第八章 雪解け

 なにも聞こえない部屋はしずかで、どんどん暗くなっていく。

 窓から差し込む夕日がリビングを明るく照らしたとき、遠くから小さな音が聞こえた。

 空耳か。リビングはしずまり返っていた。でも音がした。かすかだけど、また聞こえた。

 じっ、と音のした方向に耳をすませる。

『彩ちゃん、遊びに来たよ』

 呼ぶ声は、うす暗い廊下の向こう、玄関の外から聞こえた。

 開かれた扉の先は、やけに明るく光に満ちている。

 その中に、人影がみえる。

 ――■■くんが来たんだ。

 駆け出して、外へと飛び出していく。突然、顔面が割れるほどの痛みに襲われ、その場に倒れ込んだ。意識は闇へと沈んでいった……。

 

 少女が目を覚ますと、ベッドの中だった。カーテンの隙間から朝日が差し込み、室内はうっすら明るい。深呼吸しようとしたら、苦しさに思わず口をあけた。

 顔をさわると、鼻になにかある。なんだろうと思ってみると、まるめられたティッシュが入っていた。しかも赤くにじんでいる。

「血がでたの?」

 あいさつもそこそこに、少女はキッチンにいる両親に声をかけた。台所からはコーヒーの香りが漂っている。

「昨日、たいへんだったんだよ」

「たいへんって?」

 少女は椅子に座り、お父さんに聞く。トースターからは、焼けたパンの香ばしい匂いが広がってきた。

「夜中に突然、ドンッと大きな音がしたんだ。泥棒かもしれないから、家中の電気をつけて、ひと部屋ずつ確かめたんだ」

 ドロボウってなんだろう。少女はトーストをかじる。

「すると、彩ちゃんが部屋の中で仰向けになって寝ていたんだ。窓は鍵がかかっていた。最初は、寝相が悪くてベッドから転げ落ちたのかと思ったけど、それはちがうと思い直した。なぜなら、大きな音だったし、彩ちゃんの鼻から血が出ていたから」

「泥棒だったの?」

「いや、泥棒じゃない。彩ちゃんは寝ぼけて、ドアもあけずにトイレにでも行こうとしてぶつかり、倒れたんだと思う」

 話を聞いて、洗面所に向かった。

 鏡に映る自分の鼻のまわりに、乾いた血がこべりついていた。洗おうと手のひらにすくったとき、水の冷たさに思わず肩をすくめる。顔を洗い終えると、鏡に水しぶきがかかっていた。

 自分の部屋のドアを見に行く。血が飛び散ったのだろう、白い扉に黒ずんだシミがついていた。

 昨日は晩ごはんを食べ、お風呂も入った気がするのに。いつ寝たのか、どんな夢をみていたのかさえ思い出せなかった。窓の外では小鳥のさえずりが聞こえ、新しい一日の始まりを告げていた。



 マフラーを巻いて家々を訪ねるうちに、気づけば隣町に来ていた。そもそも、町に境界があることさえ知らなかった。

 空は高く澄み渡り、すすきの穂がゆれている。大きな二階建ての家の前に来たとき、玄関先に自分と同じ背丈の子がいた。思わず「こんにちは」と声をかける。

 相手の子は目を大きく開き、だんだん細めていく。

 彼の様子から、自分を知らないことがわかった。いつもなら、だまっておじぎして次の家へ向かうのだけど、その子と目が合ってしまった。

「向こうから来たんだけど、よかったら一緒に遊ばない?」

 知らない子に誘われたら断るだろう。そう思って声をかけたら、相手の子は、にっこり笑って招き入れてくれた。

「はじめまして、よろしくね」

 その子には兄がいて、学校の友達も遊びに来ていた。

 家の一階は、たくさんの人が入れるほど、広い畳の部屋があった。暖かな日差しが窓を通して部屋をやわらかく照らしている。

 四人で部屋の中央に集まり、ボードゲームで遊んだ。

 少女は、みんなと大笑いした。

 はじめて会った人に、はじめましてが言えて少女はうれしかった。これまで出会ってきた人は、みんな知らない人だった。それなのに、久しぶりと声をかけられ、久しぶりと愛想笑いをしなくてはいけなかった。

 からかってくる子や、うそをついてくる子もいた。素直に信じたばかりに、嫌な思いをしたこともたくさんあった。記憶をなくしたおかげで、クラスメイトが自分より大人にみえるから、近づくのがいつも怖かった。

