第十章 はじめまして

「一ノ瀬さん、おはよう。これからもよろしくね」

 彼の笑顔は、春の日差しのようだった。

 さわやかな四月。地区会館前で、星﨑兄妹と出会った。

 新品のランドセルを背負う彼の妹の瞳は、星﨑くんに似ていた。

 新学期にあわせて登校する班の班替えが行われることは、お母さんから聞いて知っていた。今日から彼らと同じ班になる。

「おはよう。よろしくお願いします。でも、星﨑くんがどうして?」

 少女は立ちすくみ、両手を軽く握りしめた。

「どうしてって、同じ地区に住んでるから」

 近所の家を一軒ずつ訪ねていたことを思い出す。その中に、彼の家はなかったはずだ。

「どこに住んでるの?」

「すぐそこだよ」星﨑兄妹は指をさして教えてくれた。「ベージュの倉庫がみえる家だよ」

 先日、お母さんに用事を頼まれて訪ねた、沢村さんの家が建ち並んでいる辺りだった。

「近いね。『世間は狭い』って、こういうことかな」

 少女は小さく笑いながら、指先で頬をそっと撫でた。

「一ノ瀬さんって、変なこと聞くね」彼に顔をのぞかれる。「だって同じクラスだったでしょ」

「そうだけど、同じ地区だったなんて知らなくて」

 素直に答えながら両手を胸の前で軽く組み、肩をすくめる。

「はじめまして。星﨑歩美です。今日からお願いします」

 彼の前に立つ小さい子が頭を下げた。

 その姿に、少女の顔がほころんでいく。

「歩美さん、はじめまして。わたしは一ノ瀬彩です。こちらこそよろしくね」

 はじめて会う子に当たり前のあいさつができて、抱きしめてあげたくなる。

「星﨑くんに、かわいい妹さんがいたんだね」

「まあね。だけどコイツ、わがままで生意気だよ」

 歩美さんは背伸びをして、彼をにらみつける。

「生意気じゃないもん」

「そんな顔していると、眉間にシワができちゃうぞ」

「みろを見てるだけだもん」

 少女は歩美さんに抱きつかれ、思わず微笑んだ。

「みろって?」

 歩美さんの頭をなでながら聞いてみた。

「お兄ちゃんの名前。知らないの?」

 彼は照れた顔でうなずき、「ぼくの名前は星﨑海呂。漢字だと、『海』の『み』にお風呂の『ろ』って書くんだ」と教えてくれた。

 少女は思わず左上を向いた。はじめて彼の名前を聞いたはずなのに、小さな記憶がかすかによみがえる気がした。先月まで同じクラスだったから知っていてもおかしくない。話したこともある。でも、もっとちがうときに知った気がする。

 入院していたとき、クラスメイトの声をレコーダーで聞いていたときかもしれない。だけど、別のときだった気もする。

「どうしたの、一ノ瀬さん」

 話しかける彼に、ちょっとまってと答え、右手を額に当てる。ひんやりした手の冷たさが顔に広がり、頭がはっきりしていく。

「……作文だ」

 思わず口に手を当てた

「作文?」

 少女はゆっくり手を下ろし、彼にうなずく。

「クラスのみんなが書いた作文。その中に、校舎や校庭が描かれた作文があって、『みろ』って書いてあったの。作文を見てほしいと思って読んでたんだけど、星﨑くんの名前だったのね」

