第3話

 科学の授業中。


 今日の内容は酸化と還元という、THE科学な内容。実は文系である薫子にとっては気が重い単元だ。


 そう言うとアンは”どうせカオなんて勉強すればできるじゃん! 文系なんて嘘でしょーが!”と、子どもっぽく拗ねる。そんな彼女は薫子の斜め前の席で睡眠学習中だ。


 薫子が何とか授業についていけるのは担当がコウだからだ。正直、中学生の理科の成績は褒められたものではなかった。


 コウが黒板にいくつか科学反応式を書き、各自でそれを解くことになった。


 彼はぐるぐると教室を周り、眠たそうにしている生徒に声をかけている。アンが叩き起こされるのも時間の問題だろう。


「カオー。朗報だぞ」


 薫子が黒板をガン見しながらシャーペンを走らせていると、幼なじみのミツヤに声をかけられた。


 手を止めて顔を横に向けると、彼は顔をニンマリとさせた。


葉山はやま覚えてる? 中三の時に同じクラスだったヤツ。この前カオのこと久しぶりに見かけたらしくて会って話したいってよ。どうする?」


「嫌。行かない」


 首を振るとミツヤにデコピンをくらわされた。


「痛っ」


「……ったくカオは。そんなんじゃいつまでたっても彼氏できないぞ。これが高校生活最後のリア充になるチャンスかもよ?」


「余計なお世話……」


「バーカ。こちとら奥手な幼なじみを気にかけてるんですけど」


 ミツヤは幼い頃からずっとそうだった。聞き入れなければすぐにデコピン。お節介な男子だ。


「自分だって彼女いないくせに」


「ほっとけ。なぁ、好かれてる相手と付き合ってみるのもありじゃね? そっからそいつのこと好きになるかもしんないし」


 ミツヤの考えることには一理ある。しかし、薫子は首を縦に振りたくなかった。


 だって今の自分には。薫子は席と席の間を歩くコウのことを遠目に見つめた。


(先生とは……)


 彼とどうこうなりたい、という気持ちはない。自分にはそもそも無理だ。ミツヤの言う通り消極的だから。


 問題を解くのを再開しようとしたら、ミツヤがからかい口調になった。


「あ、実は好きな人でもいんのか?」


 シャーペンを置こうとした手が止まる。瞬時に否定できなかった。


 コウのことはミツヤでも話せないが、コウへの想いはその程度なのかと思いたくなかった。


「う……」


「起きて~。ここ、テストで大事だから」


 声にならない声をもらすと、いつの間にかコウがアンの席の前にいた。容赦なく肩を揺さぶっている。ミツヤも視線をアンに移した。


 当の本人はムニャムニャ言いながら体を起こし、目をこすっている。


「おはよう。眠れる野獣さん」


「はァ!? 野獣!?」


 コウの一言でハッキリと目を開けた彼女は、突拍子のない声を上げた。


「なんつーこと言うんですか!?」


「や……。だってアンさん、寝方が姫じゃないもん。どう見ても野獣だよ」


 コウとアンのやりとりに薫子は笑いをこらえられなかった。それはミツヤも。


「ちょっと! 二人まで何笑ってんのさ! 襲うよ!?」


「そう言う当たりホントに野獣じゃねーか」


 ミツヤの一言にクラスのほとんどが手を叩いて笑った。











 薫子は姿勢よく熱心にノートの上でシャーペンを走らせていた。斜め前の席にいるアンとは大違いだ。


(ほっとこ……。いつものことだし)


 コウは心の中で苦笑いをし、挙手した生徒の元へ行ってノートをのぞいた。


「会って話したいってよ。どーする?」


(んん!?)


