第4話 翌朝、やるべきことを
翌日、まだ朝日も登りたてで涼しい風の吹く朝。今まで大人数で歩いていた通学路を、ひとりで歩くのは久しぶりだった。こんなに広かったんだなと、小学生の頃を思い出す。今思えば、当時から既に群を抜いて身長の高かったアツシと並んで歩いていたから、心細さを感じることはなかった。恵まれていたんだとつくづく思う。
昨日あの後、あれほど怒りの感情をあらわにする親友の姿を見るのは初めてだった。掴みかかられたところで、後ろを歩いていたコウダイたちが止めに入ってくれた。とりあえずその日は、頭に血がのぼったアツシを全員でなだめ、怒りの原因となった俺は早急にその場から隔離されることになった。いつもはアツシが俺の家に来て、一緒に登校しているが、今日はそれを待つことなく、一時間程早く家を出た。きっとあいつは来ないし、何より朝一番でやっておきたかったことがあった。
学校について、グランドに来ると「おー、えい」という掛け声が聞こえてきた。強い弱いに関わらず、野球部が練習に対して真面目なのはどこも変わらないらしい。とりあえず、練習の邪魔にならないように、草の影に隠れてそっと練習を眺める。昨日まで、俺達は来週からこの場所にいるものだと思っていたし、そこに疑いの余地は一ミリもなかった。もし昨日の出会いがなければ、アツシと喧嘩することもなく、野球ができたんだろうか。そう思うと、少し後悔する気持ちが大きくなってきた。あいつは、すごくいい奴で、何年もずっと一緒にいて、いるのが当たり前の存在になっていた。引き返すなら今だよなと自分に問いかけるが、やっぱり自分はあの感動を忘れられなかった。今、ここで妥協して「妥当な道」を選んだら、一生後悔する気がする。自分の中でそんな葛藤を繰り返していたが、ふと先ほどまでの声が止んだことに気づく。見てみると、休憩時間になったらしい白いユニフォームが、わらわらとベンチの近くに集まっていた。このタイミングを逃すと、朝の間はもうチャンスがないことを知っていたので、「ここまで来たらもう引けない」と急いで飛び出して集団の中に飛び込む。
「ダイチ先輩!」
そう言って駆け込んだ俺の声を聞いて、先輩はこんがりと焼けた顔をこちらに向けてくれる。
「ハヤテじゃねぇか。どうしたんだよ」
と俺の顔を見てふにゃっと先輩が笑ってくれた。ガタイはいいが、実はこの先輩、めちゃくちゃ可愛い。小学生の頃に所属していた野球チームからこの中学に進学した唯一の先輩で、野球のことも、学校生活についても色々と教えてくれた、すごくお世話になっている人だ。
「あの、すみません。ちょっとお話したいことがあるんですけどお時間いいですか」
緊張も相まって弾んだ息を整えながら声を出す。少しいつもと違う空気を感じてか
「なんだよ~、告白か?」
と茶化しながら先輩は周りの人にちょっと行ってくるわと声をかけて「こっちおいで」と人の少ない日陰に手招きしてくれた。周りの人も「モテ男は困るねぇ」「後輩、1分おにぎり1個だぞ」と笑いながら手を振ってくれた。この、先輩たちに囲まれて可愛がられるノリも、1年近く時間が空くとすごく懐かしく感じた。
「それで、一体どうしたんだよ」
よっこいせとブロックに腰かけてダイチ先輩が真面目な顔をこちらに向ける。
「実は、部活のことなんですけど」
と、切り出す。やっぱりちょっと気まずい。そんな俺の表情を察してか
「ゆっくりでいいから、気持ちの準備できたら言ってよ」
とハヤテ先輩が優しい声をかけてくれた。この人の母性というか、優しく懐柔されるみたいな仕草を見ていると、どうしてもすべてを打ち明けてしまおうという気持ちになるので困る。
「実は、野球部に入部しないことに決めました」
色々お世話になったのに本当にすみませんと頭を下げる俺に先輩は何も声をかけてくれなかった。しばらくの沈黙が流れる。先輩の顔を見るのが怖い。地面から視線を上げられずにいると、
