第2話

 24歳の春。


 コウは私立藍栄高校に就職した。それまでは公立で教鞭を取っていた。


 先輩教員の勧めで来たこの学校は予想よりもはるかに大きい。防球ネットで囲われたグラウンドも広い。


 彼はビジネスバッグの持ち手を握りしめると、校舎に向かって歩を進めた。






「コウちゃん」


「……えぇ?」


 職員室で挨拶をし、コウがデスクで荷物を広げていたらニックネームをつけられた。


「おれは神崎かんざき。国語担当だ、よろしくな」


 気だるげな表情とわずかに着崩されたスーツ。真正面のデスクに座る彼は口の端を上げた。ほとんどの教師がカッチリとしたスーツ姿の中、一人だけ異彩を放っている。


「これからお世話になります。えっと……神崎先生」


「タメでいいってタメで。24だろ、同い年なんだよ」


 初めて見るタイプの教師だった。こんなにラフな人は前の学校にはいなかった。


 コウと神崎は前の学校のことを話しながら、始業式が行われる講堂へ向かった。


「えっ……誰あれ!? 新しい先生!? 超イケメンじゃん!」


「ヤッバ担任に来ないかな……。せめて教科担任!」


「目の保養! 推しの先生や……!」


 道中、たくさんの女子生徒の視線がコウに集まってきた。ささやきあう声も聞こえる。


 神崎の耳にも届いたのだろう。彼は片頬を上げると、コウをちらりと見やった。


「さすがだな。前の学校でもこんな感じだったのか?」


「あ~……。まぁ」


 正直言うとこういうのは初めてではなかった。前の学校だけでなく大学でもそうだった。高校でも中学でも。


「彼女いるん?」


「今はいないよ」


「今は、か。まさかフラレたばっかじゃないだろうな? そういう教育実習生を見たことある」


「何その悲し過ぎる話……。違うからね。最後に彼女いたの大学生の時だから」


 講堂の入口は大勢の生徒や教師が集まっているせいで大混雑している。おしゃべりしている生徒も多いので騒がしい。


 その時だった。彼女の姿が目に留まったのは。


「お? 新入生か。今年もたくさんいるなー」


 神崎の声は右から左。それ以外の声も音も耳に入ってこない。


 コウの視線を釘付けにした彼女はおそらく新入生。顔を強張らせているのは、慣れない環境に身を置いたせいだろう。


 長い茶髪に楚々とした顔立ち。細長い手足が目を引く。


 今まで見たことないタイプの女子生徒だ。背伸びしてるわけではないのに大人っぽい雰囲気をまとっている。


 制服でなかったら大学生に見えるだろう。コウは彼女から目を離せなくなっていた。


「コウちゃん? おーいコウちゃん。新参者は早くスタンバってくれってさ。聞こえてる? つーか聞いてる?」


「……ん?」


「どうしたんだよボーっとして。急に緊張してきた? とりあえず行くぞ」


 神崎に促され、コウは彼女のことを尻目に講堂の別の出入口へ向かった。


 視線を外す直前、彼女と目があった気がした。











 残念ながらその年は彼女のクラス担任や教科担当になることはできなかった。廊下ですれ違うたびにこっそりと目で追うだけ。


「なぁコウちゃん」


「何?」


「恋してんだろ」


「ど……え、どしたの急に」


「とぼけたって無駄だからな。あんた最近、廊下に出ると誰かを探してる目をしてるぞ。まるで好きな人を探すような」


「神崎君!?」


 授業後の準備室。壁には本棚、部屋の真ん中には机と椅子が設置されている。ここは資料集や副教材、黒板に提示して使う教材を保管する場所だ。


 コウは神崎に資料探しの手伝いを頼まれたのだが、全く関係ない話を振られた。


 神崎は分厚い資料集を机に置き、椅子を引いた。ニヤケが止まらない彼はアゴをなで、コウにも座るよう促した。


「で? どうなんだ? 実はいるんだろ? 誰もいねえんだから。さ、吐け」


「簡単に言わないでよ。こっちにだって心の準備が……」


「っつーことはビンゴだな?」


 コウは思い切って全てを打ち明けると両手で顔を覆った。名前を知らない彼女への想いは初めて人に知られた。神崎とは打ち解けているが、気恥ずかしさは半端ではない。


「そーかそーか! コウちゃんの好きな人は一年の女子、っと。横髪を三つ編みにして後ろでまとめてる、つったら壱善さんだな」


「知ってるの!?」


 彼の確信した顔に顔を輝かせると思い切り笑われた。


「おうよ。だって俺、壱善さんのクラスに現代文を教えに行ってんもん。あのコめっちゃ頭いいぜ? 物覚えいいし真面目だ。ああいう生徒が非の打ちどころがない、って言うんだろうな」











 彼女の成績が優秀、というのはコウがニ年目の年に目の当たりにした。


 なんとその年に彼女のクラスの科学担当になれたのだ。職員室での教科担当発表の時、横で神崎に脇腹をつつかれた。


 彼女のクラスで初めての授業の日。自分でもおかしいくらい浮足立っていた。しかし、いざ教室を目の前にするとやけに心臓が暴れていた。


 その日は授業は行わず、クラスの全員の名前を読み上げて自己紹介をしてもらう時間にした。


「────壱善薫子さん」


「はい」


 やっとだ。ようやく彼女の名前を口にすることができた。名簿で見つけて心臓が跳ね、読み上げた時は声が震えそうになった。


 綺麗な名前は彼女の清らかな雰囲気によく似合っている。栗色に近い茶髪、聡明な瞳は翡翠色。初めて目を合わせたその日以降、彼女以外の女性は心の隙間にすら入らなくなってしまった。


