第二章 車椅子の少年

「あなたたちは検査とトイレ以外、車椅子に乗ってはいけません」

 白い廊下に響く看護師の声が、少女の体を一瞬、固まらせた。

 乗せておいて乗ってはいけないって、どういうこと?

 心に浮かぶ言葉を出せず、隣にいる男の子の顔をちらりと見た。

 彼はだまりながら床をじっと見つめ、右手を握りしめている。顔上げるが、すぐ目をそらした。

 看護師が病室に来たのは、朝ごはんを食べた後だった。


「今日は髪を洗ってあげます」

 運ばれてきた車椅子を、少女は、じっと見た。大きなまるいものが横についていて、ベッドよりかなり小さい。

「少しだけガマンしてね」

 少女は看護師に抱えられて乗せられると、同室の男の子と一緒に病室を出ていく。

 白い壁がまっすぐ続く廊下に出る。天井の明かりが壁や床も白く輝いてみえる。ここはどこなんだろう。先にはなにがあるのか、知りたい気持ちが大きくなる。

 連れていかれた部屋に入ると、看護師に頭の包帯が外される。仰向けにされ、顔のガーゼが湿らないよう、頭に湯をかけられた。

 終わると、巻き直されて廊下へ出された。

「しばらく待っているように」

 看護師は声をかけ、奥の部屋に入っていく。その背中が見えなくなると、少女は車椅子に座ったまま、じっと待っていた。

 しばらくって、なんだろう。

 長い廊下を見ていると、あの先になにがあるのか、また気になってくる。どうしたら行けるのかな。手元のタイヤを少しだけ回してみると、車椅子が軽やかに進む。わぁ、動くんだ!

「置いてかないで」

 男の子の声が聞こえる。

 止まって振り返る。右手だけでタイヤを回しながら、男の子の車椅子がたどり着く。

 でも、看護師が走ってきた。

「待ちなさい」とんがった言葉が飛んでくる。「あなたたちは検査とトイレ以外、車椅子には乗ってはいけません」

 まわりを見ると、白い壁が続き、廊下の先はなにも見えない。少女は、乗せておいて乗ってはいけないってどういうことなの、と問いかけたくても、言葉として出てこない。

 男の子も、口をとじてうつむいている。その姿を見て、自分だけが取り残されている気持ちになり、静けさが息苦しかった。


 病室に戻ると、お母さんに「学校に提出するプリントがあるの。一人にしておけないから、タクシーで一緒に行くよ」と告げられ、車椅子に乗ったまま連れ出された。

 廊下の先にあった小部屋に入ると、全体が揺れ、扉が開く。

 長い廊下を抜け、透明な扉の外へ出る。涼しさが消え、少女の体に暑さがまとわりついてくる。黒塗りの大きなものの中へ入れられると、ひんやり涼しい。頭の上でドアがしまり、走り出した。

