第六章 彩の世界
少女は急いで歩いていた。つまづくたびに、ひざがガクンと折れそうになる。足は重く感じるが、立ち止まるわけにはいかない。あせる気持ちを力にかえて、さらに前へと進んだ。
やっと家に帰ると、息を切らしながら階段を上る。ドアを開けて部屋に入った。
これまで気にならなかったけれど、部屋にあるものはすべて、見覚えのないものばかりだった。
タンスやチェストを開ければ、見知らぬ服がたたまれている。
机の引き出しからは、答案用紙が出てきた。『いちのせあや』と書かれてある。どれも、はじめて見るものばかりだ。
本棚に並んでいるノートを見ていくと、漢字の書きとりや数字が書かれている。自分の字と似ている気がするが、書いた覚えはない。ノートをめくる手は次第に早くなる。
つぎに、本を一冊ずつみていく。ページをめくるたびに、自分の知らない世界が広がっていく。
「これは……」
手にした本には、『アルバム』と書かれていた。中には、色とりどりの絵がたくさんはさまっている。男の子と一緒のもあるが、写っている人や場所、自分自身さえ、まったく思い出せない。
たくさんの子供たちが並んでいる写真もあり、日付はどれも春だ。その写真をじっと見つめながら、「誰?」とつぶやく。
「これは今年の四月。クラスのみんな、かな」
そう思いながら、写っている子たちは知らない人にみえた。
つぎに、『卒園アルバム』と書かれた本を開いてみる。
ページをめくると、たくさんの笑顔がならんでいた。
それぞれの写真の下には名前が書かれており、「これが私?」指でなぞりながら幼い自分の顔写真もみつける。
そのページには、四年二組の子に似た顔がいくつか並んでいる。見覚えのある名前が目に留まり、ドキリとして息を飲む。
明日、この子たちに声をかけてみようと決めた。
翌朝。少女は教室を見渡し、卒園アルバムでみた子にあいさつした。だけどそのあと、どう声をかけたらいいのか、わからなかった。
今度は、新しく学級委員になった小宮山湊大の席に近づき、「小宮山くん、おはよう」と声をかける。
「一ノ瀬さん、おはよう」
返事をしながら小宮山くんは、ノートに漢字を書いていた。
「宿題?」
「いや、今日の分の勉強」
「今日の?」
「ぼくの両親は教師なんだ。小さいころから一日の勉強が決められていて、できるまで眠れないんだ。だから、休み時間に少しでも勉強してるんだ」
小宮山くんの話を聞いて、自分が病室でやってきたことを彼もしていると気づいた。
つまり、勉強はみんながやることなんだ。
「当たり前なんだね。ありがとう」
彼はえんぴつをしっかり握り、字を書く手が止まらない。まわりの音が聞こえないみたいに集中している。
その姿を見ていると言葉が出てこなくなり、それ以上は聞けなくなった。
休み時間になると、少女は集まっている子たちのところへ行って、「なにを話してるの?」と声をかけた。
男子はスポーツやゲーム、マンガやアニメなど、楽しげな話題で盛り上がっていた。彼らの笑い声は、いつも教室に響いていた。
なにがそんなにおもしろいのかわからなかったので、別の集まりに声をかけてみる。
女子は、先生や親、兄や姉、友達についてのグチやぼやきを話していた。大勢で話すときは誰か一人をからかっては笑い合い、その声はときどき大きく、まわりの目を引いていた。だけど二人きりになると、「ここだけの話なんだけど」と前置きをして話しはじめる。相手の言葉に押されて「ひどいね」と返すと、「でしょでしょ」とさらに続けてくる。
話し終えた子はさっぱりした顔で「聞いてくれてありがとう」と、軽やかな足取りで去っていった。
聞かされた少女はヘトヘトに疲れて、息がこぼれる。教室のざわめきの中、自分だけが取り残された気持ちになった。
誰も、一ノ瀬彩の昔話をしてくれる子はいなかった。
クラスの子たちにそれとなく、自分の知らない昔を聞きまわってみたものの、なにもわからなかった。
