第七章 いなくなるなんて

 残暑が遠のき、風にひんやりと冷たくなってきた。教室の窓から入る風は少し肌寒く、外では木々の葉は赤や黄色に色づいている。

 朝の会で、永田先生から発表があった。

「ご両親の仕事の都合により、みんなの仲間の一人が転校することになりました。つきましては放課後、お別れ会をします」

 少女は一瞬、息を飲んだ。転校するのは、下校するときに途中まで一緒に帰ってくれていた岡本くんだった。

 放課後になると、机を教室の後ろへ移動させ、椅子を円形にならべて『フルーツバスケット』がはじまった。

 数種類のフルーツ名をつけたグループ分けをして椅子に座り、オニ役の子が特定のフルーツ名を呼ぶと、呼ばれた子だけが空いている席へ移動する遊びをして、楽しい時間が過ぎていく。

 途中、岡本くんが教室を飛び出した。

 気になった少女は廊下に出る。

「おい、やめとけよ」

 男子に止められたが、「あの子の会なのに、いないとダメだよ」すぐに追いかけた。

 洗面所の前に岡田くんを見つけた。鏡越しにみえたのは、嗚咽をあげて顔を真っ赤にして泣きじゃくる姿だった。

 少女はその場で足が止まり。なにも言えなかった。

 鏡に映る彼と一瞬目があうと、彼は蛇口をひねり顔を洗いはじめた。

 なにか言葉をかけなくては。少女は胸に手を当て、「みんなが、待ってるよ」そっと声をかけた。

「わかってる。すぐ行くよ」

 廊下に出迎えに来た友人たちに、「ハンカチ忘れたーっ」ぬれたままの笑顔をみせて、彼は教室へと戻っていった。

「みんな、わかってたんだね」つぶやくと、「一ノ瀬さん。教室に戻ろう」側にいた星﨑くんに声をかけられた。その日の会が終わるまで、岡本くんは笑顔だった。

 翌朝、教室に入ると岡本くんの席が空いていた。

 少女は気になって隣の席の子に聞くと、「昨日、お別れ会したじゃないの」と返された。

 お別れ会をした次の日にいなくなる。

 それが『転校』だと知り、少女の心は、ずんと沈んでいった。


 少女は教室のすみから、ぽつんとできた空席を見ていた。まわりではクラスの子たちが楽しそうに笑い合っている。その声は、まるで遠くから聞こえてくるようで、自分だけが違う場所にいる気持ちになる。

「それってさ、あのときの話だよね」

 隣の子がいうと、他の子たちもうなずきながら笑った。

 少女は髪をいじりながら視線を落とす。あのとき、とはなんだろう。わからない。みんなが当たり前に持っている思い出に、自分だけがまざれない。

 教室は明るいのに、にぎる手が冷たい。逃げ出したい気持ちが湧いてくる。半年以上前の出来事になると、自分には関係ないことのように思える。辞書を引けば言葉の意味はわかる。しかし思い出や出来事は、どの本にも書かれていない。話を聞いても、わからないことが増えていく。その度に、みんなとの距離ができていった。

 それでも話を聞きながら、うなずきをくり返す。だからといって、みんなと同じになれない。

 あの空席は、どれだけ頑張っても埋まらないみんなとの距離だ。

 同じように笑いたいけれど、どうしたらいいのかわからない。しかも同級生が大人に見えて、教室にいるだけで足が震え、背中を丸くなる。

 給食時間がはじまると、誰よりも早く食べ終えて運動場へ飛び出した。誰もいない運動場は、少しだけ心が軽くなる気がした。みんなが遊びに出てくると、校舎へと戻った。

 雨の日は図書室で低学年向けの本を読み、授業が終わると「走る練習をするから」クラスの子に告げて教室を飛び出した。足を速めて廊下を歩く瞬間だけは、自由になった気持ちだった。

 遅い足で急いで帰っても、家は安らげる場所ではない。ドアを開けると宿題が待っている。お母さんに言われなくても、少女は机に向かう。宿題を終えて、ほっとする間もなく、問題集に手を伸ばす。自分の居場所がない中、一人で過ごす日々が続いていった。



「久しぶり。今日からまた一緒に学校へ行こうね」

 通院回数が、月に二回となったころ、地区の子たちと一緒に登校することになった。早朝、集合場所へ行くと、同じ地区の子たちが集まっていた。

 班ごとに分かれて歩きはじめる。

 クラスメイトの顔を覚えたばかりなのに、また新しい人たち。声をかけられるたび、少女は愛想よく笑い、「お久しぶりです。また、お願いします」と返す。

 声をかけてきたのは班長の江崎くん。六年生で背が高かった。

 以前よりも歩けるようになったとはいえ、少女の足はまだ遅い。どんなに急いでも、みんなとの距離が縮まらなかった。

「一年生はついて行ってるんだ。遅れずに歩こう」

 江崎くんに急かされても、速く歩けるようにならない。歩きなれている子と、なぜくらべるのだろう。まねをしても、転びそうになる。

「遅刻しちゃうよ」

「するとどうなるの?」

「先生にしかられて、みんなに迷惑をかけるよ」

「わたしを残して先に行けばいいのに」

「班長だから、それはできない。時間どおりに学校へ連れて行くのが、ぼくの役割だから」

 みんなの歩調にあわせ、必死に足を動かして学校へ向かう。教室では疲れて机に顔をふせる日々が続いた。

 ある日。お母さんに用事を頼まれて、江崎くんの家を訪ねることになった。彼の住まいは、平屋住宅が立ち並ぶ一角にあり、三人姉弟の長男だった。いつもはやさしい話し方をする人だったのに、「うっせーんだよ、ったく」姉弟に話すときは乱暴な口ぶりだった。

