第九章 将来って
「……さようなら」
玄関を出たとき、帰らないつもりで扉を閉めた。澄んだ空とあたたかい日差しの下、行く宛てもないまま歩く足は重かった。
事故以前の自分をみつけるため、家々を訪ねてきた。知っている人に会えても、すぐいなくなる。仲良くなれた友達も同じだった。
思い出すことはなにもない。知らない人たちの顔色をうかがいながら、知っているふりをするのは、もう嫌だった。
知らない場所へ行けば楽になれるかもしれない。そう思いながら街をさまよう迷子のように、人生の迷子になっていた。
歩いても歩いても、誰にも会わない。まるで世界が願いを聞き入れて、住人をどこかへ連れ去ってしまったみたいだ。静かな街並みの中で立ち止まり、少女は辺りを見回した。誰もいない風景に、どうしていいのかわからなくなる。
太陽の光が照りつける中、住宅街を歩いていると、のどが渇いてきた。ふと気づく、なにも持たずに家を出ていたことを。食べものや寝る場所はどうしよう。
生きたいと思っていなくても、体は生きようとする。どんなに空を見上げても、あの世から誰も迎えに来ない。夢を持ち、手に入れようとする人だけが前に進める。でも、記憶をなくした自分には、生きていく意味さえわからない。
ここではないどこかへ行こうとするのは、どこかへ行けば願いや希望があると思っているからだ。でも、自分がわからないまま知らない場所に行っても、願いがかなうはずもない。そもそも、事故前の自分がなにを願っていたのか思い出せないのに、なにを求めればいいのだろう。
立ち止まり、自分の手を見る。その小さな手には何も握られていない。どこへ行っても、わからないのは同じ。だったら、ごはんを食べて眠れる家があるだけまだマシかもしれない。
少女は考え直し、うつむきながら引き返した。
放課後。PTA役員をしているお母さんと一緒に訪れた病院は、定期検診を受けている病院とは違っていた。
黄色い帽子とランドセルを背負って病室に入ると、ベッドが四つ並んでいて、カーテンで区切られていた。
カーテンをあけると、年配の男性がベッドに寝ていた。誰だろう。
アルバムの集合写真でみた気がする、と思い出したときだった。
刈り上げ頭の男性は蒲団を払いのけて体を起こし、少女の手をつかむと、鼻水をたらしながら「おぉー、おぉー」と唸り声をあげて泣きだした。
あっけにとられていると、男性は手を離し、横になって大きないびきをかいて寝てしまった。
「教師だったころのことは、覚えているみたいです」白髪交じりの初老の女性が語りだす。「勤務中に倒れまして。診てもらうと、脳梗塞と診断されました。学校長まで勤めたのに」
お母さんは女性の手を両手でにぎった。
「道家さん、お気持ちを落とさないでくださいね」
病室を出て、「先月まで、元気に校長をされていたのに」と、お母さんのつぶやきが聞こえた。
「ノウコウソクってなに?」
「脳の血管がつまって流れなくなり、脳細胞が死んでしまう病気。傷んだ場所のせいで、体の自由がきかなくなったり、昔を忘れたりするの。教育熱心で、いい人だったんだけどね」
忘れた自分もいずれ、あんなふうになるのかな。
お母さんの後ろをついて歩く少女の足取りは、いつになく重かった。
お風呂から出た少女は、フリース生地のパジャマに着替え、リビングに敷かれた絨毯に座った。ふわふわのバスタオルで頭を軽く包み、水気をとっていく。
左足をぼんやりみていると、足首にアザがあるのに気がつく。
「彩ちゃん、どうしたんだい?」
よいしょっとつぶやきながら、お父さんが隣に腰を下ろした。
「へこんでる。なんだろう」
自分の左足首を父に見せる。
「それは、事故で骨折したあとだね」
「こっちも?」
くるぶしより下三センチ、かかとにある直径五ミリほどの火傷みたいな小さなアザを指さす。
