第五章 久しぶりの学校


「ひとの誕生日に、勝手に死なないで。夢見が悪いでしょ」

 夏休み明けの初日。教室の入口で少女は、ショートヘアの子から大声を浴びせられた。

 なぜ彼女が怒っているのか、まったくわからない。

 どうしてだろうと自分に問いかけながら、少し前を思い出してみる。

 朝ごはんを食べ終え、お母さんの車で小学校の裏門に送ってもらった。十メートルしか歩けない自分にとって、教室までの道のりは遠い。ランドセルが背中にずっしりと感じる。おぼつかない足で、一歩ずつ昇降口へ向かう。

 四年生の靴箱から自分の名前を見つけると、上履きに履き替えようと足を動かす。段差が高く、体がよろけ、思わず床に手をついて体を支える。転んだとき、廊下のすみでホコリがぐるぐると回るのがみえた。

 児童たちが先へと駆け上がっていく中、右足を頼りに一段、また一段と階段を登る。壁に手をつきながら廊下を歩き、やっとの思いで四年二組の教室にたどり着いた。ここまでは親から聞いていたとおり。だけど、自分の席がわからない。

 教室にいた子たちから、「一ノ瀬さん。おかえり」「彩さん。久しぶり~」と声をかけられた。はじめて会う子たちだけれども、「久しぶり」と返事する。

 教室を見渡していると、「ここでしょ」と近くにいた子が教えてくれた。「夏休みボケ?」

 だまっていると、「夏休みは長かったもんね」と笑われる。

 笑われる意味がわからない。

 少女は帽子を脱ぎ、教科書とノートを机にしまう。ランドセルが邪魔になった。どうすればいいのだろう。まわりを見渡すと、ロッカーに入れている子が目に入る。同じようにまねをした。

