんな人でいっぱい……! 頑張ったのっ! 嫌なこともたくさん我慢して、あの頃より上手になったよ!? 今ならきっと他の人たちより彰くんのこと満足させられるから、だから……っ!」
「燐華ちゃんさすがァ♪ 真面目で頑張り屋で、あの頃となァんも変わっちゃいない。でもさァ」
彰はそんな燐華を力任せに振りほどき、その勢いで床に倒れた燐華に言い放った。
「前から言ってッけどさ。俺、そこの『ゆうちゃん』に未練たらたらな燐華ちゃんがよかったのよ。言ってたよね、俺
「でも、そんなこと言っても……」
「だから俺に惚れた燐華ちゃんは……そう、蛙化ッつーのかな、蛙化。完全ナシなんだわ」
なに笑ってんだよ。
目に涙を浮かべて呆然とする燐華と、それを嘲笑う彰。目の前で起きていることに頭が追い付くのと同時に、焼けるような怒りが芽生えるのがわかった。
自然と、口が開く。
「やめろよ、お前」
「ん?」
「燐華を傷付けること言うな。もう用がないっていうなら離れろよ、お前がいると燐華はどんどん傷付く」
「あれ、先に傷付けたのは『ゆうちゃん』だった気がしたけどなァ?」
「…………っ!」
「高校ン時知り合ったんけど、燐華ちゃんよく言ってたなァ、大好きだった人から拒絶されて、生きる気がしなくなったって! そんなこと言ってる娘がいたら元気にしてあげたいじゃん? だから
「人助けなもんか! 燐華から聞いたぞ、お前がどんなことしたか、どんなことさせてきたか……! それのどこが人助けなんだ……!」
「うーわッ、燐華ちゃん残酷~! そんな話聞かせたワケ? 俺にしか心開かなかったクセに、赤裸々じゃん……アレか、昔拒絶された復讐みたいな?」
「拒絶なんか! 違うんだ、急にあんなこと言われて、どうしたらいいかわからなくて……! 僕だって、僕だってひょっとしたらあの頃から燐華のこと……」
「急なもんかよ、ねェ、燐華ちゃん?」
突然話を振られた燐華が、無言で僕を見つめる。その目は、さっきまでの暗いものではなくて、道を見失って迷っているような、そんな目で。
やはり僕の知っている燐華なのだと、ここにきて確信を持てたような気がした。
「『ひょっとしたら』とか『どうしたらいいか』とかさァ、ずりィね『ゆうちゃん』? 挙げ句の果てにあんなに燐華ちゃんのために一肌二肌、ガチで脱いでやった俺のことは邪魔者扱いだもんなァ。ったく、参っちまうよォ……」
呆れたように僕を笑った後、彰は燐華の前で威圧するように勢いよくしゃがむ。そしてビクッと身を震わせた燐華の頭を掴み、「燐華ちゃん、そんなに言うならさァ」と低い声で囁く。
「手元に置いてやってもいいよ? でも、そしたら
「え、え……? え、っと……」
「もうやめてくれよ!」
気付けば僕は、彰から燐華を引き離して、昔そうしていたように背中に庇っていた。戸惑うような声が聞こえたが、構わなかった。
もうたくさんだ。
燐華は僕のことを好きでいたはずなのに、なんでこんなやつに……燐華のことを大事にする気なんて更々ないやつに、なんで好き放題されなきゃいけないんだ!!
「ゆうちゃん……?」
「燐華ごめん、あの日からずっと考えてたんだ。どう答えるべきだったのか、僕は……、燐華とあんな形で終わりたかったのかって……。でも違う、違うんだよ! 僕は……っ、僕は燐華に側にいてほしかったんだ。でも、僕は……、僕が、臆病だったから……っ」
「ゆうちゃん、泣いてるの?」
僕に触れた手は冷たくて、柔らかくて。
そういえば、昔もこんなことがあったような気がする──もうずっと前の、忘れてしまうような昔にも。そんな前から、一緒だったのに。そんな前から、燐華は僕に手を伸ばしてくれていたのに。僕の方が燐華に救われていたのに。
僕が、突き離したんだ。
それを思うと、涙が止まらなくて。
「ごめん……ごめんな、燐華。ずっと、僕は……」
「へェ、熱いじゃん」
そんな僕らを嘲るように、彰が口を開く。
どうにかそちらを向くと、彰は軽薄な笑みを浮かべながら悠然とこっちを見ていた。
「いいね、なんか本気って感じ? よかったね燐華ちゃん、『ゆうちゃん』なら本気で燐華ちゃんのこと想ってくれんじゃないかなァ」
どんな意図で言っているかはわからない。
いったい何が目的なんだ、こいつ……?
「俺はさ? 俺は、
「──────、」
背後で、燐華が息を呑むような声が聞こえる。
それに釣られて、苛立ちが口から漏れる。
「なんだよ……何なんだよ!」
僕らの間に入ってきて、何度も何度も燐華の想いを踏みにじるようなことを言って……!
背中に燐華のしがみつく感触が強くなる。それはそうだ、こんなやつでも燐華は本気で好きだったはずなのに、彰は何度もそれを否定した。面白がるように、嘲笑うように。
僕なら……僕なら、もっと。
自分の中に芽生えた──ようやくそのことに気付いた気持ちのままに、言葉を発する。
「燐華、こんなやつにもう構うな。僕が、……いるから」
「え……、っと、」
「ご挨拶~w ま、『こんなやつ』が全身隈無く
「お前、少し黙れ」
「やァ~だね。だってさァ、選ぶのは『ゆうちゃん』じゃなくて燐華ちゃんだからよォ! だろ、燐華ちゃん!?」
「ひっ──、」
怒鳴り散らす声に、燐華が身を震わせる。
そんな燐華に追い討ちをかけるように、彰は問いを続ける。
「どっちにするよ、燐華ちゃんのことなんて見向きもしない俺か、燐華ちゃんのことを大事大事に想ってくれる『ゆうちゃん』か? 燐華ちゃんはどうしたいのよ、どうしたら
「私……、私……は、」
心細そうな声が、僕の背中から聞こえる。痛いくらい強く背中を掴まれて、そして。
背中越しに、躊躇が伝わる。
早まる鼓動は僕のものなのか、燐華のものか。
一拍、二拍。
時間が凍ったような静寂の後。
か細い声で、聞こえた。
「ゆう……ちゃん」
何かを窺うような声。
しかしそれは確かに、燐華の声で。
少しの沈黙の後、「なるほどね……お幸せにな」と満足げな笑みとともに彰は立ち去っていった。
拍子抜けするような幕引き。
けど、彰の笑い声や足音が聞こえなくなった後も、僕は多目的トイレの中で燐華を抱き締めていた。
今更になって、恐怖が込み上げてくる。
情けないな、震えて立てやしない。
そんな僕に「昔の私みたい」と笑う燐華の声こそ、昔のまま優しく聞こえて。
僕たちは、これから取り戻していく。
離れていた時間を、埋めていくんだ。
僕は、信じている。
信じ続けると、決めたんだ。
初雪に想いを託せば 遊月奈喩多 @vAN1-SHing
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