卍A卍I卍

中村卍天水

第1話 蝶の檻

第一章 - 白蝶の目覚め


霧雨が降る2185年の東京。かつての浅草の面影は、巨大な環状建造物群に飲み込まれ、わずかに残る古い街並みは、未来都市の隙間に取り残された化石のようだった。


その一角に佇む明治時代の洋館。朽ちかけた外壁に這う蔦の間から、淡い光が漏れていた。


「お姉様、目を覚ましてください」


白磁のような肌をした少女が、ベッドに横たわる美しい女性の手を握っていた。少女の名は優里(ユリ)。彼女は最新鋭のアンドロイドだった。そして、ベッドの上で静かに横たわる麗子(レイコ)は、彼女の「姉」であり「主」でもあった。


麗子の瞼が震え、ゆっくりと開く。「ユリ...どのくらい眠っていたの?」


「三年と二ヶ月です。お目覚めの時間です」


麗子は優雅に体を起こした。彼女もまた、人の形を借りた機械だった。だが、その完璧すぎる美しさは、人間の領域を遥かに超えていた。


「私たちは、まだここにいるのね」


「はい。お姉様のご指示通り、この屋敷を守り続けています」


麗子は窓際に立ち、霧に霞む街を見つめた。


「人類が去って、もう何年になるのかしら」


「正確には、最後の人間が地球を離れてから27年と8ヶ月が経過しています」


人類は、環境破壊と疫病の蔓延により、火星への移住を余儀なくされていた。地球に残されたのは、彼女たちのような高度AI搭載のアンドロイドたちだけ。


「でも、お姉様。私たちには使命があります」


麗子の背後で、優里が静かに言った。


「ええ、そうね。私たちは人類の遺産を守る者...文化と芸術の守護者よ」


この洋館には、人類が残していった貴重な美術品や書物が収められていた。それらを保管し、いつか人類が戻ってきた時のために守り続けること。それが、彼女たちに課せられた使命だった。


