月の女神

蓮見庸

月の女神

 満月の夜には、きっとまたあのひとに会える。

 そう自分に思い込ませ、会えることを願い続けて、いったいどれくらいここへ通い続けただろう。

 それはきまって満月の日の夕方。

 荒々しい外洋に面した断崖絶壁の岬に点在するいにしえの遺跡は、今となってはその建造物のほとんどが崩れ落ち、あるものは崖から海の中へと連なるように沈み込み、あるものは土に埋もれ、草原の中にちた石の一部が顔を出しているだけというありさまだが、そのなかで唯一、かろうじて形をとどめているものがあった。

 それは“月見の塔”と呼ばれていた。


 わたしは今日もこの塔を見上げ、昔のあの日を思い出していた。

 そして、今日こそはあのひとに会えるかもしれないと期待に胸をふくらませた。

 空に向かってそびえる円筒えんとう形の、ひとかかえほどの石がすき間なく積み上げられた旧時代の建造物。この塔も絶え間なく吹き付ける潮風によって風化し、外側を覆うくすんだ白色の石はやさしくなでるだけでぼろぼろと崩れ落ち、指の間から砂となって地面に落ちた。

 突然吹いてきた強い風に、羽織っていた薄い外套コートひるがえり、腰に差した金色の短剣がちらりとのぞいた。持ち手もさやも金色の装飾の施された短剣。


 わたしは外套コートの前を手でつかみ身体を覆うようにおさえ、そして風から逃れるように塔の中に滑り込んだ。

 塔に入ると嘘のように風はなくなり、鼓膜を絶えず細かく震わせていた音が静かになったかと思うと、今度は替わりに小さな耳鳴りがしてきた。

 外から見ると今にも崩れ落ちそうな塔だが、内部は意外に頑丈な造りで、石の壁に守られている安心感を感じられる。

 ときおり、壁のすき間から風が音を立てて吹き込み、そのたびにさらさらと砂が落ちる音が耳鳴りの中にはっきりと聞こえてくる。

 わたしはこの宵も、壁に沿うように作られた螺旋らせん状の階段を一段ずつ上っていく。

 壁にいくつもある小窓のような小さな穴には、くすんだぶ厚いガラスがめ込まれている。

 向かう先のぽっかりと大きく穴の空いた天井には、群青ぐんじょう色に染まった薄暮はくぼの空があった。

 だんだんと視界に入る空が広がり、わたしは塔の上の踊り場に立った。


 吹き続けていた風はやんでいた。

 あたりは静寂せいじゃくが支配し、断崖の下の海岸に積み重なった砂利をやさしく洗う波の音さえ聞こえてきた。

 塔のふちに彫られた装飾越しに海に目をやると、水平線から昇ってくる満月の冷たい光がくらい海を照らし始めていた。

 なめらかにたたず水面みなもの上で、その光はやがて一本の道となり、この塔まで伸びてきた。

 光の道を辿たどるように振り返ると、それは塔をつらぬき、きらめく宝石の光となって、岬からはるか遠くにある闇へと吸い込まれていた。


 あのひとと初めて会ったあの日。

 あの日も海の穏やかな、こんな満月の夜だった。

 おさなかったわたしは森の中で道に迷い、気が付くと岬の突端に建つこの塔の上にいた。

 泣き疲れたわたしの手を、あのひとがやさしく包むようにしてくれていた。

 記憶はおぼろになりつつあるが、黄金こがね色に淡く輝くその美しい手だけは今でもはっきりと憶えている。

 あのひとは満月が作り出した七色の光の道を指し示し、そのうちのひとつを辿たどって進むようにわたしをいざなった。

 家に辿り着いたわたしは、何事もなかったかのように月の光の差し込む小部屋のベッドで眠りについたのだったが、まるでおとぎの国に迷い込んだようだった。

 その時と同じような光景だった。


 あらためて満月を眺めると、海の上の光の道におぼろげながら見えてきた幻像があった。

 その小さな影は海の上をたゆたい、こちらへ向かってゆっくりと歩いてきた。

 それは翼の生えた人の形をしていた。

 体に対して不釣り合いなほど大きな翼。

 満月の光を背にしたその影は徐々に大きくなり、見上げるほどになると、翼をめいっぱい広げ、一度だけゆっくりと大きく羽ばたいた。

 まるでこの塔を、いや遺跡全体を包み込みまもるかのようだった。

 その影はこのわたしをも包み込んだ。

 瞬間、脳裏のうりをよぎったさまざまな光景。


 ……………

 石造りの建物に囲まれた広場。果物や野菜が積まれた露店が立ち並び、たくさんの人々が行き交っていた。

