第6話 冷たい雨

 あんなにも恋焦がれた男が今、自分の中にいる。それなのに、少しも気分の高揚はなかった。一矢かずやはベッドでも優しかった。そのことにマリィは苛立ちを覚えた。どうせなら乱暴に責め立ててほしかった。彼を失望の底に沈めようとしている女を痛めつけ、這いつくばらせて、それでも許さないでいじめ抜く。その権利が一矢かずやにはあるように思えた。しかし、一矢かずやはどこまでも一矢かずやだった。

「泣いてるのか」

「ごめんなさい」

「僕と、こういう関係にはなりたくなかったのかな」

「そうじゃない。ずっと、ずっとあなたの腕に抱かれたかった」

「出会ってから、まだそんなに経ってないじゃないか」

 優しい目で見つめながら、一矢かずやはマリィの髪をなでた。

「私にとっては、とてもとても長い時間なの」

 一矢かずや本人からの証言を得た。もちろん、録音してある。あとはそのデータをギターケースに投げ込むだけで、任務は完了する。

 しん、と冷たい夜の空気にパンプスの踵を響かせ、橋へと向かって歩いていく。ストリートミュージシャンの姿が見えた。鶏を絞め殺したような歌声が、風に乗って流れてくる。今夜も川の水は暗くてよく見えない。

 ふいに、電話が震えた。着信だ。その番号を知っているのは一矢かずやだけだ。ターゲットごとに番号は変える。だが、表示されているのは彼の名前ではなかった。未登録。ありえないことだ。

 かけ間違いだろう。放置した。だが、いつまでも鳴りやまない。まさかとは思うが、一矢かずやが誰かに教えたのかもしれない。出てみることにした。

『やあ、マリィ。久しぶりだな』

「どちらさまですか」

『つれないなあ。二階にかいだよ。壮一郎そういちろう

 壮一郎そういちろう一矢かずやは親友同士だ。マリィ・ゴットベルクという女が話題に上ることは、あり得る。

 おまえも知り合いなのか、一矢かずや。急に電話が繋がらなくなったんだ。番号、教えてくれよ。

 通常のミッションでは、そんなニアミスは発生しない。同時に親友同士のふたりがターゲットになったがために起こった事故だ。対応を間違えれば命取りになる。

「この番号はどこから入手したの」

『俺には強い味方がいるんだ』

 一矢かずやのことだろう。だが、確認しておくべきだ。

「誰?」

『誰でもいいじゃないか。簡単に手の内を明かすようじゃあ、CEOは務まらないよ。おまえになら分かるだろ』

 やはりこの男、油断ならない。高校生の頃とは違う。

「いいじゃない、教えてよ」

『そうだな。一矢かずやじゃない、とだけは言っておくよ』

 バカな。ほかに番号が漏れる可能性は考えられない。ふつうの探偵に調査できるような緩いセキュリティなら、組織はとっくに壊滅している。

『電話じゃなくてさ、直接話したいんだ。返して欲しいものもあるしな』

 マリィは空を仰ぎ見た。重い色に染まりつつあった。

「今、どこにいるの」

『振り返ってみろ』

 顔がニヤついているのがはっきりと分かる距離だ。近づいてくる。マリィは電話を切った。

「大切なデータを無防備に放置すると思うか。あれはダミーだよ」

 嘘だ。本部の方で解析が行われ、本物だという結論が出ている。

「それに、コピーされたら分かるように仕掛けがしてあるんだ。IT社長を舐めるなよ」

 それは本当かもしれない。だとしても、データさえ取ってしまえば問題ない。今さらなにをしたところで、壮一郎そういちろうの会社はおしまいだ。

「なんのことだか分からないけど。私と遊んでていいの。仕事が忙しいんでしょう?」

「忙しいねえ、お陰さまで。でも、切り札というのはな、一枚とは限らないんだ。残念だったな」

 そのとき、壮一郎そういちろうのうしろに人影が見えた。

「なんだ、おまえたち知り合いだったのか」

 一矢かずやだ。世間は狭いなあ、と笑いながら近づいてくる。

「どうしたの? 一矢かずやさん」

「忘れものだよ」

 一矢かずやは自分の耳を触った。マリィは、唇の端が歪むのを止められなかった。

 マリィのイヤリングには録音装置が仕込んである。それは今、一矢かずやの手の中にあった。考えられないミスだ。どれだけ動揺していたからといって、許されるものではない。

 内心の焦りをよそに、マリィは笑顔で手を差し出した。

「ありがとう、一矢かずやさん」

「ちょっと待て」

 壮一郎そういちろうが、マリィと一矢かずやの間に割り込んだ。小さな水滴が、ぽつり、ぽつりと顔にかかり始めていた。

一矢かずや、それを渡してしまっていいのか」

「どういうことだ、壮一郎そういちろう

「こいつの正体を教えてやろうか。びっくりするぞ」

「正体、ってなんだよ」

「聞いて驚け。おまえも知ってる女だよ」

 やはり勘づかれていたのか。二階にかい壮一郎そういちろう、なぜ私の邪魔をする。

「マリィ・ゴットベルクだろ」

「それはお仕事用の名前だ。ペンネームみたいなものだ。そうだろ、ゆ――」

一矢かずやくん!」とっさにマリィは叫んだ。「助けて」

「なんだ、どうしたの?」

「私、この人につけまわされてるの。ストーカーよ。今も、脅迫されてたの」

 一矢かずや壮一郎そういちろうに向き直った。そして、笑顔を見せた。

「おまえ、なにしたんだよ。ずいぶん嫌われたな」マリィに視線を戻す。「こいつはね、誤解されやすいけど悪い人間じゃないよ。きっとなにかの間違いだ」

 冷たい雨が、同級生だった三人を濡らしていく。

「酷い」

 マリィは涙を流して見せた。そのぐらいは簡単だ。そして、走った。

「おい、待てよ、マリィ」

 マリィはちらりと振り返り、一矢かずやが自分のあとを追って来るのを確かめた。よし、うまくいった。しかしそのとき、壮一郎そういちろうが楽しそうに笑っているのが同時に見えた。

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