第一章 白と黒


 ふわり、意識が浮かび上がる。

 真っ白で、なにもない。

 聞こえない。

 ただ、そこにいる気がした。

 なにかが動いた。

 でも、すぐに消えた。


 しずかだ。

 そっと目を閉じる。


 ふたたび開くと、世界が少しずつ形を取りはじめていた。

 あかるくてまぶしい。

 どこにいるのだろう。

 白い光のなか、青と緑が揺れている。

 なんだか、あたたかくて心地いい。



 コンコン。

 小さく響く。

 なにか音が近づいてくる。

「彩さん、検温の時間です」

 声がする。

 でも、わからない。

 目を開ける。

 白い影が近づいてくる。

 口に、なにかを入れられる。

 ひやりとして、やがて取り出される。


 影が消えた。


 また新しい影が現れる。

 たくさんの影に囲まれている。

 なんだろう。

 横になっていたところ、動いて、起き上がっていく。


「おはよう、一ノ瀬彩さん。気分はどうかな」

 ぼんやりとした影が近づき、声がする。

 どこか遠くから、聞こえてくる気がする。

 四角いものをつけた白い影は、細長いものをしめている。

「担当医の新川です」

 少女は、その影を見つめる。

 なんだろう。開いたり閉じたりしていた。

「こちらが一ノ瀬さんの、そちらは篠田くんを担当している看護師さん」

 なにをいっているのだろう。

 ただ、聞くしかできない。

「口の中を見せてくれるかな」

 大きく開けて、白い歯をみせてくる。

 わからないまま、動きをまねて口を開けると、冷たいものが入ってきた。

 びくっと、かすかに震えてしまう。

「そうそう、開けたままでいてね」

 なにかで舌を押さえられた。

「よし。今度は、まばたきをしてくれるかな」

 また動きをまねると、光が目に当たる。まぶしくて、ぎゅっと閉じた。

「充血もないし、顔色もよくなってきたね。大丈夫そう」

 声が遠くから聞こえる。なにを言われているのだろう。

「先生、こちらが今日の一ノ瀬さんの数値です」

「まだ微熱が続いているが、落ち着いている。点滴は、終わったら外していい。追加はナシで」

「包帯はどうしますか?」

「もう暴れたりしないだろう。拘束を外していいよ」

 まわりの影たちが、なにか話している。耳に入ってくるけれど、なんだろう。ただ、自分について話している気がする。

 眼の前の白い影が立ち上がる。

「一ノ瀬彩さんのお母さん。今日から食事を出します。薬局で薬をもらって、食後に飲ませてください」

 お母さん?

 その言葉に懐かしさがある気もするけれど、なにも思い出せない。

 二つの白い影が近づいてきて、自分の体に触れる。

 巻かれているものを引き寄せているようだ。痛みは感じない。ただ、少しずつ体が軽くなっていく。

「大丈夫だよ。けがじゃないから」

 けがってなんだろう? わからないまま心に残る。

 隣を見ると、小さな影がいた。その影も白い布で巻かれていて、自分と同じように静かにしている。

 窓の外には青空と緑が広がっている。その色合いだけは心地よく感じられた。


 しばらくすると、食事とよばれるものが運ばれてきた。

 器には色や形の異なるものが並んでいる。

 隣の小さな影が、なにかを口に運んでいる。細長くて先がまるいものを右手にもって、白いものをすくって入れていた。

 少女もまねをしてみる。

 色は白。においは……ない。口に入れると熱くなく、もにゅっとする。どうすればいいかわからず、はき出した。

「かんで食べなさい」

 お母さんと呼ばれていた影の声が大きく響く。

 飲み込むのがむずかしく、半分以上を残した。

「ダメでしょ、薬を飲むためなんだから」

 小さな丸いものと細長いものが白いテーブルにならぶ。粒は大きく、粉薬は量が多い。口に入れるとせき込んで、ぶわっと粉が舞った。

「飲まないと治らないでしょ」

 また、大きな声が響く。その意味すらわからなかった。


 暗くなりはじめた部屋に入ってきた看護師が、カーテンをかけていく。カーテン越しに光が消えた。

 影に包まれて、目を閉じる。暗いのは同じだ。考えられなくなると、自分も影に溶けていくようだった。

「ねぇ、起きてる?」

 遠くから声が聞こえた。目を開けると真っ暗だった。

 鼻を鳴らすように、「うん」と返事をする。

「よかった。寝ちゃってたらどうしようって思ってたんだ」

 声には明るさがあった。

「入院からずっと一人で毎晩さびしくて。ようやくきみが来てくれたんだ」

 隣を見ると、カーテンしか見えない。ただ、声の存在だけで少し心強さを感じる。

「ぐるぐる巻きにされていてミイラみたいだったね」と笑う声。

 ミイラ?

