(両)片想いではいられない
堂宮ツキ乃
第1話
彼は端正な顔立ちに見上げてしまうほどの高身長で、人当たりがよく笑顔も爽やか。まだ大学を出て二年目らしい。それでも薫子たち、生徒には十分大人に見える。
そんなコウは転勤と同時にたくさんの女子の心を奪った。薫子は決してその一人じゃない────わけなかった。
一目見た瞬間に熱い何かがこみ上げてきた。心臓が高鳴り、頬が熱くなり、指先が震えた。
残念ながら一年生の間はコウとの接点はなかった。ただ廊下ですれちがうだけ。その度に彼に見入った。
二年生ではラッキーなことに彼が科学の担当になった。俄然気合が入り、授業は毎回熱心に取り組んだ。彼に存在を覚えてほしい、という下心もあって。
そのおかげでテストでは必ず高得点を取ることができた。今ではコウに名前と顔を覚えてもらえ、呼び方も親しみをこめたものになった。と、授業の度に薫子は胸を高鳴らせている。
最初は”
『カオはまた100点か~?』
ある日のテスト返却時のこと。名簿順に並んで受け取るのだが、薫子は列の最初の方にいた。その横では高校に入ってからの友人が答案用紙をのぞきこもうとしている。
『ちょっとアン、やめてよ……』
彼女を横へ押しやると、二人のやり取りに苦笑いしたコウが答案用紙を差し出した。
『おめでとカオちゃん。さすがだね』
『ありがとうございます……』
(カオちゃんって、カオちゃんって……)
表では平静を保っていたが、本当は飛び上がりたいくらい嬉しかった。テストの点数もだが、新しい呼び方にも。
『すご!? また100点!?』
『声大きいってば……!』
席に戻りながらにぎやかな友人の腕を押し、ひそかに後ろを振り返る。
コウはサッサッと答案用紙を渡し、時々生徒に話しかけられては”がんばったね”と笑いかけている。
彼のことが好きなのは誰にも言ったことがない。アンにも、幼なじみにも。
やはり言いづらい、というものが人にはひとつふたつあるものだろう。
特に────先生のことが好きなんて。
高校三年生になった薫子の進路希望は就職。
収入がごく一般的な両親に、大学や専門学校に進学したいなんて言えない。早く自立して両親を安心させたい、という思いもあった。そういうわけで薫子はこの
歴史が古いこの学校は、近隣の学校に比べると就職率が高い。
狭き門をくぐるために高校生という青春を勉強で染めた彼女。その努力が実り、地元の銀行の就職試験を受けるチャンスを得た。しかし、その前に校長面接を突破しなけれないけない。
様々な対策をして、担任にも太鼓判を押されるほどの受け答えができるようになった。
そして校長面接の結果が出た今日。薫子は一人で化学室にいた。
窓を開け放って校庭を眺めていた。泣き腫らした目で鼻をすする。
一学期の期末テストが終わったばかりの慌ただしい学校。それらとは切り離された空間は落ち着くが、全てに見放されたような気がして孤独感が増す。
校庭ではセミがシャカシャカと鳴き、グラウンドでは野球部が暑い日射しの中で活動している。バッターがヒットを打ち、歓声が響いた。
にぎやかな外を見ているとまた泣き出しそうだった。
(運動部じゃないから、とか……)
校長面接の結果、銀行の就職試験へのチャンスは他の生徒の手に渡った。
『残念だけど……銀行は諦めようか』
帰りのHRの後、眉を落とした担任からそう告げられた。
その時は頭の中が真っ白になって”あ、そうですか”としか答えられなかった。しかし、一人になった途端にぶわっと涙があふれてきた。
ずっと就職することを夢に見ていた銀行。合格したら両親も喜んでくれたはず。そのために頑張ってきたのに。
彼女はため息をつくと身近な椅子に座った。そのまま力が抜け、パタンと机の上に伏した。