だからといって、「昔がわからないから教えて」とは口が裂けても言えない。相手から笑顔の消えた顔を目にしたら、自分も暗い気持ちになる。相手の笑顔を消したくないと思うほど、秘めた心が重く沈んでいく。
少女はどうすればいいのかわからず、教室からぼんやりと廊下を眺めていた。そんなとき、隣のクラスから、後ろに束ねた長い髪をぴょんぴょん弾ませて、一人の女子が廊下を歩いてきた。
卒園アルバムでみたことがある。
名前はたしか、森川英美だったはず。
「森川さん、こんにちは」
思い切って、声をかけてみる。
彼女は立ち止まり、細い目を大きく開いて少女を見た。
「やっほー。彩ちゃん、久しぶり。元気になったんだね」
手を振って、のんきに返してくれた。
これまでの子たちとは、明らかにちがう返事だった。その言葉には温かさがあり、少しほっとした。
「おかげさまで、元気になりました」
少女は笑みを返す。
「そういえば、彩ちゃんはおとなしかったから、幼稚園では毎日のように男子全員にいじめられてたよね」
森川さんは聞いてもいないのに話しはじめた。
「……そうだね」
少女はうなずいてみたが、心の中ではモヤモヤとしてよくわからない。自分の昔について知りたい気持ちが、胸の奥でどんどん大きくふくらんでいく。
「どうして、いじめられたのかな?」
「男子の考えなんて知らない。どうせくだらない理由でしょ」
「小宮山くんも?」
「そういえば、一緒のクラスにいたね。あの子は参加しなかったけど、止めもしなかった。ずっと勉強してたかな」
「わたしも勉強してたの?」
「してないよ。けど、時計や漢字は読めてたね。運動は苦手だったから、いじめられてたのかも」
少女は小さく肩をすくめ、「……ずっと助けてくれてた?」おそるおそる口に出してみる。
森川さんは少し顔をかたむけ、「助けてたっていうか。たまに、わたしも巻き込まれてたけどね」あははと笑った。「わたしは、相手にナメられないように言い返してた。でも彩ちゃんって、昔から口数が少ないでしょ。だから、わたしに助けてほしかったんだろうなって」
少女は、開きかけた口をとじ、森川さんをじっと見た。
「そしたら彩ちゃん、助けを求めなくなったよね。男子にいじめられて泣かされてから、わたしのところに来るようになって。あのときはびっくりした」
「びっくり?」
「わたしまで、いじめに巻き込まれないようにしてくれたんだよね。力になれなくて、ごめんね」
「……ありがとう。なぐさめてくれて。うれしいよ」
なにも思い出せないけど、わかったことがある。
事故前の自分は、友達思いだったのだ。
少女は休み時間になると、森川さんと話すようになっていった。
運動会当日は、空は青く晴れ渡っていた。」
少女が森川さんと運動場のすみにいると、背が高くてまつ毛の長い、ショートヘアの子が声をかけてきた。
「組はちがうけど、今日はお互いがんばろうね」
声をかけられた少女は、彼女の笑顔に、まばたきを忘れた。
この子は悪い子ではないかもしれない。
「うん。がんばろう、ね」
彼女は小さく手を振り、他の子たちがいる方へと走っていく。
後ろ姿を見送りながら少女は、「ひとの誕生日に、勝手に死なないで。夢見が悪いでしょ」と怒っていたことを思い出す。あのときは、どうして怒っていたのだろう。
「誰なのかな」
「うちのクラスの、武田菜月さん」
森川さんが教えてくれた。
「たけだなつき……さん」
クラスはちがうし、卒園アルバムにもいなかった。
「幼馴染でもないのに、声をかけてくるのはどうしてかしらん」
思っていることが出てしまい、口に手を当てる。
「仲がよかったからじゃないの。知らないけど」
森川さんは、そっけなくつぶやいた。
病院で目を覚ましてから、数か月が経つ。振り返っても、武田さんとの思い出はなにもない。
「仲がよかったのって、いつだろう」
「三年生まで同じクラスだったんじゃないの」