 意味もわからず、ただ黙って聞いていた。

「どうして体中に巻いてたの? ねぇ、ひょっとして眠い?」

 その問いには答えられず、「……うん」とだけ返す。

「そっか。また明日ね、おやすみ」

 声は消えていった。少女は再び目を閉じ、そのまま夜に包まれていった。



 朝ごはんのあと。

「お父さんがくるよ」

 お母さんの声が響く。

 少女は、ただぼんやりと聞いていた。

 しばらくすると、コツコツと音が近づいてきた。

「彩ちゃん、久しぶりだね。お父さんだよ。よかったね、包帯をとってもらえて」

 部屋に入ってきた大きな人影を、少女はじっと見つめた。

 これがお父さん? 白くない。

「お母さん、彩ちゃんはもう大丈夫なのかい?」

「昨日から、自分で食事ができるようになったの」

 お父さん? お母さん?

 わからないまま、少女は二人のやりとりを、ぼんやり見つめる。

「どれがよろこぶか、いろいろ迷ったんだが」

 ベッドが動き、少女の体が起こされた。

 大きな人影が、四角いものをテーブルの上に置く。開けられると、ふわっとした温かさと共に、なんだかいい匂いが鼻をくすぐった。

「鶏の唐揚げだ。彩ちゃんは好きだろ。たくさん食べるといい」

「油っぽいものは消化によくないから、まだ早いんじゃないの?」

 少女は、その四角いものに手を伸ばした。温かいものを両手でつかむと、口に運んだ。

 カリッとした感触の後、柔らかさが広がる。

 じゅわっと口の中にあふれた。

 これは? もっと食べたら、わかるかもしれない。手がべたべたになりながら、むしゃむしゃと食べ続けた。ピリピリしてゾワゾワする。甘くて辛い。これが唐揚げ? 口からこぼれ落ちるのも気にせず、ごくんと飲み込んだ。

「ちょっと、彩ちゃんったら。油まみれじゃないの」

 誰かに口のまわりを拭かれても、気にせず食べ続けた。

「いい食べっぷりだな。病院のごはんは、食べてないのかい?」

「食べさせてます。でないと、薬が飲めませんから」

「よほど食べたかったんだな」大きな人影が言った。「退屈だろ。アニメやマンガ、ゲームを買えばよかったかな」

 アニメ? マンガ? ゲーム?

 言葉の意味はわからないまま、少女は大きな人影をじーっと見上げた。

「遊ばせたらダメでしょ。ただでさえ、休んで遅れているのだから。勉強させないと戻ったとき、困るんですよ」

「たしかに。そうだな。お母さんのいうとおりだ」

 勉強ってなにかしらん。

「明日、会社の社長や同僚、運転していた人も面会にくる。社長たちは午前中、あの人たちは昼過ぎ。親父たちは明後日だ」

 少女は、もうひとつ手にした。

「学校のみんなも、彩ちゃんを心配しているんだ。早く元気になるんだよ」

 大きな人影が笑いながら、部屋を出ていった。

 日が暮れると病室に明かりが灯った。天井。壁。窓。扉。カーテン。ベッド。棚。床。隣の男の子。お互いの、お母さんと呼ばれる付き添い。はじめて室内のすべてを、じっと見た。

 色や形をじっくり見ることで、少しずつなじんでいくのがわかる。食事が運ばれた。隣の子のまねをして食べ、薬を飲む。

 カーテンが引かれて暗くなると、少女は目を閉じた。



 オブラートに包まれた粉薬を飲んだとき、スーツ姿の男の人が病室に入ってきた。お母さんと呼ばれる人に話しかけ、色とりどりの丸いものがつまったカゴを差し出す。

「元気そうで、よかったね」

 社長と呼ばれた人は、白い歯を見せて出ていった。少女はそのカゴを、そっと指先でさわりながらと見つめた。

 次にお父さんの同僚が現れ、「顔色もよさそうで、よかったですね」と言い残し、手を振って去っていく。その背中を見送りながら、「よかったね」が心のなかで響く。

 お昼ごはんのあと、男女の訪問者が四角い箱を持ってきた。

「無事でよかったね」といわれるが、「よかったね」とはなんだろう。少女はただじっと、病室を出ていく二人を見送った。

 空が灰色にくすむと、髪の長い黒い服の人が入ってきた。

 お母さんとのやりとりを聞いていると、「担任」と呼ばれる先生らしい。何度も目を向けて、その姿を見る。

 はじめてだった、白衣を着ていない先生を見たのは。

「退院は、いつになると聞いていますか」

「まだ、はっきりとは」

「そうなんですね。彩さんは運動クラブに所属しています。退院後はどうされます? いきなりはむずかしいでしょう。体育と同じくお休みして、様子を見つつ、判断していきましょうか」