 ずっと病室で過ごしていたから、外の世界が気になっていた。

 頭を洗うといわれて病室をでただけでも十分だったのに。

 どこへ行くのかしらん。少女は手をぎゅっと握りしめて、少しだけ目を大きくした。窓の向こうに広がる空を眺めているとやがて、大きな建物の横で停まった。

「職員室に提出してくるから。おとなしくしていてね」

 目をとじていると、「外を見てごらん」戻ってきたお母さんに声をかけられる。

 体を起こすと、窓が下がっていく。建物にもたくさんの窓があり、いろんな顔がみえた。みんな手を振って声を上げている。

「振り返してあげて」

 手を振るとタクシーが動き出し、窓が閉まった。

「クラスのみんなが待ってるから、早く元気にならないとね」

 お母さんに声をかけられる。

 少女は小さく息をはいて、目をふせる。

 お母さんがいった「クラスのみんなが待ってる」は、意味がよくわからない。みんなって、なんだろう。もやもやした気持ちだけが残った。

 病室に戻ってお昼ごはんを食べている間、お母さんが粉薬をオブラートに包んでいく。一枚では包みきれず、三つに分けられた。

 食べ終えたあと、飲むように言われるも、一つひとつが大きくて、簡単に飲み込めそうもない。

 少女は首を横に振ったが、「飲まないとよくならないでしょ」と一つずつ渡してくる。全部飲み終えると、日が暮れるまで、先生が置いていったプリント問題と向き合った。

 その夜、隣の男の子は無口だった。



 朝ごはんを食べ終えた少女は、お母さんに車椅子に乗せられて、どこへ行くのかわからないまま病室をでた。

 エレベーターで下へ降り、少女は白い廊下を進むと、赤茶けたレンガ造りの壁がみえてきた。

「ここは喫茶店だよ」と、お母さんに教えられる。

 ショーケースをみながら通り過ぎ、白い扉の中へと入った。

 看護師の手を借りて、うす暗い部屋のベッドに座らされる。

 白衣を着た医者に、白いクリームみたいなものが塗られた小さなまるいものを、頭に一つずつ付けられる。その後、寝かされ、四角い箱が顔の前に来た。照明が落とされる。なにが起こるかわからなかった。

「一ノ瀬彩さん、聞こえますか」

 暗い部屋の中、頭の上から声がした。まわりには誰もいない。

「スピーカーから声を出してます。途中、指示を出しますので、いうとおりにしてください」

 しばらくして、目をあけたりとじたり、四角い箱が点滅したり、深呼吸するよう声が聞こえる。食後だったから、まぶたが重い。

「眠ってはダメだからね」

 はげしくライトが点滅した。まぶしくて、目をつむる。

 寝かせてもらえないまま指示が続き、検査が終わった。

 電極を外され、うす暗い部屋から出される。

「ダメっていったのに。ここでちょっと寝てたね」

 医者は、記録用紙をみながら、ふっと鼻を吹く。

 ギザギザの赤い線が引かれた用紙を見せられた。

 大きくなったり小さくなったり、小刻みになったり。線の動きのちがいで寝ていたのがわかるらしい。

「もう一つ、薬を増やします。眠くなるかもしれませんが、徐々にその影響はなくなりますので、寝かさないでください」

 医者は、お母さんに検査結果を伝えた。

「正常な同年齢の子とくらべて脳の動きが少し遅いようです。数か月もすれば元に戻るでしょう。今後も定期的に脳波検査を行います。てんかんの起きる可能性がありますので、ストレスを与えないよう十分注意が必要です。退院後も心配事を作らないように。娘さんとはいままでどおりに接し、勉強や運動、遊びもさせてください」

 飛び交う言葉を子守唄にして、少女はまぶたを閉じていた。

 眠いまま、病室へ戻る帰り道。行きがけに通った喫茶店前を横切るとき、お母さんに聞いてみた。

「あれ……、なあに?」

 ショーケースに飾られていたのは、白くてふわふわもこもこしたもの。その上には、色とりどりのものが乗っていた。

「フルーツパフェね」

 聞き覚えのない響きだった。どんなものかさえ思いつかない。

 少女は続けて聞いてみた。

「フ……ぱ、ぱふぇって、なあに?」

 なにかしらの予感と直感が働き、知らずにはいられなかった。

「あれは、食べものね」

 薬を飲むために食べているものと、あきらかにちがう。

「食べたいの?」

 聞かれて、迷わずうなずいた。

 喫茶店の人によれば、店内では食べられる。だけど入口はせまく、段差があって、車椅子では入れなかった。

 でも、どうしても食べてみたい。

 店の人に無理をいって、手持ちのお弁当箱に作ってもらい、病室で食べることとなった。その際、一人だけではよくないからと、同室の男の子の分も作ってもらった。

 病室に戻ると早速、スプーン片手に口へと運ぶ。いつもの食事は味気なかったが、フルーツパフェはちがう。しっかりした甘みと酸味。ふんわりやわらかなバニラの風味と果物と冷たさが、口の中に広がる。まわりのものがすべて、はなやかに色づいて見えた。

 その日の夜、隣のベッドの男の子はいつも以上によくしゃべってくれた。

「フルーツパフェ、おいしかったね。いつものごはんも、あれくらいおいしければいいのに」

 カーテン越しに聞こえる声は、明るかった。

「明日、大部屋に移るんだ。だいぶよくなったからね。ここよりも広くて、たくさん人がいるんだって」

 少女には思いもつかなかった。

「きみも、よくなるよ」

「大部屋に行くと、どうなる?」

「退院できる。夏休み前にはしたいね。でないと、学校の友達に会えなくなるから。きみも、そのうち移れるよ」

「……うん、そうだね」そう答えて目をとじた。

 翌朝。朝ごはんを食べ終えると、少女は隣の男の子が車椅子で病室を出ていくのを見送った。ドアが閉まると病室は静まり返り、一人きりになった。


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