「そっちは最初の病院で、左足を吊り下げたときの傷跡だよ」
「吊り下げる?」
少女は自分の足を見つめた。
「金属製のワイヤーをかかとに突き刺して、天井から吊り下げていたんだ。刺したところから血が垂れてて、野戦病院みたいだった。『こんなとこにいたら殺されてしまう』とお母さんがいったから、県立の大きな病院に移ったんだよ」
少女は指先でアザをなぞる。自分の体に起きたことなのに、まったく覚えていない事実を知って、風呂上がりなのに体が震える思いがした。
「ところで、余っているノートはないかな」
「ノート?」足をなでる手を止めて、父を見た。「部屋にある。でも、なにに使うの?」
「仕事で使いたいんだ。関連することをまとめようと思って」
「どうしてまとめるの?」
「まとめておけば、あとで確認するとき便利だからだよ」
そうかもしれない。少女はうなずいて、階段を上がった。
お父さんの部屋は、少女の部屋と同じ間取りだった。
南向きの室内には、木目調の書斎机とクローゼット、本棚と開き戸のついた収納家具が壁際にある。本棚には、たくさんの本が並んでいた。
部屋に入るのは二度目。用もないのに入ってはいけないと注意されてからは、一度も入っていなかった。
「お父さん。これでいい?」
新品の学習ノートを差し出す。
「上等だよ、ありがとう」
お父さんは、にこりと笑って机の上に置き、書類の入った茶封筒を持って収納家具の戸を開けた。
中には、封筒がぎっしりと詰まっていた。
「大事な書類だよ。勝手にさわってはいけないからね」
「金庫に入れる?」
「いや、入れないよ。お父さんの部屋には、用もないのに入ってはいけないと約束してもらってるから、勝手にあける人はいない。仕事でつかう資料もあるから、出しにくいと困るんだ」
「へえ、そうなんだね」
「勝手にあけちゃダメだよ」
お父さんに念を押され、
「わかった」
少女はうなずき、部屋を後にした。
春休みの日曜日。お母さんに頼まれた届けものをもって、マンションの北側にある、古い木造の沢村さんの家を訪ねた。
おばあさんに手提げ袋を渡すと、「ゆっくりしていきなさい」といわれ、おじゃますることにした。
靴を脱いで、急な階段を這うように上がった。
日当たりのいい南側の部屋には、黒塗りの家具が置かれていた。背もたれのない椅子と勉強机の椅子、それぞれに座る眼鏡をかけた二人の姉弟と目があう。彼らは同じ目をして微笑み、うれしそうに手を振りながら少女を迎え入れた。
「久しぶりね。元気してた?」
「お久しぶりです」
少女は、いつものように笑みを作ってあいさつをした。
姉は椅子に座りなおすと、黒塗りの家具のフタをあけた。
音楽室でみたことのある黒と白の鍵盤が現れる。彼女は両手をそっと乗せ、指先で鍵盤を押していった。
なめらかな指の動きとともに音が響いていく。その音色が広がるにつれて、少女は自分も何か弾いてみたいと思った。しかし、自分にはできないとわかっていたから、ただじっと見つめていた。
「音楽の先生みたい」
「春から音楽科の高校に通うんだ。一ノ瀬さんも、うちでピアノを習ってたけど、発表会前に事故にあって残念だったね」
姉弟に迎えられた少女は、出されたお茶を飲みながら話をきいた。
ピアノの先生を招いて練習していた姉のついでに、自分も習いに通っていたという。本当かしらん。
少女も椅子に座らせてもらい、鍵盤に両手をそっと乗せる。
親指から順番に音を鳴らしてみた。押したとおりに音がなる。
だけど、曲にならない。
「あらら。弾かないと、指が忘れちゃうよ」
彼女の言葉に、事故前に習っていたのはまちがいない、とはっきりした。思いかけず昔の話を聞けて、少女は気分がよくなる。
五年生からは、この辺りの家々を一軒ずつ訪ねようと心に決めた。
