第6話 冷たい雨
あんなにも恋焦がれた男が今、自分の中にいる。それなのに、少しも気分の高揚はなかった。
「泣いてるのか」
「ごめんなさい」
「僕と、こういう関係にはなりたくなかったのかな」
「そうじゃない。ずっと、ずっとあなたの腕に抱かれたかった」
「出会ってから、まだそんなに経ってないじゃないか」
優しい目で見つめながら、
「私にとっては、とてもとても長い時間なの」
しん、と冷たい夜の空気にパンプスの踵を響かせ、橋へと向かって歩いていく。ストリートミュージシャンの姿が見えた。鶏を絞め殺したような歌声が、風に乗って流れてくる。今夜も川の水は暗くてよく見えない。
ふいに、電話が震えた。着信だ。その番号を知っているのは
かけ間違いだろう。放置した。だが、いつまでも鳴りやまない。まさかとは思うが、
『やあ、マリィ。久しぶりだな』
「どちらさまですか」
『つれないなあ。
おまえも知り合いなのか、
通常のミッションでは、そんなニアミスは発生しない。同時に親友同士のふたりがターゲットになったがために起こった事故だ。対応を間違えれば命取りになる。
「この番号はどこから入手したの」
『俺には強い味方がいるんだ』
「誰?」
『誰でもいいじゃないか。簡単に手の内を明かすようじゃあ、CEOは務まらないよ。おまえになら分かるだろ』
やはりこの男、油断ならない。高校生の頃とは違う。
「いいじゃない、教えてよ」
『そうだな。
バカな。ほかに番号が漏れる可能性は考えられない。ふつうの探偵に調査できるような緩いセキュリティなら、組織はとっくに壊滅している。
『電話じゃなくてさ、直接話したいんだ。返して欲しいものもあるしな』
マリィは空を仰ぎ見た。重い色に染まりつつあった。
「今、どこにいるの」
『振り返ってみろ』
顔がニヤついているのがはっきりと分かる距離だ。近づいてくる。マリィは電話を切った。
「大切なデータを無防備に放置すると思うか。あれはダミーだよ」
嘘だ。本部の方で解析が行われ、本物だという結論が出ている。
「それに、コピーされたら分かるように仕掛けがしてあるんだ。IT社長を舐めるなよ」
それは本当かもしれない。だとしても、データさえ取ってしまえば問題ない。今さらなにをしたところで、
「なんのことだか分からないけど。私と遊んでていいの。仕事が忙しいんでしょう?」
「忙しいねえ、お陰さまで。でも、切り札というのはな、一枚とは限らないんだ。残念だったな」
そのとき、
「なんだ、おまえたち知り合いだったのか」
「どうしたの?
「忘れものだよ」
マリィのイヤリングには録音装置が仕込んである。それは今、
内心の焦りをよそに、マリィは笑顔で手を差し出した。
「ありがとう、
「ちょっと待て」
「
「どういうことだ、
「こいつの正体を教えてやろうか。びっくりするぞ」
「正体、ってなんだよ」
「聞いて驚け。おまえも知ってる女だよ」
やはり勘づかれていたのか。
「マリィ・ゴットベルクだろ」
「それはお仕事用の名前だ。ペンネームみたいなものだ。そうだろ、ゆ――」
「
「なんだ、どうしたの?」
「私、この人につけまわされてるの。ストーカーよ。今も、脅迫されてたの」
「おまえ、なにしたんだよ。ずいぶん嫌われたな」マリィに視線を戻す。「こいつはね、誤解されやすいけど悪い人間じゃないよ。きっとなにかの間違いだ」
冷たい雨が、同級生だった三人を濡らしていく。
「酷い」
マリィは涙を流して見せた。そのぐらいは簡単だ。そして、走った。
「おい、待てよ、マリィ」
マリィはちらりと振り返り、
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