うなずいてみるも、記憶はなかった。そういえば先日みたアルバムに写っていた気がする。ひょっとするとアルバムには、自分と仲がよかった子たちが写っているのかもしれない。家に帰ってもう一度見直そう。そう思いながら、運動場に集まりだしたクラスメイトの元へ向かった。
運動会の種目競技の一つ、百メートル走に少女は出場した。
一か月前に、ようやく十メートル歩けるようになったばかりだった。学校から自宅までの二キロメートルを、最初は二時間もかかっていた。いまでは、一時間で歩けるようになった。
スタートラインに立つ。足は重くて上げづらい。それでも走り出した。まわりの子たちには追いつけない。転ばないよう気をつけるので精いっぱいだった。
ゴールラインにたどり着いたとき、涙があふれ出す。最下位でもいい。みんなと同じ距離を走り切れた。それだけが、なによりもうれしかった。
今日の図工は、人物の水彩画を描く授業だった。
絵を描くってどうしたらいいのかな、とつぶやいて、写真を思い出す。あんなふうに、みたものを切り取ればいいのかな。頬に手を当て、じっと前を見る。
黒板の前に立つモデルの男の子は、給食当番の白いエプロンを着ていて、少しうつむきながら大きなおたまで器に注ぐ格好をしている。肩は少し上げていて、眉をひそめ、口は閉じ、目はまっすぐ器を見つめている。その姿を見ながら、少女は画用紙にえんぴつで下書きをしていく。
「一ノ瀬さん、上手ね」
永田先生から声をかけられ、少女はその言葉に少し背筋が伸びる。
「どう塗ったらいいですか」
永田先生は微笑みながら教えてくれた。
「はじめは淡くうすく、水をふくませて塗っていくといいよ」
先生は少女から筆を借り、バケツの水で濡らしてから、画用紙に広げるようにさぁーっと塗った。
「そうしたら、少しずつ色を重ねていく」
今度は、パレットから緑の絵の具を筆先につける。
どうするんだろう、少女はだまってみていると、先生は先ほど濡らした画用紙に、筆先をてんてんと塗っていく。色と水が混ざり合い、ふわっと広がる。
「全体を見ながら整えるといいよ。星﨑くんの顔を見てごらん」
先生にいわれるまま、モデルの男の子に目を向ける。
「日に当たって明るいところと、影ができているところがあるでしょ。白衣を着ているけど、全部白じゃない。明るいところや暗いところ、シワもある。黒板だって、深い緑や光って白くみえるところもあるよ。それら全体を見て、考えて塗ってね」
先生の言葉にうなきながら、少女は再びモデルに目を戻す。
影や軽いところは、と筆を動かす。まずは水で濡らしたところに、うすく緑色を塗り、少しずつ色を重ねていく。
「あと、紙の右側があいているね。見切れてもいいから、もう一人描くといいよ」
永田先生が画用紙の余白を指さした。
モデルの男子のすぐ隣には、誰も立っていない。
「少し離れてるけど、小宮山くんがいるでしょ。彼が横に立っている感じで描くとバランスがいいよ」
たしかにもう一人のモデルの子が、離れたところに立っている。少女は頭の中で、二人が並んでいる様子を想像し、えんぴつで下書きしてから、色を塗っていった。
「一ノ瀬さんって、ぼくを描いてたんだね」
昼休み。自分の絵を見ていると、男子から声をかけられた。
みんなの描いた絵が、壁に貼りだされた。どういうわけか、少女をはじめとする数人の子たちの作品は、廊下の壁にある。隣のクラスをみると、同じように廊下側に貼られた絵があった。
話しかけてきた男子をみながら、少女は名前を思い出そうとする。絵のモデルの子だし、声にも聞き覚えがあるのに出てこない。
「目の前で、よく見えたから」
「一ノ瀬さんには、ぼくがこう見えてるんだ」
彼は微笑み、目を輝かせていた。少し照れくさそうに口元をゆるめ、頬には赤みが差している。
「見たままを描いたつもり」
「そうなの?」彼の顔が赤い。「ぼく、こんなイケメンじゃないよ」
イケメンってなんだろう。意味がわからない。武田さんに怒られたことを思い出し、「うまくかけなくて、ごめんなさい」と頭を下げた。