 本当に同じ人なのかしらん。ひょっとしたら、そっくりな人かもしれない、と少女は自分の耳を疑った。

 でも、もっと気になったのは、近くの家々に他の子たちが住んでいることだった。毎朝集合場所に集まるみんなは、どこからくるのか気になっていたのだ。

 このとき少女に、ある考えがひらめく。

 事故前の自分は、誰かの家で遊んでいるかもしれない。その子に会って話を聞けば、当時の話が聞けるはず。でも、その子がどこに住んでいるのかわからない。

 こうなったら、一軒ずつ訪ね歩くしかない。

 決意した少女は、授業が終わると、すぐに教室を飛び出した。



「テニスコートより西には行かないように」

 出かけようとした少女は、お母さんに注意された。

 近所には、白い五階建てのマンションが建っている。

 そのマンションの北側には、テニスコートと駐車場があった。

 車の出入りが多いから、近づいてはいけないのかもしれない。

 テニスコート手前の道路から東に向かって、「こんにちは」と、一軒ずつ訪ねていく。

 四軒目の家の前に来たとき、畑で草むしりをしている手ぬぐいをかぶったおばあさんが目に入った。

「久しぶりやね。元気になってよかったね」

 自分を知っている人だ。

「お久しぶりです」

 少女はていねいに頭を下げた。

「昔は、うちの孫とよく遊んでくれてたね」

 古い大きな家屋敷におじゃまさせてもらい、麦茶をいただく。

 おばあさんの話によると、一ノ瀬彩が小学校に入学する前、この家を訪れていたとわかった。

 ちなみにおばあさんの孫とは、テレビ画面に向かってコントローラーを動かして遊んでいる、幼い姉弟のことだ。

 画面中央にいるキャラクターが列をなして歩いて行く。ときどき、画面に文字や数字の一覧が現れる。

 気になって見ていると、年下の男の子が教えてくれた。

「ステータス画面だよ。もう少しでレベルアップするんだ」

 出会った相手の名前と会話が、文章として現れる。

 ゲームみたいに現実も、ひと目でわかるステータス画面があったなら、どんなに楽だろう。どこに住んでいて、どんな関わりがあるのかがわかれば、一軒ずつ訪ねなくてもいいのに。

 おばあさんからは、それ以上の話は聞けなかった。

 一緒に遊んでいたのは短い期間だったらしい。

 おじゃましましたと家を出て、次の家へと足を進める。

 行く先々で、いろんな人と出会った。吠える犬に追い返され、知らないおじさんに「誰だおまえっ」と怒鳴られもした。

 少女は少し怖くなったが、それでもやめるわけにはいかなかった。



 強い風が吹き、色づいた木の葉が舞い散る。枯れ葉が道路を転がり、冷たい空気が肌を刺すようだった。

 少女は、以前訪れた家のおばあさんがなくなった知らせを聞いた。

 なくなるって、転校みたいなものかな。だとしたら、自分を知っている人を早く探さないと、忘れた過去も消えるかもしれない。

 そう思った少女は急いで帰宅すると、毎日訪ね歩いた。

 同じ造りの平屋が並ぶ静かな住宅街。電線が低く垂れ、遠くで犬が吠える中、一軒を訪ねる。

「やあ、久しぶり。元気になってよかったね」

 眼鏡をかけた男子が玄関から出てきた。

 自分を知っている人だ。

「お久しぶりです」

 少女は頭を下げる。

「あのときはいきなりでびっくりした」

 家に入れてくれた彼は話し出す。

「一ノ瀬が跳ねられたのを、目の前でみたんだぜ」

 声を強めて言われたので思わず、「ごめんなさい」と謝った。

 事故の目撃者と会うなんて、思ってもいなかった。

「べつに、いいさ。元気になったんだからよかったよ。それに、あのときは競争してたわけじゃなかったよね」

「あのとき……」

「家が近くになってくると毎回、ペダルをこぐ足が速くなって、なんとなく競うようになっただけ。ちょっとした遊びだったよな」

「遊び……」

「そもそも、ゴールなんて決めてない。みんな住んでる家がバラバラで競いようがなかった。競争をしてたんじゃないんだ」

「してなかったんだ……」

 事故を覚えている人に言われたら、信じるしかない。

 でも、だったらどうして、競争したことになっているのかしらん。

「一ノ瀬は、オレたちの体力にかなわないから、いつも後ろだっただろ。でも、五月に入ってから変わったよな」

「変わった?」

 少女は眼鏡の彼に聞き返す。

「追いつけないのがよほど悔しかったのか、やけになってた気がする。ゆるい下り坂とはいえ、オレを抜くためにブレーキをかけなかっただろ。そうまでして一番を走りたかった?」

 小さく首を横に振った。聞かれてもわからない。

 眼鏡の彼は胸に手を当て、ホッとした顔をした。

「だったらあのころ、絶望することでもがあったんじゃないか」

「ゼツボウって?」

「つらいことがあって、どうにでもなれって思っていたから、事故ったんじゃないかな」

 答えられない少女はむしろ、なにがあったかを知りたかった。

「でも、いいときに来たよ。来週、引っ越すんだよ」

「ヒッコシ?」

「うん。正確には三日後。明日は片付けで忙しいし、遊べるのは今日だけなんだ」

 三十分ほどテレビゲームで遊んだあと、帰宅した。

 週明けの夕方。曇り空の下、少女は再びその家を訪ねた。

 表札は外され、空き家になっていた。

「引っ越しも、いなくなるって意味なんだ……」

 冷たい風が吹き抜ける中、少女はただ一人、開かない扉の前に立ち尽くしていた。

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