相談人の男

青いひつじ

第1話

『どうして妻が出て行ったのか分からないんです』


相談人の男は、机に両手をつき、興奮した様子でそう言った。


「まぁ、少し落ち着いてください。さぁ座って。奥さんが出て行かれたのはいつ頃ですか」


私は男の右肩に手を置いた。男は、革張りのソファーにドスンと崩れるように腰掛けると、外の雨のようにぽつぽつと話し始めた。


『出て行ったのは、1ヶ月前。‥‥その前日、私が彼女の誕生日を忘れて、ケーキも、何も買わずに家に帰ると、暗い部屋の中、妻がソファに座っていました。そして彼女は立ち上がり、突然泣き出したのです。私が声をかけても、妻は泣き続けました』


「そのまま、奥さんは出て行かれた」


『‥‥いいえ』


男は首を振り、一点を見つめながらそう答えると、言葉を続けた。


『次の日の朝、一階に降りると、妻はいつもと変わらない様子でした。私は安心し、8時に家を出て、通勤の電車の中で、昨日が妻の誕生日だったことを思い出したんです。私は、電車を降りて妻に電話しました。誕生日を忘れてごめん、と』


「奥さんは許してくれましたか?」


『少し沈黙して、それから、大丈夫よと答えたんです。しかし、ケーキを買って家に帰ると、妻の姿はありませんでした。いつか機嫌を戻して帰ってくるだろうと考えていましたが、気づけばもう1ヶ月が経ってしまいました』


「なるほど‥‥。これまでになにか前兆となるような出来事はありましたか?例えば、喧嘩が続いていたとか」


私の問いに、男はカクンと首をうなだれ、しばらくその態勢のままだった。


『‥‥いいえ。私たち夫婦は結婚して10年になりますが、これまで、喧嘩という喧嘩はほとんどありませんでした。というのも、妻は理解のある人間ですし、基本的には私から謝っていましたので』


「ほぉ、謝っていた?」


『えぇ。結婚記念日を忘れた時も、妻が高熱を出した夜に飲み会で遅くなった時も、頼まれたものを買うのを忘れた時も、約束の時間に遅れた時も、喧嘩しない秘訣はすぐに謝ることですよ。まぁ、夫婦の間ではよく起こることですから、ちゃんと謝れば少し忘れたくらいで問題にはなりません。また元通りになれる』


その後も私は男の話を聞き続けた。

最初は悲しみに暮れていた男だったが、その悲しみは徐々に怒りに変化しているように見えた。

男の右脚は小刻みに揺れ始め、親指を強く握り、立ち上がったり座ったりを繰り返した。先ほどまでの、雨に怯える迷子犬のような様子からは一変し、ついに苛立ちを隠せなくなった男は頭をガシガシと掻くと凄い勢いで立ち上がった。


『なんなんだよまったく!!忘れたことは謝ったじゃないか!!何がそんなに気に食わないんだ!女って生き物はむやみに繊細で理解に苦しむ!』


私の頭の中には、ひとつのはてなマークが浮かび上がった。この男が、奥さんが出て行った本当の理由を全く理解していないようだったからである。

私はそのまま、窓の外に目を向けた。


「そういえば、隣のマンション最近リノベーションをしたようですよ。築50年で少し前までは見た目もボロボロだったんですが、工事をすれば、まぁきれいに元通りになるものですね。まるで初めからこうだったみたいに」


『‥‥なんだ、こんな時に、今そんなこと関係ないだろ!』


「見た目は大丈夫に見えますけど、噂によると、50年間使われた配水管はそのままで、すっかりくたびれてしまっているのだとか。きっとぽっかり穴が空いて、すぐに水漏れを起こすでしょうね」


『‥‥何が言いたい』


私は、窓の外のマンションを見ながら続けた。


「きっと、あなたの奥さんが怒っているのは、あなたが忘れっぽいからではありませんよ。心にぽっかり穴が空いてしまったのです。長年大切にされなかったことに」





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相談人の男 青いひつじ @zue23

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