第四章 新たな一歩

 お父さんの運転する車が家に到着した。病院よりも小さく、二階建てで、壁は白かった。

 少女は松葉杖を使って、ゆっくり門扉をくぐる。小さい庭には、たくさんの木が植えられていて、葉が風に揺れている。

 玄関扉から家に入ると、壁や床、天井は木製で、病院みたいな長い廊下もない。かわりに温かみのある光が差し込んでいた。

 一階の広い部屋には、黄色いベッドが置いてあった。

「トイレに行く不自由さをなくそうと、彩ちゃんのベッドを二階からもってきたんだよ」

 お父さんの言葉どおり、歩いて数歩先にトイレがあった。

 これからなにをするんだろう。少女がベッドに座ると、お父さんが本をいくつか持ってきた。

「夏休みに入ったからね。こっちが宿題。それとは別に、復習するために買った問題集だ」

「お昼は、ひやむぎを作るから」

 キッチンからお母さんの声が聞こえた。

 少女は小さく口元をゆるめる。病院にいたときと同じように、ここでも薬のためにごはんを食べて、勉強をするとわかると、少し安心した。

「退院したばかりだけど、来月から週に二回、通院してリハビリすることになっている」

「ツウインって?」お父さんにたずねてみる。

「いままでリハビリステーションで練習をしてただろ。今度は、家から病院に通うんだ」

「もどるなら、タイインしなければよかったのに」

「病気やけがが治ったら、退院するんだよ」

 少女はまだ包帯が巻かれている左足を見つめる。治っていないのに、なぜ退院したのだろう。

「もちろん家でも練習するんだよ」お父さんは続ける。「階段を上り下りしたり、部屋を歩いたりするのも、大切な練習だ。夏休みが終わったら学校へ行くから。それまでに、しっかり歩けるようになるんだぞ」

 お父さんの言葉に、少女はゆっくりとうなずいた。



 退院から数日後。お昼ごはんを食べ終わった少女は、夏休みの宿題をしようと、階段を一段ずつ後ろ向きにお尻をつけて上がっていった。

 部屋に入り、椅子に座って、勉強机に向かう。すると、外から音が聞こえた。なんだろうと窓から見下ろせば、見慣れない車が家の前に停まっていた。夏の日差しを浴びて、白くかがやいている。

 インターフォンが鳴った。お尻をつけて一段ずつ、階段を降りていく。玄関先で両親が、遠縁の夫婦を出迎えていた。

「こんにちは、退院祝いを持ってきたぞ」

 喫茶店を営んでいる遠縁のおじさんは、大きな段ボール箱を抱えていた。箱の中からでてきたのは、焙煎コーヒーに業務用ミートソース。冷凍ピラフにレトルトチキンカレー。ババロアの原液もあった。

「パフェって、ありますか」

 少女はおばさんにたずねてみる。

「お店のメニューにあるかって? 店では出してるよ。アイスクリームに、リンゴやサクランボを乗せて」

「おいしそう」

 病室で食べたパフェの味を思い出すと、口がゆるむ。

「今日はババロアを持ってきたから、彩ちゃんに作ってあげるね。牛乳に混ぜれば簡単にできるから」

 ババロアとはなんだろう。パフェみたいなものかしらん。

 考えてもわからなかったが、できあがりを待つことにした。

 四つん這いになってリビングを進んでいくと、「まだ歩けないのかい?」遠縁のおじさんが、目の前で腰を下ろした。

 少女は小さくうなずく。足に力が入らないため、家の中では這いつくばっての移動しかできなかった。

「リハビリに通ってます。家では、階段で練習もしています」

 入院中に大きな声で怒鳴られたことを覚えている。また怒られるかもしれない。背中を丸めながら手をにぎり、うつむく。

「おまえの学校は、ずいぶん遠いと聞いている。みんなに心配をかけないよう、早く歩けるようになるんだぞ」

 ふいに、頭を撫でられた。

 顔をあげると、おじさんは目尻にシワの入った顔が見える。以前、怒鳴ったときとはちがい、笑っていた。

 少女は大きくうなずいてみせた。

「彩ちゃん、おまたせ。できたから、めしあがって」

 おばさんが作ってくれたババロアが、リビングに運ばれてきた。白くてふわふわした雲みたいで、光を浴びてキラキラと輝いている。甘い香りがふんわりして、思わず「わぁ」と声が出る。

「いただきます」

 手を合わせてから、スプーンですくう。

 ふるふるっと揺れてやわらかい。口に入れるとすっきりした甘みとなめらかで、少女はまぶたを思いっきりあけた。

「おいしい?」

 おばさんに聞かれると、大きく二度、うなずいた。

 二人が帰ったあと。お母さんに、残りも食べていいかたずねたら、「今日の勉強がまだでしょ」と言われた。



 学校からのプリントに、「読書感想文」と書かれていた。

「本を読んだ感想を作文用紙に書くんでしょ。『やりたくないから手伝って』なんていわないでよ」

 お母さんは、大きな息をはいて教えてくれた。

「どう書くの?」

 と聞けば、だまってしまった。

 数日たって『読書感想文の書き方』と書かれた本を渡される。

「どうしてその本を選んだのか。どんな話で、どう感じ、どう思ったのかを書くの。まずは本選びからね」

「これは?」受けとった本をあけてみる。

「お話が書かれた本で書くんでしょ。お父さんにお願いして、今度のリハビリの帰り、図書館で選んできなさい」

 後日。リハビリ終わりに、お父さんにたのんで、図書館に寄ってもらった。

 松葉杖をつきながら灰色の建物へ入り、冷たい風が顔に当たる。冷気が肌に触れ、ぞくっとしながら進んでいく。

 足が止まる。広い部屋いっぱいに、たくさんの本棚が並んでいた。

「ここから選ぶの?」

「図鑑や絵本では書けないし、低学年向けの本はダメだぞ」

 本の背中の文字を見ていると、少女は頭が重くなっていく。

 偉人伝記コーナーで、「子供だったときは、伝記を読んで書いたなぁ」と、お父さんがつぶやいた。

 どの本を選べばいいのだろう。目の前にあった本を手に取ってみる。

「これでいい」

「ほぉ、『ベートーヴェン』か。いいものを選んだね」

 少女はよろこんで帰宅すると、借りてきた本をめくった。

 どのページも細かな文字がたくさん並んでいる。しかも分厚い。

 大きな息が出る。でも自分で選んだからと思い、ゆっくりめくり、一ページずつ読んでいく。

 それ以外の夏休みの宿題は、順調に終わっていった。



「復習と予習もしなさい。みんなから遅れているのだから、しっかり勉強して追いつくのよ」

 お母さんにいわれるまま、夏休みの宿題を終わらせてから問題集に取りかかった。字を書きすぎて手を止めると、「だらけてないでやりなさい」と注意され、毎日勉強ばかりしていた。

 週に二度の通院と、家での階段を上り下りする練習もかかさなかった。おかげで、夏休みが終わるまでには、リハビリルームの入口から奥まで、十メートル歩けるようになった。

「一ノ瀬彩さん、がんばったね。今日でリハビリは終わりです。今後は週に一度、検診に来てください」

 新川先生に笑顔でほめられた。

 それなのに、帰りの車の中でお父さんは「通えないなぁ」とつぶやいた。どうしてと聞くと、「歩いて三十分かかるから」と教えてくれた。

「朝は車で送るけど、帰りは自分で帰ってきなさい。正門をでたら道なりにずっとまっすぐだ。時間がかかっても自分で帰るんだぞ。これも立派なリハビリだよ」

 目を細めるお父さんは、ちょっと笑ったようにみえた。

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