第29話:(過去編)明かりは再び灯された



 田中君のすすり泣く声が聞こえる中。


 ――カチッ、と、何かのスイッチを入れたような音がした途端。ブゥゥゥゥンという昆虫の羽音のような振動音が聞こえた。


 その振動音がどんどん近付いてくる。


「……返事はもうええわ。これは命令ぞ! そのまま動かんとけ!」


 怖い、怖い、怖いよ……


 振動している何かが僕の頭に触れる。

 ジジジジジジジジジジ……

 細かく振動する何かは、僕の頭を撫でるように、額のほうから後頭部まで行くと離れ、再び額のほうから後頭部まで、少しづつ横にずれながら、前後の動きを繰り返している。


 ジジジジジジジジジジジジ……

 何をされているのか分からない。


 得体の知れない虫が、大きな羽音をたてながら僕の頭を移動している。

 そんな想像をしてしまうほど、僕は恐怖に支配されていた。


「わっ、小便もらしょうるんか! もうちょっとで終わるけ我慢せえ!」


 ハーフパンツの内側が、なぜか暖かくなり始めたとは感じていたけれど、恐怖に押し潰されている僕は、お漏らしをしている感覚は全くなかった。


 今すぐおしっこを止めないと、また暴力を振るわれるかもしれない。だけど、感覚の無いものをどうやって我慢すればいいのか。


 理不尽だと思えることまで、恐怖となって混ざり合うと、更にハーフパンツの内側が暖かくなった。


「あー、こっちまで流れて来よった。女みたいな男は、小便も我慢もできんみたいじゃ」


 自分では止められない――。そう思うと何も考えられなくなった。


「まあええか。こいだけ刈っとれば男らしゅうなっとるはずじゃ」


 振動音はそこで止まったけれど、僕は固く目を閉じたまま動かなかった。


「もしも先生にチクりよったらどうなるか分かっとうな?」


 僕は何度もうなずいた。

 そのたびに、おでこが床に当たって、濡れた床板がぺちゃぺちゃと音を立てた。


 砂垣君の足音が出入り口の方へ離れていった。

 離れたその場所で、声だけが聞こえてくる。


「おい田中、早よぉ戻るで。ところでよ、誰も来んかったろな?」

「うっ……うん、だ、誰も来な……うっ、うう……ぐすっ」

「お前もチクんなや、わいらは共犯ぞ?」

「えっ、う……誰にも、い、言わな……ひっく、う、うう……」

「泣くな田中、お前は男やろが!」


 ――タタッ、と、僕に駆け寄ろうとする足音。それはすぐに止まった。


「どこ行きよんじゃ田中。わいはこいつを男らしゅうしてやっただけじゃ。早よ来い!」

「……なおちゃん、ぐすっ、うう……ごめん。ごめんね」


 ……再び二人の足音が遠ざかる。


 大きなスライドドアの錆びついたローラーが、ギュリギュリと音を立て始め、劣化したゴムが僅かに残る戸当りが、ガタンと音を立てると止まった。


 全ての音が消えた。


 ◇


 静まり返った冷たい体育館の中。僕はただただその場にうずくまっていた。


 いつまで経っても体の震えが止まらない。

 それに、漏らしたおしっこが冷えてきて、随分と寒い。


 午後の授業を知らせるチャイムが鳴った。

 僕の学校は予鈴を鳴らさないので、始業チャイムが鳴るまでに教室に居るようにという決まりがある。


 教室に戻らなきゃ……。

 ふっと気付いたように、それまで固く閉じていた瞳を開く。


 ……これ、何だろう……

 自分の周りに、何か黒い物が散らばっている。


 ――えっ、髪の毛……?

 どくどくと鼓動が高鳴るのを感じ、自分の頭に手を遣った。


 ――無い……僕の髪が無い!