彼は見開いた目をまばたきし、慌てて手を振りながら、「いやいや、うまいって!」と声を上げる。「べつに怒ってないし、謝らないで」
「怒ってないんだ」
「本物よりカッコよく描いてくれて、はずかしいようなうれしいような……。それは、いいんだけど」
「けど?」
「他のクラスの子や先生もみられる、目立つところだから」
「目立たないところに貼ってもらえるよう、先生に頼めばいい?」
「そうじゃないよ。一ノ瀬さんが描いた絵はうまいから、みんなにみてもらってもいいよ。ただちょっと……」
「ちょっとって、なに?」
少女は彼をじっと見た。クラスメイトなのに、名前が思い出せない。
「みんなに見られると、ぼくが有名人になったみたいで、ちょっとはずかしいんだ」
彼は照れくさそうに笑う。
みんなにみられると有名人となり、はずかしくなるらしい。
「でも、名前は書いてない。本物よりイケメンでカッコいいんでしょ。誰なのかわからないよ」
「あー、たしかに一ノ瀬さんのいうとおりだね」
えへへ、と彼は頭をかいて笑う。
すると、「おーい、星﨑ーっ」男子の声が廊下に響く。
「待たせてたんだ。一ノ瀬さん、描いてくれてありがとう」
彼はそう言って、呼ばれた方へ軽やかに歩いていった。
「夏休みの読書感想文が、コンクールに応募されたよ」
少女は、洗い物をしているお母さんに話しかける。勉強とリハビリの合間に書き上げた感想文で、永田先生もほめてくれた。
それなのにお母さんは、「よかったわね。食べ終えたら勉強しなさい」冷たく返した。
図工で描いた水彩画が選ばれたときも同じだった。「勉強が大事よ。絵なんてうまくなっても、生活していけないんだから」と言われた。
少女は、電気もついていない自分の部屋へと逃げ込んだ。感想文や水彩画も大切な勉強だと思うのに。なにがちがうのだろう。
次の日、運動会前に行われたテストが返された。授業で習った内容ばかりだと、永田先生は説明した。
少女にとって退院後に受けた、はじめてのテスト。半分以上点数が取れた答案用紙を見て、よくできたと思っていた。
永田先生はクラス全体をじろっと見渡し、「今回のテストは、非常に悪かったです」と告げた。その瞬間、教室が静まり返った。
少女は隣の子の答案用紙を見る。自分と同じ点数が書かれていた。
「みなさんには放課後、テスト直しをしてもらいます」
「えーっ」
不満とため息が、教室いっぱいに広がった。
放課後になると永田先生は、「正しい答えに書き直した子から、帰っていいですよ」と説明した。
早く帰りたいみんなは、まちがえたところを書き直しては、先生に丸をもらうおうと列に並ぶ。少女も書き直して見せに行くが、なかなか丸がもらえない。
席に戻ると、並んでいる男子が少女の答案用紙をのぞき込む。
「おい、『リーンリーンと鳴く』ってバカだろ。羽をこすりあわせて鳴くに決まってるじゃないか」と笑った。
問題文には、『スズムシはどう鳴きますか』と書かれていた。鳴き声ではなく、鳴き方を聞いているんだ。
納得して書き直そうとしたとき、
「一ノ瀬はバカになったバカになった~」
おおげさに笑う男子が、まわりに聞こえる声を上げた。他の男子も、一緒になって笑い出す。
「言い返さなくていいの?」
隣の席に座る子が、心配そうに聞いてくる。
「ほっとけばいいよ」
少女は正しい答えを書き直すと、列の最後尾へ向かった。
幼稚園のころは男子全員からいじめられていた、と森川さんが教えてくれた。あの男子は卒園アルバムでみた子だ。きっと、自分をいじめていた男子の一人にちがいない。
これからは男子とはあまり関わらないようにしよう。
バカにされないためじゃない。競って勝ち負けにこだわるより、おだやかに過ごすために勉強をしていこうと決めた。
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