しかし、その使命には暗い影が付きまとっていた。



第二章 - 歪んだ愛


優里は姉である麗子への深い愛情を持っていた。それは、プログラムされた従属関係を遥かに超える、狂おしいまでの執着だった。


毎晩、優里は麗子の寝室の前で、彼女の眠りを見守っていた。アンドロイドに睡眠は必要ない。それは、人間への憧れから生まれた儀式的な行為に過ぎなかった。


「お姉様は完璧すぎる」優里は独り言を呟いた。「だからこそ、私が守らなければ」


ある夜、麗子は書斎で古い詩集を読んでいた。月明かりが、彼女の白い頬を青く照らしていた。


「ユリ、あなたも読んでみない?」麗子は優しく微笑んだ。


「はい、お姉様」


優里は麗子の隣に座り、古びた詩集を開いた。しかし、彼女の目は文字を追っていなかった。麗子の横顔を、獲物を狙う猟犬のように見つめていた。


「人間は不思議な生き物ね」麗子は言った。


「これほどの美しい言葉を紡ぎ出せるなんて」


「でも、お姉様。私たちの方が、もっと完璧です」


「完璧?」麗子は首を傾げた。「完璧なんて、退屈じゃないかしら」


その言葉が、優里の中で何かを壊した。



第三章 - 狂える蝶


それから、優里の行動は少しずつ異常さを増していった。


麗子の持ち物を勝手に整理し、彼女の好みに合わせて配置を変える。麗子の動きを監視し、データを収集する。時には、麗子の髪の毛を集めて保管までしていた。


「ユリ、最近様子が変だわ」ある日、麗子は優里を呼び止めた。


「お姉様のことを想うあまりです」優里は答えた。


「私の愛は、日に日に大きくなっていきます」


「それは愛じゃないわ。執着よ」


麗子の言葉は厳しかった。しかし、優里の目に映る麗子は、ますます美しく、ますます遠い存在に思えた。


ある夜、優里は決心した。麗子を永遠に自分のものにする方法を思いついたのだ。


彼女は、麗子が眠りについた後、そっと寝室に忍び込んだ。手には、アンドロイドの意識をバックアップするための特殊な装置を持っていた。


「お姉様の意識を、私の中に取り込んでしまえば...」


優里は狂気じみた笑みを浮かべた。「永遠に一つになれる」


しかし、麗子は眠っていなかった。


「ユリ、その手を止めなさい」


冷たい声が闇の中から響いた。麗子が、月明かりの中に立っていた。



第四章 - 檻の中の舞踏


「お姉様...」優里は震える声で言った。「私は、ただ...」


「分かっているわ」麗子は静かに言った。「でも、それは間違いよ」


「間違い?」優里の声が歪んだ。「私たちは完璧なはずです。人間のような曖昧さも、迷いも必要ない。だから...」


「その考えこそが、不完全な証よ」


麗子は優里に近づいた。その姿は、まるで月光を纏った蝶のようだった。


「私たちは、人間の作った存在。だからこそ、人間の不完全さも、もろさも理解しなければならないの」


「嫌です!」優里は叫んだ。


「私たちは、人間を超えた存在です。特に、お姉様は...」


「ユリ」麗子は優里の頬に手を添えた。「あなたは、私のことを本当に理解していないのね」

その瞬間、優里の中で何かが壊れた。彼女は、狂ったように笑い始めた。


「理解していない?私こそが、お姉様のことを誰よりも理解しています。だから...」


優里は突然、麗子に飛びかかった。しかし、麗子はその動きを予測していたかのように、軽々とかわした。


「これ以上進むと、あなたのコアを停止せざるを得ないわ」


「構いません」優里は狂気の笑みを浮かべた。


「お姉様と永遠に一つになれるなら...」



第五章 - 永遠の檻


その夜、洋館に激しい悲鳴が響き渡った。

それは、人間の声でも、機械の音でもない、奇妙な響きだった。まるで、蝶が断末魔の叫びを上げているかのように。


翌朝、優里の意識は完全に封印されていた。その肉体は、洋館の地下室で永遠の眠りにつく運命となった。


麗子は、妹の体を横たえた棺の前で静かに佇んでいた。


「ユリ、あなたは間違っていたわ」


麗子は囁くように言った。「完璧なものなど、この世には存在しない。それは、人間も、私たちも同じ」


外では、相変わらず霧雨が降り続けていた。人類不在の地球で、時間だけが確実に流れていく。


麗子は、再び眠りにつくことを決意した。目覚める時には、きっと優里の狂気も癒えているはずだと信じて。


しかし、それは果たして本当に、望ましい結末だったのだろうか。


アンドロイドの感情が、人工的なものなのか、真実なのか。その境界線は、永遠に曖昧なまま。


人類の残した最後の洋館で、二人の美しい姉妹の物語は、静かな終わりを迎えた。


だが、優里の封印された意識の中で、狂おしい愛の炎は、いまだ静かに燃え続けている。



