第2話晴れた朝
後ろ手でふすまをしっかりと閉じ切って、廊下をぺたぺたと歩き出す。
黒い木材を敷き詰めた薄暗い廊下には、ぽつぽつと等間隔に白い四角形が落ちている。それを目の端に映すと、なんの気なしに廊下の右側に体を寄せる。
足二つ分程のそれに足を付けると、じんわりとした温かさが足の裏に広がった。足首のあたりまでが陽光に照らされ、温められた床とはまた違った、チリチリとした陽気に包まれる。
いつもだったらもう少し立ち止まって足を温めていくところだが、今朝は寒さとは無縁の朝だ。それに今日はやることがある。2つ目の四角形をしっかりと踏んづけて、右に続く暗い真っ直ぐな階段に足を着けた。
階段を一段降りるたびに、朝の喧騒が大きくなっていく。二階と似たような廊下に辿り着くと、光と音の溢れる廊下の奥の部屋へ向かった。
部屋に入ると、長い金色の髪が揺れ、翡翠色の瞳がこちらを捉える。
「おはよータクマ。ナイラありがとね」
お母さんが机に座ってパンを食べていた。その足元に視線を移すと、同じ翡翠色の瞳が白い足から覗いている。
安全地帯を確保して余裕そうな顔が、僕の復讐心に油を注いでくる。だが、お母さんを盾にとられては水球をぶっ放すという方法は使えなくなった。一番簡単な復讐方法を失った僕は、仕方なく視線を上げると言った。
「お母さん、明日ちょっと早く起こしてくれない?」
お母さんは、いいけどなんで?と聞いてくる。僕は淡々と説明した。
「僕明日ナイラのベッドを」
すっと視線を下げ、目を見開く。
「水に沈めなきゃいけないから」
ナイラがひっ、とお母さんにしがみつく。間違った起こし方は違うものも起こすということを教えてやらねばならない。
首を洗って待ってるんだな、全身洗ってやるからよと目をかっぴらいていると、頭に、軽めと言うには重いチョップが振り下ろされる。
「私たちも沈むでしょうが」
一瞬ほっとしたものの、あれ?そういう問題!?という目でお母さんを見上げるナイラ。残念だったな。ちょっとチョップは強かったが、お母さんは妹だからといって無条件に守るようなことはしない。ちょっとチョップは強かったが、適切な説明を行えば早く起こすぐらいしてくれる!
僕は痛む頭をさすりながら提言する。
「大丈夫だよ。僕を起こしに来てるんだから、お母さんもういないじゃん!」
「お父さんがいるでしょ。そもそも畳に水をぶちまけるなんてお父さんがゆるしてくれないよ」
あ、忘れてた。
限りなく早く振り向くが、もう遅かった。ナイラが、お父さんの膝に陣取っていた。
やられた。お父さんの目の前で、寝室の畳に水球をぶちまけることはさすがにできない。つまり、お父さんにはナイラと別の場所で寝てもらわなければならないのだ。だが、それをお父さんに頼むということは、畳に水球をぶちまけますと言っているようなもの。ナイラにとって、お父さんは完全無欠の絶対要塞だった。
僕は、崩れ落ちた。僕が日課の太陽踏みをスキップしてまで描いた復讐は、ここで・・・。
徐ろにお父さんがナイラを抱いて立ち上がる。そして、諭すように語りだした。
「いたずらは、しても構わない。ただ、ナイラ。」
ゆっくりと、歩く。
「やったらやり返されるということは、必ず覚えておかなきゃいけない。目には目を、歯には歯をってやつだ。」
そう言ったお父さんは、俺の前に仁王立ちした。
お父さん、まさか。ナイラが慄いた顔をする。
僕は震える声で、お父さん、と呟く。
「タクマ」
芯の通った声が僕を呼ぶ。眼鏡の奥のお父さんの目は、決意に光っていた。
「私ごとやりなさい」
そんなまさか。たかだか悪戯のやり返しごときで、自分の身を差し出すなんて。
僕はためらった。
「お父さん、でも!」
「いいんだ。」
いいわけない。復讐の協力者ごとコレをぶち当てるなんて。
「お父さぁん!!」
「やれぇぇーーー!!!!」
うわああああと叫びながら僕は投げた。お父さんの覚悟に応えるように。
頭ほどの大きさの水球が、
お父さんの顔に炸裂した。
「あっ」
お母さんが吹き出した。僕とナイラは水の滴るお父さんを呆然と眺めていた。
しばらく固まっていたお父さんは、左腕に抱いていたナイラを丁寧に降ろし僕を指差すとこう言った。
「やれ」
ナイラに冷酷無比な命令が下される。僕は身構えた。ナイラは手のひらに水球をつくると、
うらぎりもの!と叫んでお父さんの顔面に水球を叩きつけた。
身構えていた僕は吹き出した。お母さんは、机をバンバン叩いてる。ナイラはざまぁないぜという顔でお父さんを見上げていた。お父さんは小さい娘の可愛さに惑わされず正しい裁きを下そうとした傑物なのに。
ヒーヒーと笑い転げる僕達を見て、お父さんは眼鏡を拭いた。そして、不敵な笑みを浮かべて両手を横に広げた。
「お父さんもやり返しちゃおっかなあぁぁぁ!」
1メートル程の巨大な水球が、両手の上に出来上がっていく。2つの澄み切った巨大水球を見て、僕とナイラがうおぉぉぉぉと目を光らせる。自信満々に水球を見せびらかすお父さん。
その頭に、斬る気だったんじゃないかと思うような明らかに強烈な手刀が振り下ろされた。
「そんな量の水出すなぁぁぁぁ!!!!」
お母さんが、机を挟んでいたというのに一瞬にしてお父さんを斬り伏せていた。その瞬間、水球の水が形を失い一気に床に流れ落ちる。
膝をつくお父さん。そこに、僕とナイラが駆け寄る。
「いまのすごかった!」「本気の魔法すげぇー!」
きらきらした目でもっかい、もっかいとねだる僕達を見て、お父さんはふっと笑い僕達を抱き寄せた。
「いい子たちだ・・・」
しみじみと言った。
数秒感傷に浸ったお父さんは、思い出したように立ち上がった。
「着替えてくる」
仕事に行くときの服はびしょびしょになっていた。
お父さんがリビングを出ていくと、お母さんは床の水に布巾を並べ始めた。
僕は机に座ってパンとスープを食べ始める。と、呼び鈴が鳴った。
こんな時間にうちにやってくる人間は、彼女しかいない。僕は小走りで玄関に向かうと、木製のドアを押し開けた。
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