三月下旬。お母さんから「春から五年生。来年は六年生。中学なんてすぐだから、四月から塾に通うのよ」と言われた。すぐだと、どうして塾に行かなければならないのか、まったくわからなかった。
四月初めの月曜日。夕食後、お父さんの車に乗せられて、隣町の住宅地にある平屋の前に着いた。「ここが塾なの?」つぶやきながら車のドアを開けると、冷たい風に髪が乱れた。
学習塾の授業は、毎週月・水・金曜日の夕方七時から九時まで。学区外だから知りあいの子はいない、と聞いていた。習字の塾みたいかなと思いながらも、玄関先に置かれた自転車をよけて入る。
部屋は二つに分かれていた。一つの部屋には、黒板の前に横長のテーブルが置かれ、二十人ほどが座れる席が用意されていた。すでに座っている子たちは知り合いらしく、楽しそうに話している。彼らの笑い声が耳に入るたび、自分だけが孤立している気持ちになった。
床がところどころへこみ、歩くのに注意が必要だった。足元を見つめながら進み、あいている席に座る。
黒ジャージを着た若い先生の「黙らんかっ」は室内に響き渡り、思わず体がビクッと震えた。学校とはちがい、内容が先に進んでいて、たくさんの問題を解かせる教え方だった。むずかしそうだと感じながら、黒板に目を向けた。
入院中に勉強していた日々を思い出す。毎日通う必要がないのはいいけれど、内容は習っていないところばかりだ。まわりの子たちが次々と問題を解いていく。その様子を見ていると、自分だけ取り残されている気持ちになった。どうしてみんなは、そんなに簡単に解けるのだろう。問題を読み返しても、答えが浮かんでこない。
おどろいたことには、テスト問題の答えを先生にかくれて他の子と教えあっていた。少女は横目で見つめる。あんなことをしていいのだろうか。
あらためて気になったのは、室内の汚さだった。カーテンは黄ばんでいてほこりが積もり、長い間手入れされていない。ふすまは破れ、壁は黒ずんでシミが広がっている。チョークの粉は床にちらばり、ごちゃごちゃしていて誰も掃除する気がないかのようだった。ここは勉強する場所じゃない、どうしてこんなところに来なければならないのか、まったくわからなかった。
帰るとき、
「一ノ瀬さんも、通ってたのね」
聞き覚えのある声がして、振り返った。
「今日からだよ。武田さんも来てたんだ」
知っている顔を見て、肩の力がぬけた。少し安心しながら微笑み、ほっと息を吐く。
「ここはきびしくて、有名らしいよ」
「きびしさより、汚さで有名かも」
「そうかもね」彼女はふふっと笑い、カバンを自転車の前かごに入れた。「一ノ瀬さんは、自転車じゃないの?」
「車だよ」と答えたら、「遠いの?」さらに聞かれ、「近くはないけど、まだ乗れない」と話す。彼女に左足をみられた気がした。
「だいぶ歩けるようになったけど、脚力が弱くて」
「そうだったんだ。もうすっかり元気になったと思ってた」
「月二回の定期検診と、薬はまだ飲んでて」
「そっか」
彼女の声が低くなったのに気づき、話題を変えた。
「武田さんは勉強が得意だよね。塾に通わなくても」
「そんなことない。将来を考えたら、もっと勉強しないと。一ノ瀬さんも、がんばってるってきいてるよ」
「ま、まあ……うん」照れて答えると、
「今度は学校でね」
彼女は自転車に乗って、暗い夜道を帰っていった。
「将来って、なんだろう」
武田さんの言葉が頭の中で回り続けている。みんなはそれぞれ目標を持っていて、自分だけなにもわからず、決まっていない。どうしたらいいのだろう。
そのとき、車が近づいてくる音が聞こえ、少女は息を吐いた。
肩をすくめてゆっくりと車に近づき、助手席のドアを開ける。お父さんの横顔が見え、「おかえり」とやさしく微笑む。彼女は笑みを返し、「ただいま」と言って車に乗り込んだ。
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