第3話

 その答え合わせは、ライブでされることとなった。結局新曲を書くことはできなかったけれど、俺はその過程の中で、あの女に関するひとつの仮定を立てることができた。もしその仮定が正しいのならば、俺はあの女にまた会う必要があった。

 ライブ本番。今日の出演は四バンドで、俺のバンドは二番目。ステージ上でセッティングしている間、ちらりと客席を流し見た。元からそう多くない観客は皆壁際へとよってしまって、つまらなさそうにスマホを弄っている。最前列で俺の音楽を待っているような奴はいない。まあ、もう見慣れた光景だ。

 軽い音出しを終えて、本番が始まる。ドラムとベースのグルーヴに、俺のギターと歌を載せる。繰り返しのリズム・フレーズにあわせて歪んだ声とギターが鳴った。死にかけのR&B 。演奏中に、藤本のあの言葉がふと浮かんだ。ああそうだよ。思わず自嘲の笑いが出そうになる。こんなの、現代じゃ流行らない。

 まばらな拍手をステージに残して、俺は控え室へと戻った。ギターをスタンドに放るままドアを開けて、客席に続く廊下へと出る。ライブハウスから出ていくには、ここの廊下を通るしかない。俺は出入り口の側の壁にもたれかかる。しばらくは待ちぼうけだ。煙草が欲しいと思った。

 三十分ほど客席を出入りする人間を見送って、ただ待つにも飽きてきたほどに、お目当ての人間が客席から出てきた。そいつは俺のことを認めると、ふと足を止めた。

「今日は、驚かないんだな」

 俺がそう言うと、女は伏し目にじっとこちらを見つめた。まるで天敵に対峙した小動物みたいに。

「私はここに、貴方を見に来ましたから」

 あの夜より低い声だった。意図的に感情を抑えているようでもあった。今度は俺の方が彼女を観察する。クリーム色のスウェットにジーンズ素材のパンタロン。そんなファッションのせいか、身長はだいぶ高く見えた。一七〇近くはあるだろうか。すらっとしたその身体の上に、小ぶりな顔が載っている。すらりとした細い目、高い鼻、薄い唇。髪は前と一緒で明るいブラウンをしていたが、頭頂部はもう黒みを取り戻していた。そんな外見は全体として、近寄りがたい印象を与えていた。俺だって、好き好んで近寄ろうとは思わない。でも。

「あんたに訊きたいことがあるんだよ」

 彼女の目が少し開かれて、また細められた。表情の変化が乏しいわけではないんだなと、ぼんやり思う。

「あんたずっと、俺のライブに来てるよな。毎回端っこの方で。しかもここ数年じゃない。俺が高校生のときにバンドを組み始めてから、ずっと」

 俺は確信をもって問う。最初はありえないと思ったけれど、自分の記憶を辿るほどに、それは正しいとしか思えなくなった。はじめてバンド演奏をした小さなライブハウスからもう、彼女はその一隅を占めていた。いつも同じ位置でステージの方をじっと見つめ、俺の出番が終わったらいつの間にかいなくなっている。今までは特に気にも留めていなかったけれど。まだ残っている唯一のファンは、天才の賞味期限になった今の俺には対して大きな意味を持つ。今目の前にいる彼女は、恥ずかしそうに薄く笑みを浮かべていた。

「貴方は、ファンのことなんて興味ないのかと思った」

「今までは興味なかったよ。今もあんた自身に興味なんてほとんどない」

「そうですね。そう言うと思った。ねえ、でもひとつだけ訂正させてください」

 彼女の視線が俺の目を射る。

「私は、貴方がバンドを組む前から貴方のファンでしたよ。うん、忘れもしない。貴方が十二歳で、私も十二歳のとき。貴方のギターと歌声を、テレビの向こうで見たときから、ずっと」

 俺は返すべき言葉を失った。あの頃のことを、まだ覚えている人間がいるなんて。あの頃を知っていてなお、今の俺の演奏を見に来るような奴がいるなんて。

「あのときは驚きました。まさか同い年の男の子が、あんなにかっこよくギターを弾くなんて。同い年なのにすごいなあと思いながら、私は貴方と同い年なのになんてつまらないんだろうって思いました。それで私も貴方に憧れて、天才になりたくて、絵を始めました。まあ私の方は、美大まで行ってから諦めちゃいましたけどね。まあつまり、私の凡庸な人生は、貴方を初めて見たときから、貴方という天才を追いかけるためのものになったんですよ」

 天才。天才か。笑ってしまいそうになる。そんなの彼女(ファン)以外に言われたら、嫌味にしか聞こえない。

「俺はもう天才じゃない。あんたしかもう真面なファンがいないのに、どうして天才なんて言っていられるんだろう」

「それは、違う」

 力強い声だった。彼女はそこで言葉を句切って、ぐっと俯く。廊下は途端に静かになる。ステージの方から漏れ出るバスドラの音だけ遠くに鳴っていた。

「貴方はずっと、今も、天才なんだ。私には見えるんです。貴方の中で燃える火が。誰にも負けないような、才能の火」

 彼女は俺の胸の辺りを指さす。そしてその指先に目線を据えたまま、じっと動かない。まるでその火が本当にあるかのように。

「今の俺にも、そんなものが残っているなんて信じられない」

「でも確かにあるんですよ。今はちょっと鳴りをひそめているだけで。また適切に燃料を与えれば、あの頃と同じくらいに、あるいはそれ以上に、激しく燃えると思う」

 そう言って彼女は軽く頭を下げ、俺の脇をすり抜ける。彼女は行ってしまった。言いたいことだけ言いやがって。一人になった廊下で、俺は俺の中で燃える火をイメージする。昔は爛々と燃えていた火。あの頃の俺はどうやってその火を燃やしていたのだろうか。あの頃の俺と今の俺とは、何が違うのだろうか。

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