あの日のままの、私でいさせて

宙灯花

第1話 マリィ

 木製の重いドアを引くと、気だるい煙草の匂いが溢れてきた。

 柔らかなスポットライトの光だけに照らされた店内は、秘密めかしたように薄暗い。

 マリィは目を馴染ませるのを装い、フロアへと下りる階段の踊り場に立った。

 巨大なグランドピアノが、まるで店のあるじであるかのように中央に設置されている。袖なしの青いドレスを着た若い女が夜想曲を弾いていた。白と黒の音が紫煙しえんの中で絡まり合いながら漂い、やがて溶けていく。

 目が合った。男が自分を認識したのを確認すると、マリィは細く尖った赤いヒールで鉄の階段を鳴らしながら、地下の世界へと入っていった。

 優雅な曲線を描くピアノの周囲にカウンターがしつらえられている。男はピアノに指を走らせる女の、左の横顔を眺める位置でスツールに腰かけていた。

 男の隣にいた客が席を立ったのと入れ替わりに、マリィは座った。黒ビールを注文して足を組む。膝上丈の深紅のスカートから伸びているのは、なめらかに白い素足だ。血のように鮮やかな唇に細長い煙草を挟むと、横から男の手が伸びてきて火をつけた。

「どこかでお会いしませんでしたか」

 男が遠慮がちに声をかけてきた。上質なスーツをきちんと着こなしている。薄くなり始めた頭頂までしっかりと櫛がとおり、ていねいに手入れのされた髭には威厳があった。

「ええ、お会いしましたよ。たった今」

 マリィは運ばれてきたグラスを掲げ、ひと口、喉に流し込んだ。男の顔に笑みが浮かぶ。

「黒ビールがお好きなんですか」

「ドイツ人なもので」

 唇に舌を這わせ、泡を舐めとった。その口元を見つめながら、男は言葉を継いだ。

「確かにエキゾチックな雰囲気をお持ちだ。でも、それにしては日本語がお上手ですね」

「日系なんですよ。日本に住んでいたこともあります」

「なるほど、そうでしたか」

 ふたりの会話は、酒と共に進んで行く。


 母が男に貢ぎ、とんでもない借金を残して失踪した。父は廃人のようになってしまった。大学を出て就職したばかりの樋口ひぐち優花ゆうかに、たいした収入はない。それなのに取り立ては容赦なかった。

 返すあてはない。優花ゆうかは、彼女を最初に抱いた男の言葉を思い出した。

 おまえ、銘器めいきだな。

 銘器めいき、か。優花ゆうかは、ひとつ息をついた。やはり、女を使うしか手っ取り早く大金を掴むことはできないのだろうか。

 ネットで調べた番号に、震える指先で電話をかけた。

 テストは一発で合格だった。君なら人気者になれるよ。マネジャーは上機嫌でそう言った。

 新しい仕事が始まった。マネジャーの言ったとおり、とんでもないリピート率をたたき出した。二週間も経たないうちにナンバーワンになった。少しでも条件の良い店を求めて渡り歩いた。そのたびに収入は増えていく。それでも、借金はまだ残っていた。

 あるとき、風変わりな客を受けた。

 髪と髭に白いものが混じっている。やや小柄だ。少し背中を丸める癖がある。鼻が高く、西洋人のような風貌をしているが、日本人に見えなくもなかった。しかし、香水、あるいは体臭が、嗅ぎなれたものとは違っていた。

 ひととおりの仕事が終わったあと、ミカエルと名乗った男は急にドイツ語で話しかけてきた。優花ゆうかもドイツ語で返した。

 おや、ドイツ語が堪能ですね、お嬢さん。

 ありがとうございます。大学でドイツ語を専攻しましたので。

 君は素晴らしいものを持っている。どうだろう、その才能をもっと活かしてみませんか。男に恨みがあるんでしょう?

 どうして分かるんですか。思わずそう尋ねた優花ゆうかに、ミカエルは静かに答えた。それが僕の仕事だからね、と。

 報酬は破格だった。もちろん、なんの疑いも抱かなかったわけではないけれど、優花ゆうかはすぐに店の仕事を辞めてミカエルのもとへ向かった。

 顔を変えた。名も変えた。日系ドイツ人、マリィ・ゴットベルクとなった。訓練は厳しかったが耐え抜いた。耐えるほかに、できることはなかった。

 ハニートラップ。それが彼女に与えられた新しい人生だった。女の武器で要人に近づいて機密情報を聞き出す。データを盗み公金に手をつけさせて、ときにはトラブルを仕掛け失脚させる。

 顔や体は、整形でなんとかなるんです。でもね、女の最も特徴的な部分に関しては、整形ではどうにもならない。きわめて繊細なものだから、騙せない。偽物はすぐに勘づかれる。その点、君は最高の天然ものなんだ。申し分ない素材なんですよ。

 ミカエルの言葉に誇張はなかった。


「今日はとっても気分がいいわ」

 二杯目の黒ビールを空にして、マリィは微笑んだ。

「それはよかった。いいことがあったのかな」

「あなたに会えた」

 マリィは男をまっすぐに見つめた。潤んだ瞳が揺れている。

「提案があるんだが、聞いてくれるか」

 男の顔は真剣だ。

「ええ、もちろんよ」

 足を組み替えて、マリィは少しだけ身を乗り出した。開いた胸元から白い谷間が顔を出す。

「どうだろう、ホテルの部屋で、ふたりで飲みなおさないか」

 二時間後、マリィは橋の上を歩いていた。川の水は暗くてよく見えない。コートの襟をかき合わせ、頼りない街灯のもと、荒れた路面に赤いヒールを響かせた。

 ストリートミュージシャンが、どこかで聴いたふうなオリジナルソングを、首を絞めたような声で歌っている。知らない誰かの失恋が闇に浮かんで溶けていく。ほかに人通りはない。マリィはイヤリングを片方はずして、ギターケースに投げ入れた。ミュージシャンは目を合わさずに軽く会釈をして歌い続けた。

 任務、完了。

 そう呟いて、マリィは白い息を吐いた。

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