(これからどうすればいいんだろ。他に行きたい会社……。今から大丈夫なのかな……)
また目の前がにじんできた。腕時計の針と文字がぼやけている。
薫子は誰かに呼ばれた気がし、目が覚めた。
窓を開け放していても部屋は暑かったのに、冷やされた心地よい風が頬をなでる。まるでエアコンが効いているような。
「……ちゃん。起きて。ここで寝ていたら風邪引くよ」
心地いい、低い美声。寝起きでぼんやりとする耳に優しく、いつまでも聞いていたくなる。
しかしこの声の主は……と頭が回転し始めると薫子は飛び起きた。
「……っ! 小野寺先生!?」
彼女の横に座っていたのはコウ。椅子一つ分、間を開けている。
今年も彼が科学の担任と知った時は心の中でガッツポーズを取ったものだ。
「おはようカオちゃん」
彼は目を細めて机に肘をついた。
「な……んでここにいるんですか?」
乾燥した喉に声が張り付く。緊張もあって硬い声になってしまう。この人を目の前にすると笑顔を浮かべている余裕などない。
「えっと……明日の授業の準備しに来たらカオちゃんがここで寝てたから。大丈夫……?」
「いえ……あ、はい……」
顔をのぞきこむ彼は、痛みが移ったように目を細めた。同情するような表情に心が重くなる。担任からの言葉を思い出してしまった。
「寝ながら泣いてたよ。……話、聞くよ?」
どうやら彼に寝顔を見られていたらしい。恥ずかしさにうつむいたが、薫子は今日あったことを全て話した。小さくため息をつくと、コウはゆっくりと首を振った。
「カオちゃんなら次は大丈夫だよ。いっつも勉強がんばってるから。……ねぇ、ずっと思ってたけどカオちゃんはなんでそんなにがんばってるの?」
「……中三の高校受験の時に母に言われたんです。勉強できるかできないかで人が決まるわけじゃないけど、できる方がいいって」
もちろん就職のためもあるが、もう一つの理由は言えるわけがない。
無言になったのが気まずくて横を見上げると、コウは優しい表情をしていた。
「実行してるカオちゃんはえらいね」
嬉しいけどそんな表情で見つめないで。顔が熱くなってくるから。薫子は気まずさも忘れて彼に見入っていた。
夕日をバックにした綺麗なほほえみなんてずるすぎる。
夏休みに入った。出校日である今日、薫子は進路指導室にいた。
校長面接に落ちてから新たに就職の希望先を考えた。すると選考会の結果、製菓会社を受けられることになった。
先日その会社の見学会に行ったら、社員の人たちがとても良くしてくれてお土産までくれた。社内の雰囲気が明るくてすぐに気に入った。かえってあの時、校長面接に落ちて正解だったのかもしれない。
彼女は進路指導担当の筆頭である、
彼は紅茶の入ったカップを優雅に傾けた。カップは細い持ち手で底の部分は金色の縁取りがある。上半分は青地になっており、草のような模様が金色で描かれている。
片方の手にはカップと同じ絵柄のソーサー。ティーカップとセットのようだ。その姿は某刑事ドラマの主人公にしか見えない。
「この会社、毎年人気なんだよ。勉強をがんばるだけじゃなくて部活やボランティア活動に取り組んで、資格も取得してやっと受けることができる会社だからね。壱善さん、一年生の時からがんばっていたんだって? 担任の先生から聞いたよ」
そんな緒方が言うには、薫子が受けることになった会社は藍栄校と縁が深い。選考会を通ったらもう内定が決まったようなもの、とのこと。
しかし、彼女にとって就職試験というのは未知なもの。”私でも大丈夫なのかな……”と視線を落とすと、カップをソーサーに乗せる音がした。
「壱善さんなら大丈夫。カルパッチョだよ」
温かい声に顔を上げると、彼はグッと親指を立てた。
……カルパッチョ?
