蹉跌の彩り
snowdrop
プロローグ 夏の記憶
窓を開けると、蝉の鳴き声が飛び込んできた。
まぶしい光に目をそらし、首筋を流れる汗を拭う。
寝苦しい夜の名残りか、だるくて起きるのが面倒だった。
ふしぎな夢をみた。歌が世界に生まれ、喜びに満ちた人々が歌い狂って蝉となり、「あなたは一体、なにを求めているの? 本当に落ち着いたとき、自分自身に問いかけて、素直に答えてみて」と語りかけてきたのだ。
おかしかったけど、聞こえてくる蝉の声が夢でみた光景と重なり、耳に響いてくる。「なにを求めているのか、世の人々は本当のところわかっていない」と訴えているみたいだ。
自分の望みがはっきりしているなら、誰もが迷わず進める。だけど日常の騒がしさの中で、落ち着いて考える時間がもてるほど余裕もないのが現実だ、と私は深く息をついた。
枕元の目覚まし時計に目を向ける。時間が迫っていると気づき、慌てて階段を降りてキッチンへと急ぐ。
なぜだか胸の奥がざわめいている気がした。
お盆が終わり、今日から高校で行われる夏期講習の後半がはじまる。
朝の七時ですでに真夏日の気温です、と話すテレビのアナウンサーの声を聞きながらパンをかじろうとする。瞬間、電話の音が鳴り響いた。
母が受話器を取り、しばらくしてから「わかりました」と電話を切った。
「誰からだ」父が尋ねる。
母は静かに答えた。
「窪塚さんから。今朝の六時だったそうよ。通夜は今夜だそうだから、葬儀は明日だと思う。くわしいことは今日行って聞いてみる」
耳にした瞬間、壁の時計を見上げた。
一時間前を振り返る。おかしな夢をみていたときかもしれない。
いつかこんな日が来ることを、頭の隅っこに留めてきたつもりだった。いざ訪れると、指先がジリジリとしびれ、首筋から背中、足先へと震えが駆け抜ける。
蒸し暑い空気が重くのしかかる中、「私も出たい」と母に申し出る。最後のお別れがしたかった。しかし、母は受け入れず、冷たく告げた。
「あなたは勉強だけしてなさい」
「どうして行かせてくれないの?」
「今日から夏期講習でしょ。早くしないと遅刻するわよ」
冷たい母の答えに、返す言葉がみつからなかった。
いまさらながら、思い出せなかったばかりに臆病のまま今日まで来てしまった自分に苛立ちが募る。自分と似た境遇の幼馴染が、医者にさじを投げられても生きてきた。その存在が、今日まで私を支えてきたのだ。傍にいることさえできなかった。それなのに、最期のお別れもさせてもらえない。握り固めてきた心が少しずつひび割れ、音もなく砕けていくのを感じた。
ぐにゃり。
視界が歪み、室内を照らす光が、まるで嘲笑っているかのように見える。頭の中がぼんやりとして、周囲の音が遠くから響いてくる。椅子に座っているのに、宙に浮いている変な感覚だった。
家を出ると、青空には入道雲がもくもくと立ち上り、日差しは焼け付くように強烈だった。木々の間に吹く風が一瞬涼しさを運んできたが、すぐに冷たさも消え、肌にじっとりと暑さがまとわりついてきた。
汗を流しながら授業を受けるも、通夜へ行くことは叶わず、自室で課題プリントの空欄を埋めることしかできなかった。
翌日も同じように家を出て、機械的にくり返す。
授業は苦痛だった。教室は熱気で満ち、クラスメイトの声は遠くに聞こえてくる。距離感もどんどん広がっていくようだった。暑さとは裏腹に、内側から冷たさが広がっていく。
昼食時、食べ物を口に運ぶ。匂いはなく、味も消え失せていた。パンをかじるとまるでスポンジ。麺や肉ならゴム、ご飯なら発泡スチロール粒、野菜は水気の含んだ紙のよう。口にするたびに吐き気がこみ上がる。食事が苦痛となり、食べる度にトイレで吐いた。