「一発ぶん殴るから、顔あげろよ」
と少し震えた声が聞こえた。やっぱり怒ってる。そりゃそうだ。仕方ないと思いながらも少し涙目になりながら顔を上げる。顔のあらゆるところに皺を寄せて、先輩はとんでもない変顔をしていた。ブッと噴き出した唾が、思いっきり先輩にかかる。
「本当にすみません‼」
と慌てて袖でぬぐおうとすると、先輩は突然「ハハハ」と大きな声を上げて笑い始めた。
「なんだよ、そんなことで俺をあんな泣きそうな顔して呼んだのかよ」
と先輩は「腹いてぇ」と涙をぬぐいながら言った。何なんだこの人は。
「お前、そんなんでよく今まで生きて来れたな」
やっと笑いが収まったらしい先輩が手を組みながら体重を前にかける。
「いや、でも先輩にはお世話になったのにこんな裏切るみたいなことしてしまって」
とごにょごにょしていると、先輩は「は?」と不思議そうに言った。
「確かに俺はお前らより野球歴は一年長い。だけど、お前の為にやったことなんてせいぜいこの学校の過去問渡して、部活の愚痴聞かせたぐらいだろ。そこまで義理感じられるとか、お前心の根っこから『日本人』って感じが溢れてて、本当にすげぇと思うわ」
それ以上のものを頂いていたのは自分が一番知っていたが、先輩の気遣いを無下にするわけにはいかないので「いや、そんな」と応える。この人はどこまでいい人なんだ。
「とにかく、この世には色んな事が溢れてるし、今までやってたことと違うやりたいことが見つかるなんて当たり前のようにありうることだよ。俺の同期にも入部半年で『俺はバンドやるんだ』って退部して校外でバンド組んでロン毛になった奴いるしな」
ハハハと笑う先輩に、心からの尊敬を抱いた。どんな一年を過ごしたら、この人みたいな広い心を持つことができるのだろうか。「でもさ」と、不意に先輩が真面目な顔をする。
「お前の相棒は『心から野球が好きでプレーしてる』のが分かるけど、お前はそうじゃないのは薄々感じてたんだ」
こちらを見透かすような視線に、少しドキッとする。だが、それは違う。
「いえ、そんなことはないです。俺もあいつと、アツシと同じぐらい野球を好きな気持ちをしています」
技術面では劣るかもだけど、気持ちの面ではアイツにも負けませんと付け足す俺を見て、先輩はちょっとだけ驚いた顔をしたあと、ふにゃっと優しい笑顔を浮かべた。
「うん、その言葉がお前の口から聞こえてよかったよ。だけどな」
先輩がよっこいせと立ち上がってこちらに近づいてくる。
「だけどな、お前の世界には今まで野球以外の選択肢がなかったんじゃないか。色んな世界を見て、楽な道も厳しい道も本能的に色々知ってたお前の相棒とは違って、真面目なお前は、ただ野球だけをまっすぐに見て努力してただろ」
それがお前らの決定的な違いだよとポンポンと肩を叩かれた。確かに、自分の世界には、今まで野球と勉強以外の選択肢がなかった。だが、それはアツシも一緒なんじゃなかろうか。あいつ以上に野球にのめり込んでるやつを俺は知らない。「まぁよ」と先輩がこちらに背を向けて歩きながら声をかける。
「あいつがお前を手放すのは、ちょっと難しいかもしれないけど。ちゃんと逃げずに話してやれよ。お前がやりたいことに対して、俺は俺には何も言う資格はないと思ってるよ」
お前の人生だしなと笑うと、それじゃ、と手をあげて先輩は練習に戻っていった。大きな背中に大きく「ありがとうございます」と頭を下げる。俺は、いつかこの人みたいに成長できるのだろうか。今はただ自分の未熟さを痛感する日々だが、遥か高みにいる先輩に心からの感謝と尊敬の意を示して、教室に走った。
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