 ひと安心して席に戻ると、「呼んでるよ」さっきの子が声をかけてくる。教室の出入り口近くには、背が高くてまつ毛の長い、ショートヘアの子が立っていた。

 なんだろうと思って近づくと、「ひとの誕生日に、勝手に死なないで。夢見が悪いでしょ」と、とげとげしい言葉をかけられたのだ。

「ごめん」

 とっさに謝ると、相手は一瞬、にっと笑った。

「でも、死ななくてよかった。もう大丈夫なの?」

 今度はやわらかい言葉になった。

「まだ。十メートルしか歩けない」

「どうやって学校まで来たの?」

「車でだよ。帰りはリハビリのために歩くの」

「そっか。まだ元気じゃないんだね。無理はしないでね」

 彼女は、軽やかに去っていった。

 席にもどると、「なんだったの?」さっきの子に聞かれる。

「なんだろう」

「知らないの?」

「……誰だろう」

 そもそも、目の前にいる子も誰なのかわからなかった。


「始業式を運動場で行いますので、全校児童は校舎の外に集まってください」

 校内に放送が流れた。教室にいたみんながしゃべりながら廊下に出ていく。その様子を見て、少女も後をついていく。

 運動場に出ると、小柄な子が「ならばせて」と声をかけてきた。

「誰が?」と聞くと、まわりにいた子たちが一斉に少女を指さした。

「一ノ瀬さんは学級委員でしょ」

 学級委員ってなんだろう。少女は思わず隣の子を見た。

 先頭に立つ子がまっすぐ右手をあげて、みんなに声をかけている。あれをすればいいのかな。

 少女は思わず、「ならんで」と大きな声を出した。


 始業式が終わって教室に戻ると、永田先生が手をたたいて声を張り上げる。

「各班の班長さん。班員の夏休みの宿題を集めて、先生のところまで持ってきてください」

 少女の前に座る子が振り返り、「早く集めてよ」と声をかけてくる。

「誰が?」と返すと、近くに座る子たちが、ふたたび一斉に少女を指さした。

「一ノ瀬さんは班長なんだから。夏休みボケしてないで」

 少女は班長もやっていることを知り、驚きつつも教室を見渡す。他の子たちがノートを集めて先生の元へ持っていくのが目に入る。少女もまねをして宿題を集め、持っていった。


 休み時間になると、教室は一気ににぎやかになった。

 隣の子とおしゃべりをはじめる子もいれば、席を離れて歩きまわる子、廊下へ出ていく子もいる。笑い声が響く中、少女は一人で座っているだけ。

 どうしてみんな、しゃべりだしたのだろう。

 チャイムが鳴ると、今度は急に、教室はしずかになった。

「夏休み前に勉強したことを、覚えていると思いますが」

 永田先生が前置きし、授業がはじまった。

 少女はまわりを見渡す。みんなが椅子に座り直し、口をとじ、黒板の前に立つ永田先生の話を聞いている。先生がいるときは、だまって座っていなければならないのかな。

「ねぇ、なにするの?」

 少女は隣の子に小声で聞いてみた。

「先生の話を聞いたり、ノートに書いたり」

「誰も書いてないよ」

「今日は復習だから。ノートに書くことはないよ」

 そういうものかしらん。

 少女は、聞いてもわからない授業を、一週間受けつづけた。



 ランドセルが重くて、少女はふらふらしながら校舎を出た。

 安全帽を深くかぶり、肩をすくめ、頭を下げてうつむき、足元だけを見つめる。運動場前を歩きながら正門へ向かう。

「一ノ瀬さんって、どこまで帰るの?」

 運動場で遊んでいたクラスの男子数人が、声をかけてきた。

 少女は足を止める。地区名ってなんだろう。考えても出てこなくて、「道なりにずっとまっすぐだよ」お父さんが教えてくれた帰り道を答えた。

 一人の子が、「南のはしっこじゃないか」とつぶやいた。

「へえ、遠くまで歩くんだな」

 少女は小さくうなずき、目線を地面に戻す。

「うん。それじゃあね」

 彼らに手を振り、早足でその場から離れようとした。だが、思うように進めない。無理に急いでも、すぐに息切れる。休みながら歩いていると、すぐに追いつかれた。

「日が暮れるぞ」

 そういわれても、これ以上速く歩けない。

「先に行っていいよ」

 彼らに手を振るのに、ついてくる。

「オレ、こっちだから」

 交差点ごとに、一人ずつ別れていった。

 残った一人がついてくる。

「一ノ瀬の家はまだ遠いのか?」

 少女は小さく息を吐きながら、「まだまだ」と答える。

「あと半分?」

 空を見上げて、少し考え込むように「たぶん、もっと」と返す。

「まじ? 毎日疲れるだろ」

 彼は声を上げた。

「朝は車で通っている。早く歩けるようになったら、朝も歩くよ」

「オレなら嫌だな」彼は大きなため息をついた。「こっちだから。がんばれよ」と言い残し、交差点で別れて走り去っていった。

 その日から帰り道は、彼が途中までついてくるようになった。



「今日からまた、松田さんのところで習字だよ」

 土曜日。昼ごはんを食べながら少女は、お母さんの言葉に思わず聞き返した。

「どうして?」

 お母さんの話によれば、きれいな字を書かせたくて一年生のときから通わせていると教えてくれた。習字道具のバッグを持って家を出たものの、松田さんの家がどこにあるのか思い出せない。歩きながらまわりを見回していると、同じバッグを持っている子たちを見つけた。急いで彼らのあとをついて行く。

 出かける前にお母さんがいっていたことを思い出す。「松田さんの家には町の文化遺産に選ばれた門があるんだよ」

 大きな門が立っていた。木でできていて、色はちょっと黒っぽい。門の横には白い石の壁がある。門をくぐると、広い庭。緑の葉が茂る大きな木や緑がいっぱいで、とても静かだ。奥には立派な家屋敷が建っている。

 同じ習字道具のバッグを持った子たちは家屋敷ではなく、門にある部屋へ入っていった。

 靴を脱いでガラスの引き戸をあけると、畳の部屋に卓上の大きな机と、一人用の折りたたみ机が用意されていた。

「彩ちゃん、もうすっかりよくなったのね」

 にこやかな笑顔で迎えてくれたのは、長い髪を束ねた年配の女性。眼鏡をかけていて、顔や手にシワがあった。この人が、松田先生なのだろう。

「おかげさまで、元気になりました」

 少女はお母さんから教わった言葉を思い出しながら頭を下げる。

 正座ができないことが一番困った。左足の膝を曲げて座れなくて、仕方なく前に投げ出す。

 松田先生は、方眼ノートに赤ペンで手本を書いてくれた。

「正座でないと習字は書きづらいから、彩ちゃんはしばらく、ペン習字をしましょう」

 手本の字をまねて、えんぴつで書くのを勧められる。

 あぐらをかきながら手本の字を見てノートに書いていく。

 書き終わって見せに行くと、「お手本をよくみて。マスの真ん中に書きましょう。とめやはね、はらいも気をつけて。一字一字、正しく書くのを心がけて」松田先生は赤ペンで手直ししてくれた。