 途方もない絶望感に襲われた僕は、立ち上がることさえ出来ず、濡れた床にぺたりと座り込んだまま、ただただ泣き続けた。


 あの振動音の正体は、充電式のバリカンだったんだ。

 僕は砂垣君に、所々髪が残ってる坊主頭にされたんだ。

 そんなに恨まれる事を僕はしたんだろうか。


 それからどれだけ時間が過ぎたのか分からないけれど、体育館の大きなスライドドアが、ギュリギュリと音を立て始めた。


 誰かが開けているんだ。そう思った瞬間、駆け寄ってくる足音。


 僕は頭を両手で覆いながら体を小さく丸めると、無我夢中で叫んだ――。


「ごめんなさい! うっうぅ、ごめんなさいごめんなさい! ごめんなさ――」

「なお君、俺だ」


 聞き覚えのある大人の男性の声だ。


「もう大丈夫だぞ、なお君。もう何も心配要らないぞ」


 顔を上げると、僕の事を唯一、君付けで呼んでくれる副担任の後藤先生の姿があった。


 後藤先生は大急ぎで自分が着ているジャージの上着を脱ぐと、それを僕の頭からすっぽりとかぶせ、僕の視点と同じになるくらい腰を落とした。


「うっ、うう……後藤先生、僕、ううっ、お漏らししちゃってるから……ひぐっ」

「気にするな。俺は上着の汚れより、なお君の方が心配なんだから」

 そう言って僕の背中に大きくて温かい手を添えた。


「で、でも……ひぐっ」

「心配するな。なお君を誰にも見られないよう、家まで送り届けると約束するから」


 膝をつくと、僕に被せているジャージの上から優しく抱きしめ、冷え切った背中をゆっくりとさすり始めた。


「ひぐっ……うっうっひぐっ、あの……ううっひぐっ」

「問題ない。児島先生には後できちんと報告しておくから」


 僕を抱き寄せる後藤先生の胸板は、厚く力強くとても暖かかった。


「うっうっ……ひぐっ」

「大丈夫だ。俺が大丈夫と言ってるんだから何も心配するな」


 そして、僕の腰の下に左腕を伸ばすと、力強く僕を抱え上げた。


「うっうう……先生が汚れちゃう……」

「洗えば済む話だから、俺ならなんともないぞ。ほら、もう泣くな」


 僕が目を合わせると、大きく頷いた。


 ◇


 後から聞いた話なんだけど、始業時間になっても僕が戻らないので、児島先生がみんなに聞いたそうなんだ。


 すると、児島先生が僕を呼び出したんじゃない事に気付いた女子達が、口元に青あざができている田中君を取り囲んで、問い詰め始めた。


 呼び出した様子を見られていて、言い逃れが出来ない田中君は、泣きながら白状したんだけど、あまりに酷い内容に、今度は女子全員が、一斉に砂垣君に詰め寄って、悲鳴混じりの罵声を浴びせ始めた。


 その様子を見た児島先生は、副担任の後藤先生に、

「後藤先生、こちらは私がなんとかするので、なおちゃんの方をお願いしてもいいですか?」


 すると後藤先生は、

「分かりました、すぐに向かいます」と、答えた。


 それで、僕の所に駆け付けてくれたんだ。


 ◇


 後藤先生はお漏らししている僕を片手で抱えたまま、スマホの電源を入れると配車アプリを開き、学校の裏門を指定してオートパイロットタクシーを呼び出した。


「すぐに来るから安心しなよ、なお君」


 幾度となく僕に声をかけつつ、メッシュフェンスの付いた体育館の窓から、裏門を確認する後藤先生。


 数分で滑らかに近づいてきた無人運転のタクシーを確認すると、僕を抱えたまま素早く乗り込んだ。


 天井から下りてきたモニターに、後藤先生がスマホをかざす。


 ピピッ。

「お客様の搭乗確認できました。行き先をお願いします」


「行き先をマッピングする前に、窓を不透過にして暖房温度を少し上げてくれないか?」


 ピピッ。

「指示を受け付けました」


 後藤先生は他の生徒にも人気があるんだ。

 今だって、僕が安心することを最優先にしてくれている。


 砂垣君がどうしてこんなことをしたのか。僕に何か非があったんだろうか。考えようとするたびに、怒鳴り声や暴力の瞬間が、頭の中をぐるぐると駆け巡って、ただただ恐怖だけが蘇ってくる。


 ガタガタと体を震わ始めると、すぐに後藤先生が、汚れている僕を強く抱きしめ、優しく背中を撫でてくれた。


 ◇


 旧体育館は裏門からすぐの所なので、僕は生徒の誰にも見られず、家に帰ることが出来たんだ。


 タクシーの中で後藤先生が連絡を入れていたので、美容院の店舗兼住宅となっている、自宅側の玄関で母さんが待っていた。


 玄関のドアを開けた母さんが、僕を抱えた後藤先生を玄関の中へ招き入れた。


 母さんは、僕の頭から体にかけて被せられているジャージを外すなり、魂が抜けたようにその場に座り込んだ。


「今はなお君を着替えさせて、体を暖めてあげることが最優先です。きっと大丈夫ですから、少し落ち着いてください」


 放心状態だった母さんは、玄関のシューズボックスにつかまりながら立ち上がると、僕の頭をぺたぺたと触り、震える声を絞り出す。


「どうして……いつもみんなに優しくて、誰にだって好かれているのに。この子が一体、誰に何をしたって言うの……どうして……ここまで酷いことをされなきゃいけなかったの……どうして――」


 ぼろぼろと涙を流し、むせび泣く。


「担任の児島先生が、事情を確認でき次第、こちらに連絡が来ると思いますが、決して今、無理になお君から聞こうとしないで下さい。お願いします、どうか落ち着いて対応して下さい」