休むことなく通い続けるも、自分がどこか別の世界にいる感覚から抜け出せない。受験勉強に追われる日々が続き、心身ともに疲弊していくのを感じていた。それでも、周囲の期待にもがいていた。
気づけば、屋上やホームの端に立っていたり、赤信号の交差点へ踏み出そうとしていたりする自分を見つける。
そんなときに限って、汗だくで道を尋ねてくる人や泣き叫ぶ迷子、炎天下の道路の真ん中で寝転がる身障者に出会った。
私が抱えている悩みにくらべたら、彼らの悩みはたいしたものではない。けれど、当人達にとっては一大事なのだからと放ってはおけず、「手伝えることはありますか」と声をかけ続けた。
手助けしていると、彼らの姿は自分を写す鏡だと気づく。
誰かに助けてほしい救われたい、そんな思いが絶えず心の奥底に渦巻いていた。 そのせいで、誰よりも先に困っている人たちを見つけてしまう。だからこそ、なおさら放っては置けず、自分を度返しに手を貸し続けた。
誰かを助けることで自分が救われている気持ちになる瞬間もあった。心が少し軽くなる感覚も得たが、それは一瞬であり、本当に救われることはなかった。
それでも、無視することはできなかった。
疲弊しきった日々に、夢や希望などない。明けた日は暮れ、今日は手つかず、行く春に夕暮れという罪一つが残る。
「進学校を出て、良い大学へ行かないのは体裁が悪い」
世間体を気にするばかりで、親は話を聞こうともしなかった。嫌気が差した私は、西方浄土を求めて、西の果てにある大学を選んだ。
私の唯一の願いは、海だった。
白い泡が虹色の精彩を放ちながら、くり返し押し寄せる白波に足を進め、水平線のはるか先を目指して入水することだけが救いだった。
想像しながらペダルを漕いで防波堤へ向かい、よじ登って目指してきた海へとたどり着く。だが、眼下に広がる光景は、思い描いてきたものとはまるで違った。
湾岸沿いにずらりとテトラポットが敷き詰められた向こう、薄緑色の海と空が溶け合う先に、小高い山がぼんやりと浮かんでいる。それはまるで、あの世への道標のようにも見えた。
灼熱の太陽が容赦なく照りつける中、結界のごとく置かれたテトラポットに腰掛け、うっすら浮かぶ山を眺めては、あれが浄土か蓬莱山かと思いにふける。
時折、足元からポチャッと音がする。磯臭さはない。青白く染まる世界をひたすら見つめ続ける。待っていれば、向こうから迎えがくるのだろうか。
現れるものは誰もいない。
ただ、目の前に広がる光景が、『ここは君が来るべきところではない。君にしかできない、為すべきことがあるはずだ。しっかり全うしなさい』そう告げている気がしてくる。
日差しのキツさから、熱中症になりかけていたのかもしれない。
どうすることもできず、引き返すしかなかった。
帰り道、小さな出来事に心が動かされる。
交差点を曲がった車の窓から、ファイルが落ちるのを見た。拾って交番に届けた日の夕方、持ち主の高校教師が現れ、お礼とともに図書カードを渡された。
受け取って一人となり、思わず笑顔がこぼれて泣けてきた。夕陽に照らされた空がオレンジ色に染まっていく。
あの日、空と友人と幼馴染に誓ったのだ。「自分と向き合う誰かのため、何かのために自分のできることを精一杯する、それが巡り巡っては恩返しとなる」と。
約束は縛るものではなく結びつけるもの、と改めて思い出す。
大切な思いを忘れかけていた自分に、いま気づく。
夏の暑さと共に、重く沈んでいた心が少しずつ軽くなり、少女だった在りし日の記憶が呼び起こされていく。
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蹉跌の彩り snowdrop @kasumin
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