冷ややかな足音が響く
その目は、かつて僕の後をついて回っていた少女のそれではなく、蔑んだような、呆れたような──そして全て諦めたようにさえ見える、冷たい瞳だった。
「こんなとこで何してんだよ、燐華。ここ、トイレだぞ」
「うん、知ってる。……なに、その顔。ゆうちゃんも何か聞いてここに来たんでしょ? いいよ、今更そんな取り繕わなくても。私わかってるよ、みんな
「…………っ、」
目眩がした。
いったい何を言ってるんだ、燐華は?
混乱する僕なんて何でもないように「どうするの? 手がいいの、それとも口?」と尋ねてくる燐華の姿が信じられなくて、思わず詰め寄ってしまっていた。
「なぁ燐華、どうしちゃったんだよ? 燐華そんな……だって、本当なのか? 本当に、噂になってるようなこと……」
「はっきり言ってあげようか、ここでいっぱいいっぱい手とか口とかでしてあげてたら、毎週いろんな人が来るようになったんだよって? 学生だけじゃなくて教授とかも来るんだよって、言った方がいい? けっこう人気なんだよ、私が、じゃなくて私の手とかベロとか
そう言いながら、見せつけるように舌を出してみせる燐華の姿に、胸が苦しくなった。
「昔はひとりぼっちだったのに、今じゃみんな血走った目で一生懸命私を見てくれるの。口の中に出されるのは気持ち悪いし、苦くてまずくて臭くて、飲み込むと喉までヒリヒリするけど、やっぱり拒絶されないのっていいよね。勘違いして告白されたりするのはちょっと鬱陶しいけど」
「やめろよ……」
「別にそんなのいらないのに、お金まで置いてく人もいるんだよ。ああ、学部の教授とかだと口止め料も兼ねてるのかな? さっきもどこだっけ……法学部の、」
「やめてくれよ、もういいから!」
自分の『人気ぶり』を語り出す燐華の姿が、昔の燐華を塗り替えていくのに耐えられなくて、僕は彼女の声を遮っていた。
信じたくなかった。
本人の口から語られても、信じられなかった。
「燐華、なぁ、燐華! 違うだろ、燐華そんなやつじゃなかったろ!? 大人しくて、怖がりで、いつも僕の背中にくっ付いてて、」
「いつの話してるの? その私を引き剥がしたのは、ゆうちゃんだよね」
「……っ」
ずっと悔やんでいたことを、突きつけられる。
胸の奥に刺さった棘で、傷口を広げるように。
「ゆうちゃん、あの日から私の“お兄ちゃん”ですらなくなっちゃったよね。ゆうちゃんに嫌われてからひとりで、それでも必死で頑張ったの、誰かに好きになってもらえる私になろうって頑張ったの! そうしたら
誰なんだ、彰って?
それに僕は、嫌いになったんじゃない。
どうしたらいいか、わからなかっただけなんだ。
言いたいことだらけなのに、声が出なかった。
「高校のときの彰くんはね、私の傍にいてくれたよ。怖いときもあるし、強引だし、恥ずかしいことでもお願いされたら嫌っていうの可哀想だから……何度もやらされたけど……! 大事にしてたゆうちゃんとの思い出も、全部全部彰くんにお願いされた恥ずかしいことで塗り替えられて、ゆうちゃんから貰ったものも全部、捨てたんだよ……っ!!
それでも、そうやって頑張ってるときは私のこと価値があるって! 変わろうと頑張ってる姿が最高だって言ってくれたの! だから私もこの人を好きになるんだって決めて……、そうやって、やっと彰くんのこと好きになって……!」
「なんだよ……、何を、何言ってるんだよ……、なぁ燐華! それは何か……、なんか違うって、」
「でもね、わかんなくなっちゃった。彰くんが好きなのはほんとに私なのかなって。だって彰くんと会えたの彰くんがしたくなったときだけだし、それもどんどん減って大学に入ってからは全然だし、それで……もうね、わかんないんだ」
心細そうな声は、昔のままなのに。
「だからね、彰くん以外の『好き』があるのか探してるの。いろんな人にね、彰くんに教えてもらったこといっぱいしてるの。最後までするのは……嫌だけど我慢してる。そこまでして初めて好きって言ってくれる人もいるから、我慢してるの。それでもみんな、おんなじ……彰くんみたいに、自分の欲望ぶつけてくるだけだったけど」
自嘲気味な笑顔はあの頃よりもずっと暗く、見ていて胸を締め付けられて。
「ゆうちゃんなら、違うのかな」
その暗く淀んだ目が、僕へと向けられる。
「ねぇ、ゆうちゃん。ゆうちゃんなら彰くんと違う『好き』がわかるの? それとも、また離ればなれになっちゃう?」
「僕は……」
胸に、ドロドロとした熱いものが芽生えていく。それは、あの日見た燐華の残影と同じ輪郭をしながらヒリつく熱を帯びて、喉奥に焼けた鉄を流し込まれたような感覚で。
目の前にいるのは、燐華の顔をしたまるで別人の少女に見えた。暗く、脆く、ほんの少しの衝撃で壊れてしまいそうな儚い姿が蠱惑的な媚態となって、まるで誘蛾灯のように欲望を引き寄せる──そんな信じがたい話すらも頷けるほどに、艶やかだった。
「ねぇ、ゆうちゃん」
屈んだままの燐華が、僕の腰にしがみついてくる。黒く淀んだ太陽が燃え盛るような瞳から、目を離せない。
「はぁ……、はぁ……、はっ、は……、────」
酸素が焼けて、思考が焦げて、息苦しさが頭まで回ってくる。記憶の燐華と重なる、暗い艶を宿した少女を、僕は────
「あァ、その人が『ゆうちゃん』?」
面白がるような声が聞こえたのは、熱に浮かされてしまった手を、燐華の肩に置こうとした時だった。
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