 はじめの内はスタンダードに”壱善さん”と呼んでいた。このクラスに打ち解けただろうか、という頃から”薫子さん”に変えて。二年生の学年末テストを返却した時からは。


「おめでとカオちゃん。さすがだね」


「ありがとうございます……」


 照れ顔の薫子。ほんのり顔が赤くなり、コウのことを上目遣いでチラッと見上げた。嫌ではないらしい。そのことに何よりもほっとした。


 衝動的に抱きしめたくなる仕草とはきっとこのことだろう。コウはあふれだしそうなニヤケをかみ殺した。


「ちょっと先生、カオちゃんって何さカオちゃんって」


「アンさんは薫子さんのことをカオちゃんって呼んでるじゃん? だから先生もそうしたい。……変かな?」


 首をかしげると薫子はますます赤くなった。


 果たして次の年はどうなるのかと春までやきもきしていたが、三年目も薫子のクラスの科学を担当することになった。


 その日の帰りは神崎と駅前で祝杯を上げた。











 梅雨が終わって七月。どこの教室もエアコンが解禁になる時期だ。


「もう18時か……。コウちゃん、テストの採点終わったか?」


「今終わった所。そろそろ帰ろっかな」


「だな。俺はちょっくら飲み物でも買ってくるわ」


 今年からデスクが隣になった神崎が赤ペンを放る。相変わらずゆるい着こなしで、学校の誰よりも早くクールビズを始めた。


 彼は首の骨をゴキゴキと鳴らしながら職員室を出ていった。


 期末テストが終わった藍栄高校。今日は三年生の校長面接の結果発表の日だ。


 薫子が銀行で働きたい、と言うのは本人から聞いて知っていた。校長面接の練習をするべく、担任の元へ通っているのも何度も見かけた。


 あれだけ練習していたし、普段の真面目さや成績の良さがあれば大丈夫だろう。そんな彼女は今回のテストも高得点。点数の横にexcellentと記しておいた。


「ただいま~。とりあえずコウちゃんは化学室に行って来いや!」


「なんで?」


「いーからいーから」


 戻ってくるなり缶コーヒーをあおった神崎に職員室から連れ出された。


 コウは背中を押されて化学室の引き戸を開けた。窓側の机に生徒が一人いる。正確には机に突っ伏して動かない。


 背中に広がる茶髪と、後ろでまとめた細い三つ編み。この姿には見覚えがありすぎる。


 薫子だ。


 コウが勢いよく化学室の外に顔を向けると、神崎がニヤニヤしながら顎をしゃくった。彼女を起こしてやれ、というように。


 コウが両手を合わせて深く礼をすると、彼は後ろ手をヒラヒラさせながら去った。


 改めて薫子のことを見ると頬が濡れていた。涙の跡がくっきりと残っている。


 泣くほど辛いことがあったのだろうか。起こした彼女の目は赤く、痛々しかった。











 薫子が就職希望先を変更し、夏休みに入ったある日。


 コウは薬品庫の掃除と整理に精を出していた。入念に埃を払ったりラベルを張り替えたり。


 一息つこうと思った所で教室の引き戸が開いた。


 ”後で飲み物でも差し入れするわ”と言っていた神崎が来たかと思ったがハズレ。訪れたのは予想が外れて嬉しい相手だった。


「あれ? カオちゃんじゃん」


 思わず顔が綻ぶ。彼女は軽く会釈をした。


 夏休みと言えども三年生の生徒には関係ない。連日、職員室に訪れる三年生の姿を見かける。


 彼らが向かうのは大抵担任の元。だからこうして薫子がわざわざ自分の所に来ると勘違いしそうになる。


 コウが軽く首を傾げると、彼女は真面目な表情に嬉しさを混ぜて口を開いた。






「あぁ壱善さん? 彼女は優秀だね。担任の先生はもちろん、学年主任や他の先生もよく褒めてるよ」


 コウは進路指導室に来ていた。ちょっとした用があり、緒方に会いに来たのだ。


 彼は昔、今の姿からは考えられないほど激烈な先生だったらしい。


 進路の話をしていると口調に力がこもって熱くなっていくところは昔の名残だろう。


「壱善さんのことを気にしてどうかした?」


「あ、いえ。教科担任として気になっただけです」


「そう? 彼女なら本番の試験も大丈夫。カルパッチョだね」


「カ……カルパッチョ?」


「軽いって意味だよ」


 緒方は紅茶を片手に笑った。他の教師から"大先生"と呼ばれ、尊敬される人でもこんなことを言うのか。誰からも好かれるはずだ、とつられてほほえんだ。


 彼は表情を変えずにカップを傾け、窓の外を眺めた。


「昔ねー、先生と恋に落ちて卒業後に即ゴールインした生徒がいたんだよ。先生と生徒のカップル、この学校は多いんだよね~。しかも全員、男の先生と女子生徒でさ。いつの時代もやっぱり女の子は年上が好きなのかな」


「あの……大先生。急に何の話ですか?」


「何ってそのままだよ。教え子と結婚して夫婦でここで働いている人もいるよ。他には……」


「じゃなくて! なんで今なんです……?」


 コウが冷や汗をかいていると、緒方は一層笑みを濃くした。企みがあるように見えなくもない。


「恋をするのもいいけど、時期だけはちゃんと考えてねってこと」


(……まずい)


 これは見抜かれているらしい。いつの間に? 神崎は調子は軽いが口は堅い。


 さすがはベテラン教師、と言ったところだろうか。コウのような教師歴数年の若造の心中なんてお見通しらしい。


 緒方は素知らぬ顔で紅茶のおかわりを淹れていた。

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