 少女は歩美さんに、教えてくれてありがとうと礼をいう。

「ほら、わたしは生意気じゃないでしょ」

 歩美さんは腰に手を当て、兄にむかって胸を張ってみせた。

「ぼくのヘタクソな絵を、一ノ瀬さんみたいにうまく描ける人に毎日みられてたなんて。はずかしいよ」

 星﨑兄妹と歩きながら少女は、「はじめまして」と、同じ班になった子たちともあいさつしていく。

 ただ一人、「お久しぶりです」ニコッと笑った年下の男子がいた。

 くりっとした目が、かがやいている。

「久しぶりだね。いつ以来かな」

 会った覚えはない。だとすると、事故以前に会った子。

 いつ、どこで、どう関わったのだろう。

「幼稚園のころですね。同じバスで通ってたころだから」

 彼の言葉をきいて、両手をぎゅっとにぎりしめる。同じ幼稚園……ひょっとしたら、わたしをいじめてた子? 胸の奥に冷たいものが広がり、彼の笑顔が疑わしく思えてくる。

「四年生、だよね?」

「そうです」

 男の子でも、学年が下だからちがうと自分にいい聞かせ、「大きくなったね。本当に久しぶり」口を少しあけて笑う。

「めちゃくちゃ久しぶりですよ」

 白い歯をみせて笑った彼の名前は、大川薫流。

 大川くんに、「誰?」といわなくてよかったと、心底思った。

 どこに住んでいるのかたずねると、「テニスコートより西です。昔、うちに来たじゃないですか」と返事。

 まだ訪ねていない場所だ。森川さんからは、おとなしかったと聞いている。そんなに遠くまで遊び歩いていたのかしらん。

 考えてもわかるわけもない。

 少女は大川くんの話を信じることにした。


「おはよー、彩ちゃん。一緒だね」

 五年三組の教室に入ると、森川さんが声をかけてくる。

 同じクラスになったんだ。少女は彼女に手を振り、教室を見渡した。

「ここだよ」

 森川さんが席を教えてくれた。

 机の上にランドセルを置いて、頭を下げる。

「森川さん、よろしくお願いします」

「堅苦しいあいさつを返さなくても」

「はじめのあいさつは大事かと」

「なるほど」森川さんは、「よろしくお願いするでごじゃる」と頭を下げた。

「ごじゃる?」

 少女は思わず聞き返す。

「ごじゃごじゃ」

 森川さんは手をあわせて、また頭を下げてくる。

 ひょっとして、昔からしてきたあいさつかな。少女はまねをして、「ごじゃごじゃ」と手をあわせて返した。

「すばらしいごじゃでした。それじゃあ、他の子にもあいさつしてくるね~」

 森川さんは後ろに束ねた髪を弾ませながら、駆けていった。

 ごじゃってなんだろう。気にしながらランドセルの中身を机の中に入れ、ロッカーに片付ける。

 あらためて教室を見渡すと、新しいクラスメイトの顔ぶれがそろってきた。四年生のとき、同じクラスだった星﨑くんや小宮山くんたち、数人には見覚えがある。

 でも、半数以上は知らない子。

 この春で五年生なのだから、クラス替えは数回あったはず。みんなにとって、知らない子がいないのは当たり前にちがいない。だとすると、一ノ瀬彩と仲が良かった子がいるかもしれない。

 黒板に貼られた席順表を見ると、知っている名前をみつけた。

「武田さんだ」

「菜月がいる」

 少女は、自分とほぼ同時に声を上げた隣の男子を見る。

 短い髪にくりくりした瞳、さっぱりした笑顔をしていた。

「おまえ、菜月の友達か?」

「はい。一ノ瀬彩といいます」

「オレは鈴本誠二。よろしくな」

 少女は彼の名前を頭の中でくり返す。はじめて聞く名前だった。彼が数人の男子が集まっている方へ行くと、少し寂しさが胸に広がる。

 友達といったけれど、自分が名乗ってよかったのかしらん。武田さんとは入学以来の友達。同じクラスになったのは一年ぶり。その間、彼女にはたくさんの友達ができたにちがいない。その子たちとの友情が大事なはず。

 彼女から離れるべきか。それとも、友達として声をかけるべきか。

 少女は自分の手のひらをじっと見る。なにも答えなど書かれていない。どうなりたいかは自分で決めればいい。

「わたしが、どうなりたいか……か」

 遠縁のおじさんからいわれた言葉をふと思い出す。

 心配してくれた彼女になにができるだろう。学級委員や児童会長になろうとするときは、力になろう。友達なら、当然だよね。

「久しぶり、武田さん。よろしくね」

「よろしくね、一ノ瀬さん」

 二人は手を差し出し、再会の握手をかわした。


 体育館で行われた始業式のとき。新しい校長の長井先生のあいさつが終わったあと、各クラス担任が紹介された。

 五年三組の担任は、長身で短髪の年配男性。坪内先生だと発表されたとき、「須田先生がよかった~」と数人の子から、ため息まじりのぼやきが聞こえた。少女はまわりを見渡し、まばたきした。

 休み時間。森川さんから「彩ちゃんも、須田先生がよかったんじゃない?」と声をかけられ、「どうして?」と聞き返す。

「だって一、二年生のとき、受け持ってもらっていたでしょ」

「誰が?」

「彩ちゃん」

 森川さんに指をさされる。

 少女はまばたきし、「そうだったね」あははと笑ってごまかした。

「でも、どうして森川さんが知ってるの?」

「隣のクラスから、『いいな~』ってみてたから。結婚されて、足立から名字が変わってて、気づかなかったんでしょ」

「あー、うん。そうそう」と、髪の毛をさわりながら慌ててうなずく。

「結婚されてから、産休に入られたからね」

「よく知ってるね。クラスはちがったんでしょ」

「勉強と関係ないことは、よく覚えてるんだよ」

 森川さんは、おほほほのほ~と、わざとらしい笑いをした。

 教えてくれる幼馴染がいてくれて助かる。

 お礼とばかりに、少女は森川さんの頭を軽く撫でてあげた。

 その後、トイレに行くために廊下に出たところで、くせっ毛のある須田先生に出会った。

「一ノ瀬さん、久しぶり。元気だった?」

「先生、お久しぶりです」

 ほほ笑んでみせる。

 この人が入学から二年間、担任だった人。なにか思い出さないかと大きく目を開けて、じっとみつめた。

「事故にあったと知らされたときは、もうびっくりしちゃって。何度もお見舞いにうかがったけど、もうすっかり元気ね。どっちの足を悪くしたんだったかな」

 あっ、と声が出そうになる。

 入院していたとき、永田先生と一緒に病室に来ていた先生だ。

「左足を骨折しました。でも治って、歩けるようになりました」

「そうなんだ。元気になってよかったね」

「先生も、お元気そうでなによりです」

 須田先生は大きく目を開いて、「しばらくみないうちに、すっかり大人になったね。よく泣いてた覚えがあるけど。みちがえちゃったよ」少女の頭を撫でた。

 須田先生のやさしい仕草に驚きつつ、くすぐったい気持ちになりながら、微笑み返した。

「もう五年生ですから。低学年のままではいられませんよ」

 胸を張って背伸びをした言葉をつかうと、

「そうだよね。それにしても子供の成長って早いな。あっという間に大きくなって」

 須田先生はうなずき、目を合わせて笑った。

 笑い返すと、「それじゃ、またね」と言い残し、階段を下りていく。少女は手を振って先生を見送った。

 昔を思い出せる再会をしてみたかったなぁ。ふっと息を吐き、軽く目を閉じると、思わず指で鼻の頭を軽く押さえる。左足が小刻みに動いていた。

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