第七話 あの日のままで
しばらく走った。一矢はすぐに追いついて来た。計算通りだ。
「マリィ」
「私より友達を取るのね」
「どっちを、という事じゃない。見解の相違があるようだけど、僕は二人とも信じてる」
涙を流し続けながら歩いた。もう少しだ。
「分かるけど。私、本当に怖いの」
見えた。
「あいつには僕から話すよ。だから、まずは落ち着いて」
「あの人のいないところへ行きたい」
「分かったよ。雨も強くなって来たし」
マリィは、古いビルの地下へと続く階段を下り始めた。
「どこへ行くんだ」
「昔、よく行ったバーがこの下にあるの」湿ったコンクリートの通路に看板は無い。「ここよ」
重いドアを開く。長い間、動いていなかった空気の匂いを感じた。
「真っ暗だね。やってないんじゃないか」
「潰れたのかしら」
「そのようだ」
「でも、ここならあの人は追ってこれないはず」
スマートフォンのライトを頼りに電灯のスイッチを入れた。すべてではないが、いくつかの照明は点いた。電気は来ている。いざという時のために用意しておいた隠れ家の一つだった。これでもう使えないが、しかたない。
「まあ、そうだね。誰も来ない場所で二人きり、というわけだ」
「そう、二人きり」
マリィはフロアの隅にあるピアノの
「一矢さん、落ち着いて聞いてね」
「どうしたの、急に」
一矢を真っ直ぐに見つめた。息を整える。
「あなたは狙われている」
「謎の組織に命を、か」
笑顔を広げて、一矢は指でピストルの真似をした。
「まじめに聞いて。あなたが盗作をした証拠を、ある組織が欲している。それは、今あなたが持っているイヤリングの中にある」
「録音でもしてたのか」
目を見開いた一矢は、自分の手の中にあるイヤリングを見つめた。
「その通りよ」
一矢は、一つ息をついた。
「なぜ僕を助けてくれるんだ」
「決まってるだろ、お前に惚れてるからだよ」店の奥から声が響いた。薄闇の中から壮一郎が現れた。「そいつの正体、今度こそ教えてやろうか」
「なぜあなたがここに」
マリィは壮一郎を睨みつけた。
「言っただろ、俺には強い味方がいる」
知られたくない。汚れてしまった自分の事を。一矢の中で眠る樋口優花の思い出は、そのままにしておきたかった。たくさんいたクラスメイトのうちの一人で、彼の曲を歌った事のあるふつうの女の子。それが一矢くんにとっての私。あの日のままの、私でいさせて。
マリィは壮一郎に向けて銃を構えた。ワルサー
「おいおい、物騒だな」
壮一郎が楽しそうに両手を上げた。
「一矢さん、心配しないで。あなたには危害を加えないから」マリィは唇の端に笑みを浮かべた。「ちょっとお酒でも飲まない? なんでもあるわよ」
「いや、やめておくよ。仕事中には飲まない主義なんだ」
一矢が手にした拳銃がマリィを狙っている。米軍海兵隊制式採用のシグ・ザウエルM18だ。
「……どういう事なの」
「僕は、君とは敵対関係にある組織で働いている。マリィ、君はハニートラップにかかって尻尾を出してしまったんだよ」
「せっかく夢が叶って作曲家になれたのに、どうしてそんな事をしているの?」
「作曲家なんて、ごく一部の者しか儲からないんだ。それにプロになると、本当に自分のやりたい音楽なんてできはしない。感性を捻じ曲げてでもオーダーに応じるのみ。現実を見て目が覚めた」
「悲しい事を言わないで」
「君にそれを言う資格は無いさ。女を切り売りして生きている。さあ、覚悟はいいか」
「どうして私が組織の人間だと分かったの?」
店の隅で影が動いた。小柄だ。少し背中が丸い。
「いろいろと力関係の調整が難しくてね。互いに生贄を一人ずつ出す事になったんですよ」ミカエルはゆっくりとした動作で懐から古びた銃を取り出して、照準を一矢に合わせた。ルガー
「まいったな。マリィ、最後に君の正体を教えてくれないか」銃を構えたまま、一矢が尋ねた。「さっき、なぜ僕を一矢くん、と呼んだんだ。そして、どうして僕の夢を知っている?」
「だから、教えてやるってば」
いつの間にか、壮一郎の手にも拳銃が握られていた。日本の警察官が使用しているSAKURA・M360Jの短い銃身が、ミカエルに向けられている。
「待て、壮一郎。マリィ自身の口から聞きたい」
マリィは油断なく銃を下ろした。静かに微笑みながらピアノの前に座る。埃っぽい空気の中に古いピアノの優しい音色が流れて、歌が満ちていった。
一矢の銃は微動だにしない。だが、目の端に微かに光るものがあった。
命の駆け引きが行われている中で、最後の歌声が地下室に漂い、薄闇に溶けていった。
あの日のままの、私でいさせて 宙灯花 @okitouka
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