第3話 白いハンカチ
艶やかに長い黒髪を肩に遊ばせている。メイクはナチュラルで控えめだ。上品な水色のワンピースに白いベルトとパンプスを合わせた。
穏やかな休日の午後。人気のカフェでカウンターに座っている
「こんにちは。お隣、よろしいですか」
「ええ、もちろん」
顔を上げた
運ばれてきた紅茶を手に取ろうとして、マリィはカップを倒してしまった。演技ではない。緊張が手の動きに出てしまったのだ。失態だった。十分に訓練と実績を積んできた彼女には、ありえないミスだ。
「ごめんなさい、なんてことを」
「大丈夫ですよ。これはチェック用のコピーだから。データはパソコンに入っているので、いくらでもプリントできます」
「それにしたって、大切な曲なんでしょう? それを汚してしまうなんて」
「曲は大切です。でも、音楽は紙じゃなくて心にある。だから、汚れてなんかいない。問題ありませんよ、気にしないで下さい」
目の奥が痛み、瞳が揺れた。
「しょうがないなあ」
「楽譜が読めるんですか」
遠慮がちに
「どうしてですか」
ハンカチで目を押さえながら、マリィは顔を上げた。
「席に着いたときの視線の動きがね、音符をなぞっていたから」
「よく見てらっしゃいますね。もしかして、音楽のプロの方ですか」
「ええ、まあ。作曲家です」
「すごいじゃないですか。有名人なんですね」
「有名じゃありませんよ。だって、僕を知らなかったでしょう? 作曲家なんて、ふだんは表に出ないから。そういうのは歌手に任せてある」
肩をすくめて見せながら、
「あなたも音楽を?」
「ええ、ピアノと歌を」
予定していたキャラクター設定とは違うことを言ってしまった。しかし、いったん口から出た言葉は戻せない。
「お仕事で?」
「いえいえ、そんな。趣味の域を出ないものですよ」
音楽の話がひととおり続いた。本当にやっていたので、ボロは出なかったはずだ。
「おっと、打ち合わせに行かなきゃ」
「お時間を取ってしまって、すみません」
「とんでもない。すごく楽しかった。あの、もしよかったら、なんですが」
嬉しかった。しかしそれと同時に、暗い思いが腹の底に落ちていくのを感じた。マリィは今、
花瓶の花を入れ替えて、少しだけ窓を開いた。
「今日は日差しが柔らかで暖かいですよ」
マリィが振り返ると、ベッドの上で体を起こした初老の男が、彼女を見つめていた。
「いつもすみません。いくら
マリィは父の顔をまっすぐに見ることができなかった。彼の娘はもういない。マリィ・ゴットベルクとして生まれ変わり、無邪気に表通りを歩けない仕事をしている。
「
「それにしたって。他人の私にこんなにもよくしてくださるなんて」
「どういたしまして」
「こんなことを言うと笑われるかもしれませんが。あなたを、本当の娘みたいに思ってしまうときがあるんですよ」
胸になにかがつかえたような気がして、マリィは一瞬、言葉が出なかった。
「そう思っていただけると嬉しいです。私も――本当の父のように感じます」
「ありがとう」
父は小さく咳込んだ。
「ゆっくりお休みください。また来ます」
マリィは父に背を向けて、唇を震わせながら病院を出た。
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