「お願いします。退院日が決まったら、考えます」

 お母さんと話している先生は、医者とちがう。でも、先生と呼んでいる。どういうことかしらん。

 わからなくて軽く頭がふらつく。

 白衣なら「医者」、黒い服なら「担任」。色分けすると頭が軽くなった。

「みんなからのメッセージを持ってきたよ」

 担任は、四角くて平たい小さな箱をテーブルの上に置いて、三角のボタンを押した。

 すると、声が聞こえる。

「一ノ瀬さん。早く元気になってください」

「彩ちゃん。教室で会えるのを、楽しみにしてます」

 一人ずつ名乗りながら、たくさんの言葉が続いていく。

 その声には温かみがあり、少女は前かがみになって耳を近づける。

 そのあと、節にあわせて、たくさんの大きな声が同じ言葉を出していく。うれしいこともたのしいこともみな知ってる時計さ、と聞こえた。

「一ノ瀬さん。録音するから、みんなに返事をしてあげて」

 担任がうながしてくる。

「聞くだけでなく、録音もできるから」

 四角いボタンが押された。

 返事ってなに? 小さい箱からどうして声がするのかしらん。箱が話しているのかな。

 少女が二人の顔を見ると、

「だまってたら、録音できないよ」

 担任は、ふふっと声を出す。

「『早く元気になって、みんなに会いたいです』と伝えて」

 お母さんが耳元でささやいてくる。

 二人の顔を交互に見ていると、なんとなく、してほしそうに思えてくる。ボタンが押されたので、言われた言葉をまねした。

「一ノ瀬さん。明日は宿題やテストのプリントを持ってくるね」

 担任は満足そうにうなづいて、病室を出ていった。

 次の日も、親戚が見舞いに訪れ、「よかったね」と声をかける。しかし少女には「よかったね」が、なんなのかがわからない。

 そもそも、イチノセアヤってなんだろう。

 少女は、ぼんやりと窓の外へ目を向け、灰色の空を見つめた。


 日が暮れると、また食事が運ばれてきた。隣のベッドの男の子が食べるのを見て、少女もスプーンを口に運んだ。

「彩ちゃん、お薬飲むわよ」

 お母さんと呼ばれる人が、いくつかの白い粒と水の入ったコップを差し出す。少女は言われるままに口に入れ、水を飲んだ。

 面会時間が終わり、病室の明かりが消え、まわりはすっかり暗くなった。少女のベッドだけがカーテンを閉められず、枕元の電灯だけがほんのり光っていた。

 薄暗い病室を見回していると、二つの人影がみえる。

「世慣れぬ子供だからといって」

 大きな目をした男が近づいてくる。彼はさらに一歩踏み出し、声を上げた。

「どれほどの人たちが心配し、どれだけ迷惑をかけたと思っとるんだっ」

 突然の大声に、少女は体を縮めた。両手でシーツをつかみ、相手をじっと見つめる。

「おまえは、まわりにさんざん迷惑をかけたのだから、今後は恩返しをしていかなければいかんっ」

 怒鳴り声を浴びせられ、少女は横を向いて目を閉じた。

 唇が震え、息を飲むこともできない。

 これまで面会に来た人たちは「よかったね」と声をかけてくれた。でも、このおじさんはちがった。遠縁の夫婦が見舞いにくる、とお母さんが話していたのを思い出す。遠縁ってなんだろう。

 頭の中には、「言われなくてもわかってる」という言葉が浮かぶ。だけど、言い返せず、ただ目を閉じて耐えるしかなかった。自分がなにも知らないことに気づいたから。

 おばさんは、「隣の人にご迷惑でしょ」と声をかけていた。

 見舞いの品を置いて二人が帰ったあと、少女のベッドまわりにカーテンがかけられ、枕元の明かりが消えた。

 暗い中、「いきなり大きな声がしたから、びっくりしちゃった」隣の男の子が話しかけてきた。彼の声は少し明るかった。

「親戚?」

「たぶん」

 小さな声で答える。

「知ってる人?」

「……さあ」

「ぼくもそうだった。知らない大人ばかりでつまらないよね」

「そうね」と答え、目をとじる。

 白い世界から目覚め、すべてが新鮮で謎だらけ。そこに、「さんざん迷惑をかけたのだから、今後は恩返しをしていかなければいかん」と投げかけられた。どういう意味だろう。

 夜はどんどん深まっていった。

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