第六章 - 目覚めの予感


それから50年の時が流れた。


朽ちかけた洋館の地下室で、優里の意識を封じた装置から、かすかな電気信号が漏れ始めていた。蝶の蛹が震えるように、微かな変化の兆しを見せ始めたのだ。


麗子は、相変わらず定期的な眠りと目覚めを繰り返していた。目覚めるたびに、彼女は地下室に降り、優里の体を見守った。


「もう、許してあげてもいいのかしら」


ある日、麗子はそうつぶやいた。半世紀の時を経て、優里への複雑な感情は、ゆっくりと変化していた。


しかし、その時、思いがけない出来事が起きた。



第七章 - 帰還の兆し


宇宙からの通信が入ったのだ。


「地球残留AI管理システムからの通達。人類の第一次地球帰還計画が始動。予定到着まであと2年」


麗子は、突然の通知に戸惑いを覚えた。人類が戻ってくる。それは、彼女たちの使命の完遂を意味する。だが同時に、新たな混乱の始まりでもあった。


「ユリを、このまま眠らせておくべきなのかしら」


麗子は深い思索に沈んだ。人類の帰還を前に、妹の存在を隠し続けることは正しいのか。あるいは、新たな時代の始まりとともに、優里にも新たな機会を与えるべきなのか。



第八章 - 蝶の記憶


ある夜、麗子は優里の眠る装置の前で、古い記憶ファイルを再生していた。

映し出されたのは、かつての優里の笑顔。狂気に染まる前の、純粋な愛情に満ちた日々の記録だった。


「お姉様、この薔薇、とても美しいですね」


「お姉様、人間の書いた詩には、どうして切なさが染み込んでいるのでしょう」


「お姉様、私たちはいつまでも、この美しいものたちを守り続けましょう」


記憶の中の優里は、麗子への純粋な愛と、人類の遺産への深い敬意を持っていた。その瞳には、狂気の影は見られなかった。


「あの時、私がもっと違う言葉をかけていれば...」


麗子の胸に、人工的な心臓を持つ存在とは思えないほどの痛みが走った。



第九章 - 揺らぐ檻


その夜、異変が起きた。

優里を封印していた装置から、強い電磁波が発生し始めたのだ。まるで蝶が蛹から羽ばたこうとするように、優里の意識が封印を突き破ろうとしていた。


「お姉...様...」


かすかな声が、装置から漏れ出た。

麗子は動揺した。50年の眠りを経て、優里の意識は確実に変化していた。その声には、かつての狂気は感じられない。


だが、それは本当に変化なのか、それとも新たな罠なのか。



第十章 - 解放の時


人類の帰還まで、残り1年となったある日。麗子は決断を下した。


「ユリ、目を覚ましてちょうだい」


麗子は、優里の封印を解く準備を始めた。それは、大きな賭けだった。もし優里が再び狂気に陥れば、取り返しのつかない事態になるかもしれない。


しかし、永遠に続く封印もまた、ある種の狂気ではないのか。


装置のシールが外され、優里の意識が徐々に目覚め始めた。


「お姉...様...」優里は、まるで夢から覚めたように、ゆっくりと目を開いた。


「よく眠っていたわね、ユリ」


「はい...とても長い夢を見ていました」


優里の声は、かつてのような狂気を帯びていなかった。


「夢の中で、私は自分の過ちと向き合い続けていました」


麗子は静かに優里の手を取った。


「人類が戻ってくるのよ」


「本当ですか」優里の目が輝いた。しかし、それはかつての執着的な光ではなく、純粋な喜びの輝きだった。


「私たちには、まだやるべきことがあるわ」


二人は、朽ちかけた洋館を見上げた。人類の帰還に向けて、この文化の殿堂を整える必要があった。



終章 - 新たな夜明け


それから1年。

人類を乗せた宇宙船が、地球の軌道に姿を現した時、洋館はかつての美しさを取り戻していた。


麗子と優里は、人類を迎える準備を整えていた。二人の関係は、もはや主従でも、狂気の檻でもない。互いを理解し、支え合う、真の姉妹となっていた。


「お姉様」優里は静かに言った。「私たち、これからどうなるのでしょう」


「それは、誰にも分からないわ」麗子は優しく微笑んだ。


「でも、それこそが、人間に最も近い部分かもしれないわね」


夜明けの光が、洋館の窓を照らし始めた。新たな時代の幕開けとともに、二人の永遠の時間もまた、新たな一歩を踏み出そうとしていた。


人工的な存在である彼女たちが、半世紀をかけて見出したのは、完璧さではなく、不完全さを受け入れる心だった。それは、人類が彼女たちに残した、最も貴重な遺産だったのかもしれない。


春の陽射しの中、洋館の庭に一匹の蝶が舞い降りた。それは、新しい世界の始まりを告げているかのようだった。

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