「……何ですかそれ」
「軽いって意味だよ」
薫子は吹き出した。
ベテラン大先生でもそんなこと言うのか。おかしくてつい笑ってしまった。
職員室に行ったら目的の人物がおらず、もしかして……と思って化学室に来たらいた。
「あれ? カオちゃんじゃん」
コウだ。彼は珍しく白衣とマスクを身に着けていた。夏休みを利用して薬品庫の掃除と整頓をしていたらしい。
レアな白衣姿に見とれたが、先ほど大先生に言われたことを報告した。
「ありがとうございました。あの時、次は大丈夫って言ってくれて。すごく心強かったです」
薫子の中では告白めいた言葉。絶対に彼に伝えようと思っていたことだ。声に出すにつれ、顔が赤くなっていくのが自分でも分かった。
話を聞き終えたコウは”よかった”と言ってマスクを外し、安堵した笑みを浮かべた。
「ほらね、大丈夫だったじゃん。俺はこうなるだろうってわかってたよ。お疲れ」
今、一人称が"俺"になっていた。薫子は目を見開いた後、改めて頭を下げた。
これが彼の素なのだろうか。だとしたら嬉しい。
化学室を出ながら薫子は表情を和らげた。
夏休みが終わり、二学期の中間テストを迎えて体育祭がやってくると就職試験の日になる。
その日は人生で今までかつてないほど緊張した。同行者たちに何度も”大丈夫?”と心配されるほど。
彼らは同じ会社に入社希望の仲間だ。全員クラスは違うが、”来年から同期だね”という誰かの言葉で強い結びつきが生まれた。今ではメッセージアプリでグループを組んで励まし合う仲だ。
会社に着くと見学会の時と同じ男性社員に案内され、会議室へ入った。
ふかふかのソファに腰かけると冷たいお茶を出され、試験について説明された。
『漢字と計算と英語の簡単な問題を解いてもらいます。その後に面接を行います』
問題は学校で散々やってきた基礎的な内容。対策が役に立ち、試験中に心の中で緒方を思い浮かべて感謝を述べた。
面接は正直言うとほとんど雑談しているようだった。おかげで終始和やかな雰囲気で、滞りなく受け答えができた。
その数日後、合格通知を教室で受け取った時にはクラス中がお祝いムードに包まれた。
「カオちゃん、就職試験受かったんだって?」
移動教室でアンと歩いていた薫子は、階段でコウに話しかけられた。合格通知を渡された数日後のことだった。
階段を登っている途中で声をかけられ、振り返ると彼はわずかに息が上がっていた。
「はい、おかげさまで」
「おめでとう、さすがだね」
長身の彼と目線が近くなるのは初めてだった。薫子はぎこちなくほほえむと、教科書を抱きしめる腕に力をこめた。
本当は結果を直接伝えに行きたかったのだが、部活や彼の不在で会えなかった。
それがこうして彼から声をかけてもらえた。これ以上に幸せなことはない。
「先生、誰かに聞いたんですか?」
アンは疑わし気な目でコウのことを見下ろす。その視線に彼は頬を引くつかせ、”たまたま知ったんだよ……”と力なく答えた。
コウは声をかけなくても廊下ですれちがうといつも笑いかけてくれる。その視線にアンも気付いていたのだろう。
彼と別れるとアンが口を開いた。
「ねぇカオってさー、最近よく小野寺先生に話しかけられてない?」
「……そうかな」
「自覚ないんかアンタは。ワンチャン狙われてるんじゃない?」
「あの先生がそんなワケ……」
「さあね? 小野寺先生は基本謎だからね。彼女いそうなのにニオイが全くないし、男子への当たりもいいし。一体何者だー?」
コウのことが読めない、というのは薫子も同意見だった。先程の彼の笑顔を思い出して一人赤くなる。
提出物の忘れや遅れに関して甘いな、と思ったらテストで鬼になったり。
一年生の時は一方的に見上げてるだけだった。しかし、今では彼からほほえみを向けられることが多い。それは単純に顔と名前を覚えてもらえたから、なのだろうけど。
それでも実は、彼の中でちょっぴり特別な存在になっているのではとうぬぼれることがある。
先程のこともそうだし、化学室でのことも。他の人に同じことをしていたらもっと噂になっている気がする。
彼の本心が知りたい。だがそんな勇気はない。薫子はアンの分析を耳に入れず、目を伏せた。
彼とは今の距離が一番合ってる気がする。
他の積極的な女子みたく、廊下でコウを呼び止められなくていい。自然にほほえみかけてもらえるだけで嬉しいから。
他愛もない話をしたり、化学室で近況報告をする時間が一番好きだ。
その時だけでも彼の特別になれたように思えるから。
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