「数をこなすのも大切。だけど一字ずつ、ていねいに正しく。質を高めるのも大事なの」

 いままで、きれいに書くことを気にしたことがなかった。でも手本をみながら、とめやはね、はらいを意識して書きつづけた。

 家に帰ってからも正座の練習をし、二週間ほどで座れるようになった。しかも、ペン習字のおかげで、字がうまくなった。だけど習字は、うまく書けなかった。

 字を書くには、墨汁を吸わせた筆をつかう。持ち方も、えんぴつのように寝かせるのではなく、垂直に立てる必要がある。しかも和紙に書くため、力を入れすぎると簡単に破れる。

「一ノ瀬さん。お手本をよくみて、書いてごらんなさい」

 松田先生は、筆を朱色の液に浸しては余分な水気を落とし、和紙に手本を書いてみせた。

 止めるところは止める。はらうところは、はらう。はねるときは、はねる。その姿は流れるようで、一切の無駄がなかった。

 少女はもう一度、松田先生を見つめる。背中を伸ばし、左手で紙を押さえながら書いている。

 手本は字だけじゃない。姿勢や動きをまねすることで、上手くなるかもしれない。

 以来、習字だけでなく、人の動きを観察するようになった。



「おまえが、車と相撲をとった子やろ」

 運動場の青空の下、野球帽をかぶった知らない大人に、いきなり声をかけられた。

 少女は、口が少し開いたまま顔を上げ、見た。

 息が臭い。話すたびに顔がクシャッと潰れる茶色に日焼けした顔には、深いシワが刻まれている。

「跳ね飛ばされて畑の土をつけられたんやろ。あほやな」

 この人は誰? 相撲ってなにかしらん。

 少女はその場で小さく身を縮めた。

「おまえが事故にあった子やろ」

 言葉が耳に入るが、頭の中でぐるぐる回るだけで、意味がわからない。事故? なにそれ? 少女はその場から逃げ出したい気持ちでいっぱいになり、視線を地面に落とした。

 新しい学級委員に代わり、班替えもされたころ。運動会にむけた合同練習が運動場で行われていた。

 グループごとに行進練習する合間の休憩時間。少女は他の子たちと座っていると、知らない先生が声をかけてきた。

 まわりの子の話から、ヘビースモーカーで隣のクラス担任で、名前は渡辺と知った。

 渡辺先生は少女の前にしゃがみ、地面に指で縦三本の線を描いた。

「塾帰り、三人で競争しとったんやろ。おまえが二番目。追い抜いて前にでたところ、時速六十キロで走ってきた白いライトバンに跳ね飛ばされた。それで畑に転がったんや」

 なにをいっているのだろう。

 少女はなにも答えられず、ただ笑顔を作る。

「なんや、知らんのか」

 渡辺先生は腰を上げ、去っていった。

 練習が終わって教室に戻ると、整列させていたとき、よく話をしていた小柄な子に声をかける。

 いつも明るく笑う子だった。

「一ノ瀬さん、なあに」

「あのね、……むかしが、わからないみたいなんだけど」

 思ったことを口に出すと、その子の顔から笑顔が崩れていくみたいに、表情が消えていった。

 どうしちゃったんだろう。なんとかしなければ、と慌ててまわりを見る。肩に手を乗せられた男子が、「骨が折れた~」と声を上げ、「冗談いうな」と笑い合う姿が目に入った。

 あれだっ。少女は「いまのは冗談だから」と口にする。

 またたく間に、相手の子は笑顔に戻った。

「いきなり変なこといわないでよ。真顔でいうから、わからなかったじゃないの」

「ごめんね」

「おどろいて損した~」

 そういってその子は、誰かに呼ばれて行ってしまった。

 うそや冗談ではない。本当なのに。自分は変だといわれた気がして、胸のあたりがずんと重くなり、どんどんさびしくなっていく。なにがいけなかったのだろう。自分の話は変だから、笑顔を消してしまう。話すのは、きっとよくないことなんだ。

 ふと、「おまえはさんざん迷惑をかけたのだから」と怒鳴った遠縁のおじさんの言葉がよみがえる。少女は両手を強く握りしめ、胸が締め付けられる。まわりの人たちを心配させてはいけない。迷惑になることは話していけないんだ。

 教室を見渡しながら、一人立っている自分に気づく。

 そういえば目の前にいる子たちは誰なのだろう。

 楽しげに話をしているみんなを眺めながら、少女は肩をすくめ、その場に立ち尽くしていた。

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