第三章 どこいくの?

「松葉杖を借りてきたから。歩く練習をするよ」

 少女は心の中で、練習ってなんだろうと思ったが、言葉にはできなかった。

 わからないまま車椅子に乗せられ、お母さんと廊下の先にあった階段へとやってきた。白い廊下が、なんだか薄暗く、どこか不気味に感じる。

 お母さんに無理やり右足で立たされると、ガクガクっと体が震え、力が入らずふらふらとよろける。

 お母さんは慌てて、少女を手すりにしがみつかせた。

 そのとき、石膏ギプスに包まれたまま左足が、床にゴンと音を立てる。鈍い痛みに顔をしかめ、うなりながらよろける。

「わざわざ借りてきたんだから。しっかり立って持ちなさい」

 お母さんの声が階段に響く。

 松葉杖を左脇にはさまれ、無理やりにぎらされる。階段を降りようとしても、左足が重くて上がらない。ぷるぷる震える右膝がまがり、倒れそうになるのを我慢できず、少女は慌てて手すりにしがみついた。

 松葉杖が階段に倒れ、踊り場へと滑り落ちていく。パタンと響いた音におどろいて息を飲む。

「歩かないと、みんなが待ってる学校に通えないでしょ」

 お母さんの冷たい声が廊下に響きわたる。

 学校ってなに? 通えないってなんなの? 言葉の意味がわからない少女は、心の中で叫びながら手足に力が入らず、ぎゅっと目を閉じる。

 膝がふるえ、力がぬけていく。床にぶつからないよう、重たい左足を投げ出しながら、冷たい廊下にお尻からへたり込む。そのまま踊り場へ落ちそうになり、あわてて手すりをぎゅっとにぎりしめた。心細さが胸に広がり、少女はただ首を振りつづけた。



 隣のベッドがあいた翌日から、夕方に担任が訪れるようになった。

 ときには二人で来ることもあった。もう一人はくせっ毛で黒くない。担任とはちがう先生かもしれない。

 レコーダーのボタンを押してみると、声が流れ出す。クラスメイトが一人ずつ名前を言い合い、そのあと合唱し、クイズの問題を出してきた。

「早く返事をしてあげて」と急かされる。

 気にせず少女は、レコーダーのボタンを何度も押す。再生すると、同じ言葉をくり返す。録音すると内容が変わる。その仕組みが気になり、どうしてまちがえずにくり返せるのか確かめようと、何度もボタンを押してたしかめた。

「早く元気になって戻ってきてください」

 レコーダーからくり返し聞こえる言葉に、元気になるってどういうことだろうと思いながら、いつものように、「はやく、げんきになって、みんなに、あいたいです」と言葉を吹き込んだ。

 担任から、作文用紙の束を渡された。

「みんなの作文をもってきたから、勉強の合間に読んでね」

 検査がない時間、少女は勉強をしている。はじめたころは、ろくに読めなかったし、字も書けなかった。それでも、わからないながらノートに写していった。くり返すうちに早く書けるようになったが、えんぴつをにぎる力がなくなってくる。そんなときに作文を読むことにした。

 問題集の字はきれいだけど、作文の字は大きさも形もバラバラ。おまけにたくさんの文字がならんでいる。みていると目がくらくらして、つい横になる。

 どの作文にも「早く元気になって戻ってください」と書かれている。

 元気になるってどういうことだろうと考えながら、文と文の間に描かれている絵をみることにした。読むのはつかれるから、絵のある作文ばかり選んでいく。

 ふと、目にとまった一枚には、校舎と校庭、二人の子供が色とりどりに描かれていた。最初はわからなかったが、タクシーから見た建物に似ていることに気がついた。

「部屋ではなにをしてるのかな。お母さんと話してるのかな。早く元気になってまた遊びたいです」と書かれた文章のはじめには、『みろ』とあった。

 少女は勉強をする前には必ず、この作文を読むことにした。



「一ノ瀬彩さん。今日は、ギプスを外します」

 昼前。新川先生が病室に入ってきた。

 その手に持っている灰色がかったものを、少女はじっと見つめる。なにがはじまるのだろう。少し体を縮めた。

 看護師がベッドの柵を外し、掛け蒲団を隣に運び置く。そのあと、少女の左足を持ち上げ、ブルーシートを敷いた。

「電動ノコギリで外すから。大丈夫、動かないでね」

 新川先生がスイッチを入れる。電動ノコギリが、ぎゅぃいいんと激しい音を立てて動き出す。

 少女は、だまって見つめる。

 回転する刃がギプスに近づくにつれ、おもわず体を硬くした。音とともに、粉や煙が立ち上る。

 音が止まり、静けさが戻ると、新川先生はギプスをつかみ、パカッと開ける。中から現れた色白で細い足を、少女はじっと見た。右足とならべると、やけに白いのが気になった。

 看護師は左足を持ち上げて、ブルーシートを外していく。

「レントゲンの結果、だいぶよくなっています。でもまだ外せないので、切った半分のギプスを着けておきます」新川先生が続ける。「これで軽くなりましたので、来週からリハビリをはじめましょう」