 その点、知らない人と話すのは楽だった。互いに相手がわからないから、ていねいな言葉で話しても変だと思われない。

 彼らの家を三回訪ねると、季節は冬を迎えていた。



「すてきなホワイトクリスマスイブになりそう」

 教室の掃除中、小宮山くんがホウキで床を掃きながら窓の外を見てつぶやいた。

 その声に、少女は思わず窓の外に目を向ける。曇り空から、なにかがふわふわと落ちてくる。

「ゴミ?」

 少女は窓に近づき、じっと見つめた。

 すると、小宮山くんはにっこり笑った。

「雪だよ」

 その言葉を聞いて、少女は「おっ」と声を出す。

 本で見たことがある! 空からふわりと落ちてくる白いものの名前だ。実際に見るのは、はじめて。掃除の時間だから、誰かがゴミをばらまいているのかと思ったけれど、これは本当に雪なんだ。

 少女は窓をあけて、そっと手を出す。冷たい風が入ってくるのを感じながら、落ちてきたひとひらの雪が指先にふれる。瞬間、すぐに溶けて水になった。まるで小さな涙みたい。

「もっと降ってほしいね」

 小宮山くんの言葉に、少女はうなずく。彼女の心は、まるで空に浮かぶ白いものと一緒に舞い上がるようだった。

「そうだね。クリスマスイブに雪が降ったら最高だよ」

 少女は小宮山くんに、クリスマスイブってどんな日なのかと尋ねようとした。けど、聞かなかった。雪が降る日は、きっと素敵なことが待っている気がしたから。


 

「ただいま。明日はクリスマスだよ」

 お父さんがチキンとクリスマスケーキを持って帰ってきた。

 小宮山くんが話していた「ホワイトクリスマスイブ」を思い出す。

 雪が降るとホワイトクリスマスと呼ぶのかな。でも、イブってなんだろう。クリスマスもわからないけど、おいしいものが食べられる日にちがいない。

 テーブルに置かれたのは、イチゴとクリームで飾られた大きなケーキ。赤白の人形と煙突のついた小さな家が飾られ、白いチョコには『メリー・クリスマス』と書かれてあった。

「子供用のシャンパンで乾杯しよう」

 ボトルを手にするお父さんに、お母さんが口をはさむ。

「彩は炭酸飲料、飲めませんよ。お医者さんが話してたじゃないですか。退院後も、炭酸飲料を控えてくださいって」

「そうだ、忘れてた。ごめんごめん」お父さんはニコリと笑う。

 炭酸飲料がわからない少女は、「大丈夫だよ。チキンとケーキを食べよう」と笑顔をみせた。

 翌朝。勉強机に、新しい参考書と問題集が置かれているのを見つけた。寝る前は、なにも置いてなかったのに。

 気になってお母さんにたずねると、「それがクリスマスプレゼント。復習と予習は大切だからね」といわれた。

 少女は夏休みと同じように、冬休みの宿題を終えてから、問題集に取り組むことにした。



 新年になると、お父さんが運転する車で、両親の実家へ出かけた。

 祖父母に会って、年始のあいさつをする。

「去年はご迷惑をおかけしました。おかげで元気になりました」と、お母さんに教えられた言葉をそえて頭を下げた。

 見舞いに訪れなかった親戚たちにも、あいさつをしてまわった。

 事故前の一ノ瀬彩について、なにか知っているかもしれない。期待して声をかけたが、年に二回しか会わないため、「彩ちゃんはおとなしい子だった」としか聞けなかった。


 年の終わりから降り出した雪は、登校日を迎えても降り続いていた。屋根や畑、道路でさえ真っ白。歩きなれた通学路も、知らない道へと変わった。歩けるようになった少女の足でさえ、簡単に転んだ。

 先を歩いた人の靴跡の上を進んでいくと、足元からギュッギュッと音がする。傘を持つ手の震えに気づき、ふっと息を吹き出す。口から白い煙が出るのがおもしろかった。

 帰りの会で永田先生が、「新年の大寒波は、大きなことが起こる前兆かもしれません」と話していたのを思い出す。

 雪のせいで通学はすでにたいへん。

 これ以上いらないのに。

 少女は白い煙をはきながら、音もなく落ちてくる雪の中を下校した。

 家に帰ると、「雪が溶けるまで、遊びに出かけてはダメだから。その分、家でしっかり勉強をするのよ」と、お母さんに止められた。少女は、きっとこれが前兆なんだとつぶやきながら、長靴と一緒に靴下を脱ぎ捨てた。

 降りつづいた雪は、二月に入ってやっと止んだ。でも、日当たりの悪い道路にはまだ残ったままだった。

 それでも隣町のあの子たちとまた遊べると思うとワクワクした。帰ってランドセルを置くとすぐ、彼らの家へ走った。

「どうして」

 少女は道を間違えたのかと思った。

 一本道なので、間違うはずもない。

 雪が溶けたように家はなくなり、更地となっていた。

 消えたことが信じられなかった。

 帰り道、水たまりに映る自分をみる。影は揺れ動き、冷たい風が吹き抜けていった。

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