第5話
ライブが二週間まで迫った宵の口、俺はある深夜喫茶に辿り着いた。テナントの二階でほそぼそとやっている、目立たない店だ。その扉を開けると、カウンターの内側にいる女と目が合った。あの女だった。
「どうして、貴方がここにいるんですか」
「探した。バンドマンは暇だから」
「ストーカーみたいですね」
「それをいうなら、
俺はカウンターの席に腰掛ける。彼女は少し困惑しつつも、お冷やをそっと差し出した。コップは結露で少し濡れていた。
「私がここで働いてるって、よくわかりましたね」
「何も難しくない。あんたの背中を追ったら、ここに入っていった」
「他のお客さんがいるときは言わない方がいいですよ、それ」
彼女は呆れるように笑った。俺は店内を見わたす。あわせて十席ほどの店内はがらんとしていた。さっき開店したばかりだからだろう。
「あんたにまた、訊きたいことがある」
「まずはご注文をお願いします」
彼女は澄ました顔で言う。可愛くない女だ。卓上のメニュー表を見ると、コーヒーや紅茶だけでなく、酒類も並んでいた。少し悩んだけれど、ブレンドを頼んだ。今は酒を飲む気分にはなれない。
「たかが一ファンに、何を訊きたいっていうんですか?」
彼女は豆をひきながら訊ねた。香ばしい匂いが広がりはじめた。
「俺は何がしたいんだろう」
豆をひく手が止まった。その代わり口を抑えて控えめに笑う。
「そんなの、ファンに訊くことじゃないでしょう」
「これでも俺は迷ってるんだよ」
「自分のことなのに?」
「自分のことだから」
「貴方の事なんて分かりませんよ」
「嘘つけよ。分かるだろ」
「どうして?」
「だってあんたは、あの頃からずっと俺のファンだ」
ポットの水が沸く。彼女はネルにコーヒー粉を落とした。
「あんた言ったよな。適切に燃料を与えれば、俺の火は燃えるって。じゃあ、昔の俺はそれができていたんだ。でも今は、どうしてもその方法が分からない。あの頃の俺と今の俺は、何が違うんだろう?」
彼女はお湯をコーヒー粉に注ぐ。ゆっくりと黒い液体が抽出されていく。
「難しいですね。でも、なんとなく分かるような気もします。あの頃の貴方は、迷うことに迷いがなかった」
「迷い?」
「はい。あなたは一番大事なところでは、何も迷っていなかったような気がする。なんていうのかな。暗闇の中を迷いながら、でも、どこかに光があることを信じることは、決して迷っていなかった。貴方は、自分が弾くギターの正解があることを信じていたように思う。それが演奏に表れていた。だから私は、貴方に惹かれた」
カウンターにコーヒーが置かれた。黒い水面に、俺の顔が見えた。
「貴方は今、迷ってるんでしょうね。でもその迷いは、正解があるかどうかすらも分からない、そんな迷い方なんじゃないですか? なら一度、信じることからはじめてもいいのかもしれない」
彼女は照れくさそうに頬をかいた。あの頃の俺は、光があることを信じていた。その光とは何だ? 決まっている。ジミヘンだ。ジミヘンを演奏することの正解を、俺は探していた。じゃあ、今の俺にとっての光は何だ? 俺は、何を目指して迷えばいいのだろうか。そんな答えを、俺は知ることができるのだろうか。
「それで、私もまた絵を始めてみようと思ってるんです。一度諦めちゃったけれど、迷っている貴方に少しでも近づきたくて」
彼女は笑った。「いいと思う」俺はそう返した。
俺にとっての光。今の、俺にとっての光。あの頃の俺がジミヘンに憧れたように、彼女が俺に憧れたように、俺がどうしようもなく憧れているもの。そんなものあるのだろうか。それは、考えてもひとつしかなかった。白紙の五線譜を取り出して、その上部に新曲のタイトルをつける。
『27CLUB』
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