「母さん……母さん。僕なら……もう、大丈夫。それに、髪の毛だって……ぐすっ、伸びてくれば……大丈夫だから……」


 母さんは一度ぎゅっと目を閉じ、涙を絞ったその優しい瞳を――ゆっくりと開いた。


 落ち着きを取り戻した母さんを見た後藤先生が口を開く。

「なお君のお母さん。バスルームはどこですか?」


「そうよね……この子が一番不安なはずなのに、私ったらどうかしてました。すみません後藤先生」


 母さんが、後藤先生に抱えられた僕を受け取ろうとしたけれど、体の小さな母さんにとって、僕は大きい。


「よければ、自分がこのままなお君を運びますので、どうか案内をお願いします」


 後藤先生は一瞬、僕を片手で支え直すと体勢を整え、器用に靴を脱いで玄関を上がった。


 ◇


 母さんは美容師のスタッフを3名雇っているので、大量のタオルを洗う必要がある。


 だから、僕の家の脱衣場には、洗濯、乾燥、畳む、バスケットに重ねて収納。これを全部行える、フルオートの大型洗濯機と、自宅専用の、洗濯、乾燥まで行えるセミオートの洗濯機が置いてあって、わりと広いんだ。


「では、自分はこれで失礼します」


 僕を床に下ろそうとした後藤先生の太い腕を抱きしめる。


「待って、後藤先生が僕のおしっこで汚れたまま学校に戻るのは、僕にはとても耐えられないよ。母さんもそう思うよね?」


 未だにぼんやりした様子の母さんが、はっとしたように後藤先生へ顔を向けた。


「後藤先生、気が付かなくて済みません。良かったらシャワーを浴びていって下さい」


 やっぱり母さんはまだ動転してるみたいだ。


 無事に家に帰れた事と後藤先生が来てくれた事。この出来事があったから僕は少しだけ、恐怖が解けて落ち着いていられるんだ。


「僕、後藤先生と一緒にお風呂入りたい」

 低い姿勢になって僕を床に降ろしてくれた後藤先生の腕を掴んだまま、そう言った。

 僕には、先生がそばにいてくれることが何よりの安心なんだ。


 後藤先生は一瞬戸惑ったような顔をした。首を小さく横に振ると頷いて、僕の肩に手を置いた。


「なお君、六年生なんだから、お風呂くらい一人で入れるだろ?」


 分かってる……先生の立場ってそういうのなんだって分かってるよ。


 だけど僕は食い下がる。離れるのが怖いんだ。あの恐怖が再び押し寄せてくるのが怖いんだ。


「うちのお風呂、広いんだよ。ねぇ、母さん」


 僕んちは、3人のスタッフが同時に入れるように、お風呂場も広いんだ。

 独立した洗い場が3つあって、それぞれシャワーも付いてて、湯船まで広いんだ。


 僕の言葉で何かに気付いた様子の母さんが、後藤先生に顔を向けた。

「あ、あの、後藤先生。良かったらうちの奈和と、一緒にお風呂に入って頂けないですか?」


 そう言ってお風呂場のスライドドアを一杯まで開くと、中へ駆け込んでお湯の蛇口を開けた。


「うちはお店でも大量にお湯を使うので、大きな給湯器を設置してるんです。すぐお湯が張れますよ」


 涙を拭った母さんが付け加える。

「私ったら、気が動転してどうかしていました。ほら後藤先生、見ての通り、うちのお風呂場は広いので、銭湯にでも来たと思って、入っていって下さい」


 更に母さんは、これならどうですか?

 そういった目配せと仕草を後藤先生に送った。


 教師という立場に縛られていた後藤先生は、呪縛が解けたようだった。


 開けられたドアから中を覗き込む。


「ほー。確かにこれは立派な銭湯ですね……分かりました。水溜りで転んでしまい、銭湯に寄って汚れを落としてたら、たまたま生徒が居た。そうですね、なお君のお母さん」


 僕の頬がほんの少しだけ緩んだのを確認した母さんが頭を下げる。


「奈和の為にありがとうございます。後藤先生がいてくれると、この子も安心すると思います」


 母さんは、少し背伸びすると、棚からバスタオルを二枚取り出し、後藤先生に手渡した。


「主人が使っていた部屋に、袖を通していない着替えがあった筈ですから、探してきますね」


 ◇


 僕の父さんは病により、二年前に他界している。


 そしてこの時、母さんは、父さんが書斎として使っていた部屋の鍵を開け、二年ぶりに中へ入ったんだ。


 生前の父さんが使っていたそのままの状態で、

 窓もカーテンも閉めたまま、二年間真っ暗だった部屋に、再び明かりが灯ったんだ。






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