第3話 白いハンカチ

 艶やかに長い黒髪を肩に遊ばせている。メイクはナチュラルで控えめだ。上品な水色のワンピースに白いベルトとパンプスを合わせた。

 穏やかな休日の午後。人気のカフェでカウンターに座っている一矢かずやの周りには、空いている席がなかった。ふいに、彼の隣にいた男が立ち上がった。それはもちろん、組織が人を使ってマリィのためにキープしておいたものだ。

「こんにちは。お隣、よろしいですか」

「ええ、もちろん」

 顔を上げた一矢かずやは、あの頃のままの柔らかな笑顔を向けてきた。内心では平静でいられなかったが、マリィは涼しい顔で着席してハーブティーを注文した。

 運ばれてきた紅茶を手に取ろうとして、マリィはカップを倒してしまった。演技ではない。緊張が手の動きに出てしまったのだ。失態だった。十分に訓練と実績を積んできた彼女には、ありえないミスだ。

「ごめんなさい、なんてことを」

 一矢かずやがカウンターに置いていた楽譜に、薄茶色の液体が染みていく。マリィは心から青ざめた。

「大丈夫ですよ。これはチェック用のコピーだから。データはパソコンに入っているので、いくらでもプリントできます」

「それにしたって、大切な曲なんでしょう? それを汚してしまうなんて」

「曲は大切です。でも、音楽は紙じゃなくて心にある。だから、汚れてなんかいない。問題ありませんよ、気にしないで下さい」

 目の奥が痛み、瞳が揺れた。一矢かずやの優しさが沁みた。この人は変わっていない。それなのに私は。

「しょうがないなあ」

 一矢かずやは笑いながら、白いハンカチを取り出してマリィに渡した。新品にしか見えないぐらいに丁寧に洗濯されている。組織が徹底的にリサーチした情報によれば、彼の周りに女の影はない。それなのに白いハンカチに嫉妬している自分に、マリィは驚いた。

「楽譜が読めるんですか」

 遠慮がちに一矢かずやが尋ねた。

「どうしてですか」

 ハンカチで目を押さえながら、マリィは顔を上げた。

「席に着いたときの視線の動きがね、音符をなぞっていたから」

「よく見てらっしゃいますね。もしかして、音楽のプロの方ですか」

「ええ、まあ。作曲家です」

 一矢かずやは自分の作品をいくつか挙げた。誰もが知る曲ばかりだった。

「すごいじゃないですか。有名人なんですね」

「有名じゃありませんよ。だって、僕を知らなかったでしょう? 作曲家なんて、ふだんは表に出ないから。そういうのは歌手に任せてある」

 肩をすくめて見せながら、一矢かずやはマリィを見つめた。

「あなたも音楽を?」

「ええ、ピアノと歌を」

 予定していたキャラクター設定とは違うことを言ってしまった。しかし、いったん口から出た言葉は戻せない。

「お仕事で?」

「いえいえ、そんな。趣味の域を出ないものですよ」

 音楽の話がひととおり続いた。本当にやっていたので、ボロは出なかったはずだ。

「おっと、打ち合わせに行かなきゃ」

 一矢かずやが、腕にはめた時計を見つめた。

「お時間を取ってしまって、すみません」

「とんでもない。すごく楽しかった。あの、もしよかったら、なんですが」一矢かずやは少し、ためらう様子を見せた。「またお会いできませんか」

 嬉しかった。しかしそれと同時に、暗い思いが腹の底に落ちていくのを感じた。マリィは今、一矢かずやを陥れようとしているのだ。盗作の情報が真実で、それをマリィが暴いたなら。彼は作曲家としての地位を失うだろう。それは、若いころからずっと夢に見てきたものなのに。


 花瓶の花を入れ替えて、少しだけ窓を開いた。

「今日は日差しが柔らかで暖かいですよ」

 マリィが振り返ると、ベッドの上で体を起こした初老の男が、彼女を見つめていた。

「いつもすみません。いくら優花ゆうかのお友達だからって、しょっちゅう、お見舞いに来ていただいて」

 マリィは父の顔をまっすぐに見ることができなかった。彼の娘はもういない。マリィ・ゴットベルクとして生まれ変わり、無邪気に表通りを歩けない仕事をしている。

優花ゆうかさんに頼まれましたから。私が仕事でドイツに行っている間、父のことをたのみます、って」

 優花ゆうかは外資系商社で働いていることになっている。

「それにしたって。他人の私にこんなにもよくしてくださるなんて」

「どういたしまして」

「こんなことを言うと笑われるかもしれませんが。あなたを、本当の娘みたいに思ってしまうときがあるんですよ」

 胸になにかがつかえたような気がして、マリィは一瞬、言葉が出なかった。

「そう思っていただけると嬉しいです。私も――本当の父のように感じます」

「ありがとう」

 父は小さく咳込んだ。

「ゆっくりお休みください。また来ます」

 マリィは父に背を向けて、唇を震わせながら病院を出た。

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