 眉が音を立てそうな勢いでグッ寄る。目の前の生徒に怪訝な顔をされ、慌てて取り繕ったが聞き流すことはできなかった。


 コウは生徒の質問に答えながらミツヤの声に耳を立てた。我ながら器用なことをしている。


 実はミツヤのことは以前からマークしていた。見ている限り、彼が薫子に一番近しい唯一の男子生徒だからだ。


 どうやら彼は薫子に誰かをマッチングさせようとしているらしい。


 首を振った彼女に安心したのも束の間。ミツヤは薫子にデコピンをくらわせた。


 そういうスキンシップも許されるのか、と引け目を感じる。硬直しかけたコウは別の生徒に呼ばれ、再び手元をのぞいた。


「そんなんじゃいつまでたっても彼氏できないぞ」


 そこで初めて薫子が年齢=彼氏いない歴だと知る。


 強情な彼女の言葉にほっとしたがそろそろ邪魔をしたい。強情な態度に出た彼女の手助けも兼ねて。


「起きて~。今日の内容、今度のテストで大事だから」


 授業が始まってから爆睡しているアンの肩を叩いた。残念ながら彼女はそう簡単に起きない。四月から見慣れた光景だ。


 アンはうなりながら寝返りを打った。どうやら夢の中らしい。コウは強めに肩を揺さぶり、いつもより大きめの声で起こしにかかった。


 今日は彼女が寝ていることに感謝した。いつもは成績に響かせているが、今日のはおまけしようと決める。


 思惑通り、二人は話すのをやめた。アンも寝ぼけまなこで体を起こし、ガラガラの声で”んあ……”とつぶやいた。


 コウはにっこりと笑い、アンにノートを開かせた。漂白でもしたのか、というくらい真っ白だ。


「おはよう。眠れる野獣さん」


 薫子が耳がくすぐったくなる柔らかい声で笑っていた。普段はクールでも、笑うと女の子らしさが増す。


 そんな彼女に彼氏ができるのは近い将来かもしれない。


 コウは一緒になって笑いながらも眉を下げた。











 ”今度の科学のテスト範囲、さっぱり分かんないから一緒に教えてもらお!”と、薫子はアンに誘われた。


 というわけで特別に化学室で勉強会が開かれた。もちろん講師はコウだ。アンは授業中の眠れる野獣事件を反省したらしい。テスト週間前なのにテスト対策をするなんて、天と地がひっくり返るのかと身構えてしまった。


 ちなみに化学室は授業後、曜日によって漫研部の部室になる。薫子がいつの日かここで泣いた時、活動日じゃなくて良かったと後からほっとした。


 テストの範囲をおさらいし終えたところでアンが伸びをした。


「今日の先生のスーツ、ホストっぽいわ~」


 衣替えは過ぎたがまだまだ暑い日が多い。コウはネクタイを外し、灰色のワイシャツの袖を肘までまくり上げている。


 薫子は内心”眼福……”と、まじまじと観察していた。男の人の腕まくりにはつい見惚れてしまう。引き締まった腕の筋肉の感じとか、わずかに浮き上がった血管とか。それがコウなのでなおさらどぎまぎする。


「先生は純粋な教師です。カオちゃんはアンさんみたいなこと言わないのにね」


 今、目があったら顔が赤くなりそうだ。薫子は必死に首を縦に振ると彼の視線から逃げた。開いた問題集に目を落とし、シャーペンを握る手に力をこめる。


「カオはクール女子だもんね」


「そうだね。眠れる野獣と違ってよく勉ky」


「うるさーい!まだ言うんですかそれ!? カオのことはカオちゃんって呼ぶくせに……」


「……もしかしてヤキモチ?」


「妬くかー!」


 先生と軽口を叩き合えるアンがうらやましくなった。彼女のように明るくてさっぱりとした性格なら、どんなかっこいい人の前でも緊張して固まることはないだろう。


 薫子は声なんて聞こえないフリをし、シャーペンを顎に軽く当てた。


 すると視線を感じ、顔を上げたらコウと目が合った。


「……分からないことあったら聞いてね。カオちゃんだったら余裕かもしれないけど」


 何ですかと言いかけるより先に彼が口を開いた。ちょっと挙動不審に見えなくない。











 テスト当日。コウが薫子のクラスへ見回りに行った時。


 彼女の机の前で立ち止まってしまった。


 いつもと同じ、真剣な面持ちで懸命にシャーペンを走らせている姿に釘付けになった。その表情は努力家の彼女らしい。小さくほほえむと、クラス全体を見渡した。


 テストの問題について質問はないようなので、次のクラスへ行くことにした。


「……じゃっ、最後まで頑張って下さい」


 その応援の九割は目の前の薫子に向けて。彼女の斜め前のアンは珍しく、シャーペンを勢いよく走らせていた。特別授業が役に立ったのなら嬉しい。


 教室を出たコウはジャケットの衿を直し、手の平を握りしめた。


 実を言うと、薫子との接点が増えていく直前に事件が起きていた。

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