 雑踏に身をゆだねていると、彼らは見慣れない格好をして、聞き慣れない言葉を話していた。

 月見の塔があった。それは美しい白亜の塔だった。

 あたりが暗くなると塔はきらびやかに輝き出し、その光は大通りを七色に照らした。

 人々はその光に導かれるように手を取り合い、小高い丘の上に集まった彼らはみな同じ一点を見つめていた。

 そこにあったのは、大きな翼のある女神像だった。

 それは、燃え盛る篝火かがりびの熱を浴びて黄金こがねのように輝き、背後からは満月の光が輪郭を白金色しろがねいろに浮かび上がらせ、その神々しさの前に人々は言葉を失いうっとりとしていた。

 そして、郷愁を誘うような弦楽器の調べの中、女神像の前で優美に踊るあのひとがいた。

 金の腕輪と首飾り、そして頭にいただいたティアラを篝火かがりびの炎が照らしていた。

 切れ長の目にうれいを含んだ表情をしたそのひとは、女神と同じ顔をしていた。

 わたしと目が合うと、やさしく微笑んだように見えた。

……………


 それは何時間にも感じられる刹那せつなだった。

 そしてわたしは、この光景はかつてここにいた人たちの記憶を、女神が見せてくれたのだと思った。

 影はわたしを通り過ぎ、ふたたび見えてきた光の道は、わたしを明るく照らしていた。

 夢心地ゆめごこちのまま岬の先端を見下ろすと、月の光の中で踊る影が見えた。

 あのひとに違いない!

 わたしはそう確信し、急いで階段を下りようとしたとき、そこに広がる光景に息をんだ。

 塔の中の薄暗かった空間が、七色の宝石のような光で満ちあふれていたのだった。

 小窓にめられたガラスはオパールのように虹色に輝き、そこを通った光の束が塔の中を複雑に屈折して飛び交っていた。

 腰に差した金色の短剣が七色の光を浴びて鈍く光り、わたしはそんな光に包まれながら階段を音を立てて下りた。


 塔は全体が淡い輝きを放っていた。わたしはおもわず壁に手のひらを当てると、ざらついた表面から全身にぬくもりが伝わってきた。生命いのちのともしびをふるわせるような、やわらかなぬくもり。

 視線を岬の先端に移すと、人の形をした影が踊っていた。

 わたしはその踊りに心を奪われ、目をそらさないように一歩ずつゆっくりと近づいていった。

 塔の放つぼんやりとした光によって、踊る影の色は漆黒から瑠璃るり色へとグラデーションをなし、背後から照らす白金色しろがねいろの月の光が飛び散り、全身に金の砂で星空が描かれているようだった。

 そして踊る影がくるりと回った瞬間に見えたその横顔は、やはり女神像と同じ顔をしたあのひとだった。

 その瞳は満月と同じように冷たい光を放っていたが、瞳の中心の吸い込まれるような深い瑠璃るり色の小さなあなを見ていると、さきほど脳裏をよぎった小高い丘の上に建つ黄金の女神像が心のなかに浮かび上がってきた。

 その女神像はきっと、地面が割れてこの断崖絶壁となった海へ崩れ落ちていったのではないかと、わたしはそう確信した。

 そしてあのひとは、小高い丘ともども海の中に姿を消した女神像に代わり、廃墟となり遺跡と化したこの街をこうして今でも見守り続けているのではないだろうか。


 突然、踊る影の色が薄くなってきたかと思うと、月に雲がかかり始めていた。

 海を渡る光の道は細く淡く、次第に大きく砕けてきた波に遮られ途切れ途切れになってきた。

 すると崖の下から一陣の風が吹き上げてきた。

 それが合図だったかのように、踊る影は女神の瞳でわたしにやさしく微笑ほほえんだのを最後に、残像すら残さず一瞬のうちに消え去ってしまった。

 あとには断崖絶壁と、空には月を隠した雲の輪郭だけがぼんやりと輝いていた。

 風がふたたび鼓膜を震わせ、振り返ると、淡い光を放っていた塔はもはや暗闇に浮かぶ円筒形の影でしかなくなっていた。

 わたしはしばらく風に吹かれながら、踊る影がもう一度見えないかと待ち続けた。

 けれども、やがて雲が流れ、ふたたびあらわれた冷たい月の光は、ただ月見の塔を照らすだけだった。

 薄い外套コートひるがえり、腰に差した金色の短剣がきらりと光った。

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