 リハビリって、なんだろう。看護師に包帯を巻いてもらいながら、少女はお母さんと話す新川先生を見ていた。

「隣のベッドにいらした篠田くんの退院が、来週決まりました。準備ができ次第、一ノ瀬彩さんを大部屋へ移します」

「退院はいつごろになりますか」

「長らく続いていた熱も、ようやく出なくなり、顔色もよくなってきています。あとは骨折の治り具合次第ですね。もう少し骨がくっついて、松葉杖で歩けるようになったら退院と考えています」

 数日後、少女は大部屋に移った。

 十六人分のベッドが並ぶ広い部屋は騒がしい。くしゃみをしたり大声をあげたり、いびきをかいている人もいた。それでも少女の日常は変わらない。薬を飲むための食事と勉強。夕方になると担任が持ってきたレコーダーを聞いて返事を吹き込んでいく。

 ただし、同室だった男の子とは会うことはなかった。



 CT検査を終えた少女は、お母さんに車椅子を押されてリハビリステーションへと連れていかれる。明るくて広い部屋には、白い服を着た先生と一緒に、知らない人たちがゆっくり歩いている。少女はその様子をみても、なにをしているのかわからなかった。

「自分で車椅子に乗れるかな」

 はじめての先生に声をかけられるが、少女は首を横に振る。

「じゃあ、つかまり立ちの練習からはじめようか」

 いわれたとおりに、車椅子の横についている棒をにぎる。おしりを持ち上げようとするも、体はいうことをきかない。足だけでなく、腕にも力が入らなかった。

「まず、となりの椅子に移ってみよう」

「……できない」

 少女は首を横に振った。

 やったことがないのに、できるわけがない。それでも週二回、リハビリステーションに来て、立ったり歩いたりする練習をつづけた。

「早く歩けるようになろう。そうしないと、学校に行けないよ」

 先生の言葉をきいて、 お母さんは少し身を乗り出す。

「ベッドから車椅子に移る練習をさせてもいいですか」

「いいですよ。長くベッドで寝ていたから、体の力が弱くなっています。少しずつ動かして、力をつけていきましょう」

 この日から、一人でベッドから起き上がり、車椅子に移る練習がはじまった。軽くなったとはいえ、左足はまだうまく動かない。手で腰を浮かせてはベッドの上を少しずつ動いて、車椅子に乗った。

 リハビリステーション内では何度も転んだ。段差もなく、行く手を邪魔するものもない、平らで滑りにくい床で。

 転んでも、誰も起こしてくれない。少女は両手を使い、重たい体を床からゆっく持ち上げようとする。腕はぷるぷると震え、思うように力が入らず、なかなか起き上がれなかった。



 松葉杖で歩けるようになった日。

 少女の退院が決まった。

 迎えに来た両親とともに大部屋を出る。

「どこいくの?」

「ロビーへ向かうんだ。病院の玄関に車を停めてあるから」

 お父さんは大きなカバンを持ちながら、壁のボタンを押した。

 車ってなんだろう。少女は両親とエレベーターに乗り、一階へ到着した。ロビーに進み、自動ドアをくぐって外へ出る。

 すると、大きな白い箱みたいなものがあった。

「すぐ乗れるように、病院前に車を置かせてもらったんだ」

 お父さんの言葉で、車だとわかる。そういえば、前に乗った黒い箱に乗せられたことを思い出す。ひょっとすると黒いものを、「タクシー」と呼ぶのかもしれない。

 お父さんとお母さんが、車の後ろの扉をあけた。荷物を入れていると、ロビー前に白衣を着た新川先生と看護師たちが現れた。

「たいへんお世話になり、ありがとうございました」

 先生たちに頭を下げた両親に、少女は車へと乗せられる。

「どこいくの?」

 松葉杖を入れたお父さんが、「家に帰るんだよ」と教えてくれた。

 帰る? 家ってなんだろう。

 考えるより先にドアが閉められ、両親も車に乗り込んだ。

 車の窓の外に、白衣を着た先生や看護師たちがみえる。みんな、手を振っていた。

 まねをして手を振ると動き出し、遠ざかっていく。

 空が青くて、大きな白い建物がピカピカ光っているのが見えた。

 なぜ出ていかなければならないのだろう。そんな疑問を抱きながら、みえなくなるまで手を振りつづけた。 

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