第二話 初めての
若者が洪水のように溢れ、流れる街。
白いスニーカーを履き、ジーンズとトレーナーの上にダウンジャケットを羽織ったマリィは、路上に座って自作CDを売る青年に近づいた。
「今日のパリの天気はどうかしら」
青年が顔を上げた。
「さあね。クラゲでも降ってるんじゃないか」
「何かいいものはある?」
「グレゴリオ聖歌なんていかが」
「もっと古いものがいいわ」
「悪いね、新しいのしか無いんだ」青年はCDの山から一枚を引き抜いた。「今日はサービスにしておくよ」
受け取って小さなリュックにしまい、マリィはあとをも見ずに歩き始めた。
自宅の一つに入った。同じ家に長く留まるのは危険だ。内側から鍵を二重に掛けた。
CDケースを開いた。ディスクに用は無い。プラスチックの白いトレーを捲り上げる。中から出て来た小型メモリを摘まみ上げてノートPCに読み込ませた。スタンドアローンだ。ネットに繋がっているとハッキングされる怖れがある。何重ものセキュリティを経て一つのファイルに辿り着いた。やり方はいくつかあるが、だいたいこんなふうに指示書を入手して仕事にかかる。いつもの流れだ。
今度、私の餌食になるのは、どんなまぬけな男だろう。
マリィは気だるい思いと共にダブルクリックした。
愕然とした。手が震えて、目を見開いたまま動けなくなった。
高校二年生の秋だった。
昼休みに窓から外を眺めていると、隣に気配が立った。
ねえ、樋口さん。
クラスメートの小川
お願いがあるんだけど。
一矢に優しい目で見つめられて、優花の心臓が跳ねた。
何。
冷静を装って尋ねた。
今度、音楽の授業で自作の曲をみんな発表するよね。
うん、そうだね。
歌を作ったんだ。樋口さんにピアノで弾き語りしてもらえないかと思って。
自分でやらないの? 小川くん、音楽は得意でしょ。
どうしても君に歌ってもらいたいんだ。
なんで私なの。
クラスで一番ピアノが上手だ。それに。
一矢は身を乗り出した。
その声だよ。樋口さんの声のイメージで作曲したんだ。だから。頼めないかな。
一矢の澄んだ瞳から目を伏せて、優花は頷いた。
別にいいけど。
楽譜を手渡される時、指先が触れ合った。それだけで優花は頬が熱くなるのを感じた。
簡単な曲ではなかった。たしかに、それなりの腕前でなければ弾きこなせないし、歌えないだろう。でも、優花は自分ならやれるという自信があった。いや、やりたいと思った。
歌のパートには、緑の
さっそくだけど。樋口さん、今度の日曜日、都合はどう。
空いてるよ。
うちで聴かせてくれないかな。
いいよ。気が向いたら練習しとく。
日曜日はなかなか来なかった。
男の子の部屋に入るのは初めてだった。アップライトピアノが部屋の隅に置いてある。優花の家にあるものより小さかった。知らないメーカーのロゴが入っていた。
これ、どこのピアノなの?
東欧製らしいよ。おじいちゃんが楽器の貿易をしている人でね、僕のために輸入してくれたんだ。
優しいデザインだね。
優花は、自然の木目が生かされた蓋をなでた。
ねえ、樋口さん。
何。
僕は作曲家になろうと思ってる。この曲がね、人前で演奏される、僕の初めての曲なんだ。
それは責任重大だね。
さりげなくピアノの前に座り、優花は序奏を弾き始めた。最初の一声を出したところで一矢の口元に笑みが広がるのが見えた。
ずいぶん練習してくれたんだね。
そうでもないよ。
ほとんど言う事は無い。でも、そうだな、例えば。
肩が触れ合う距離で、二人で楽譜を覗き込んだ。息のかかりそうなほどの近さに一矢の笑顔がある。初めて知る匂いがした。少し、ぼんやりしてしまったかもしれない。
――という事なんだけど、どうかな。
ごめん、もう一回、いい?
気づけば窓の外が暗くなり始めていた。
練習を重ねるうちに、二人は打ち解けていった。しかし、本番までの一ヵ月はすぐにすぎてしまった。
階段状に段差のつけられた音楽室。五線の引かれた黒板の前には、鏡のように艶のあるグランドピアノが置かれている。優花は椅子の高さを調節し、金色に輝くペダルの位置を確かめた。音楽教師に向かって頷く。教室中の目が、耳が、優花の指先に集中した。
膝が震えていた。でも心は静かだった。最初の鍵盤が沈み込み、フェルトのハンマーが優しく弦を震わせた。いける。優花は確信した。序奏が進んでいく。大きく息を吸い込んだ。頭の中に描いたイメージのままに声を出した。近くで様子を見ていた一矢が静かに息を吐く気配を感じた。優花の歌は、音楽室の空気に悠々と響いた。
最後の歌声が防音用の穴だらけの壁に吸い込まれた時、一矢はいちばん大きな拍手をした。
それ以降、一矢と話す事はほとんどなかった。
三年生になった。
教室のドアの前に、一矢が立った。彼は別のクラスだが、優花のクラスメイトの
その頃優花は、壮一郎とよく話すようになっていた。特別に気が合った、というわけではない。壮一郎と親しくしておけば一矢の近くにいられるかもしれない、そう思っただけだ。
しかし壮一郎は誤解していたようだ。ある日、自宅に招かれた。家の人は誰もいない。ずっと好きだったと告げられた。何も言えないで俯いている優花の胸のボタンに壮一郎の指がかかった。
涙を流している優花を見て、俺じゃ嫌なのか、と壮一郎は尋ねた。そうじゃない、と答えた。一矢の事は、もう諦めようと思っていた。壮一郎は嫌いではなかった。
されるままにベッドに横たわった。目を閉じて、何も考えないようにした。瞼の裏で一矢が笑っていた。彼の曲が自分の声で聴こえて来る。一矢の笑顔が透き通り、歌は空気を震わせる力を失った。
壮一郎は肩で息をしながら呟いた。
お前、
「この仕事、断れませんか、ミカエル」
「どうしたマリィ。珍しい事を言うね。デビューして以来、一度も拒んだ事が無いのに」
「昔の知り合いなんです。もしもバレたらまずいでしょう?」
「大丈夫だよ。今の君は樋口優花じゃない。マリィ・ゴットベルクそのものだ。ちょうどいいじゃないですか、腕試しだ。騙し切ってみなさい」
一矢は夢を叶えて作曲家になっていた。任務の内容は、一矢の作った曲が盗作である証拠を掴め、というものだった。本人の口を割らせるのが早くて確実だ。そこでマリィの出番となった。
本当にあの一矢くんが盗作などしたのだろうか。マリィは疑問に思った。それを確かめたいという気持ちもあり、仕事を受ける事にした。
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