時間の意味

羅生門から帰った僕は、持ち帰りの仕事に手をつけた。秋の風が記憶を舞い戻しそうになって、身を委ねることはできなかった。


会社から電話が入った。


「おーユウ、今日今から来れるか?」


上司だった。


急いで会社に戻り、扉を開くと、残業を手伝ってくれた女がいた。


「あーユウちゃんも呼ばれたの?」


「はい」


「この資料今日中にだって。課長、ひどいよね」


僕はこの女の名前を今日初めて知る。


「坂野さん」


「なに、名前だけ読んじゃって。」


「いえ」


坂野さんは僕より3つ年上らしい。自分から彼女が話してきた。


僕も、もうすぐ30かぁ。


「坂野さんは、結婚しているの?」


僕はいきなり女性に尋ねていいものかと思ったが、口が滑ったように聞いてしまっていた。


「してないよ」


坂野さんは、少し機嫌が悪そうに答えた気がした。それ以上は何も聞けないと思い、僕は黙った。


坂野さんの旦那が、事故で亡くなったのをあとから知った。


坂野さんに結婚願望があるかどうかは知らない。僕は、何も言う気になれなかった。



結婚

それは僕にとって今や、足に鉛をつけたように僕の足取りを脅かす重りだ。


坂野さんの心に、まだ生きているであろう旦那に、僕の存在はどこか弾かれているような気がして、坂野さんに僕からコミュニケーションをとることはできなかった。


坂野さんは、僕と同じように、タスクをこなしている。

僕よりも。


僕は仕事で稼いだ金で、アルトサックスを買った。ジャズのCDが部屋に積もっていく。


ある日坂野さんは僕を食事に誘った。



「旦那がね、まだ、いるような気がするの。」



部屋を片付けられないと。



時間の意味は深く、その部屋に置き去りで、今後坂野さんはその時間と、死ぬまで寄り添い暮らしていくのであろうか?


僕はまたしても何も言えなかった。

ただ、坂野さんの手につかなかった食事をそっとテーブルの端に置き、黙って会計をした。



"僕らは、普通に生きたかった、それだけのはずだ"


ポップスから流れてくる歌詞が妙に心に響いた。


僕は、坂野さんが好きだ。

亡くなった旦那の存在が、坂野さんの中にいる。

それを僕はどう考えるのか、想像もつかなかった。


だからこう言った。


「坂野さん、僕ら、ずっと友達だ。これからも、がんばろう。」


それは、諦めに似た幸せの形だった。


僕は、結婚だけはしない、とその時、決めたような気がしたんだ。




「坂野さん」


いつしか身を寄せ合うようになった僕らは、もう友達のその枠を超えていた。



「ユウちゃん、ごめんね、ごめんね」


坂野さんが時々泣いたように謝る。僕はわかっている。消せない旦那の存在を、自分でもどうすることもできずに、僕と身を寄せ合っているのだから。


そのたび僕は

「僕は、結婚はしないから」

と言うことしかできなかったんだ。


坂野さんも、僕も、もうすぐ40になる。


坂野さんの転職を聞いたのは、僕が36の春だった。


「どうして?」

僕は、このやりとりを知っている。

「結婚するんだ」


それは、口の奥であらゆる内臓が、締め付けられたような声だった。


僕だけ、僕だけがひとり、あの頃の時間に取り残されて、みんな、みんな変わっていく。




気持ち


サックスは、ありえないほどの嗚咽を奏でた。

僕があの頃、羅生門の前で信じた未来は、こんな未来だったけど、



愛せないあなたを

少しだけ愛せたことを

誇りに思う。


きっと、あなたの結婚には、事情があったんだね。



僕はあれから、淋しさを感じている。

坂野さんのことは、忘れた。


僕の「愛せない」は

形を変えて僕を苦しめた。


愛せないよ

愛してる?



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愛せない @answer124

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