第5話 逃走不可
「うちの不肖の兄がご迷惑をおかけしたわ……」
謝罪しながら、アナイスはニナに離婚届を渡してきた。
紙の文字は乱れていた。嫌々と書いたミシェルの心の内がありありと表れている。
「メイドから聞いたけれど……兄様はニナの私物を集めたりもしてたそうね……。
処分しておくわ……気持ち悪かったでしょう……?」
「あれはびっくりしました」
ニナは心臓を押さえた。でも、とつづける。
「そこまで嫌でもなかったですよ」
「え……?」
「怖い! って思いましたけれど。
こんなに私に関心を持ってくれる人がいるなんてって、嬉しかったです。
私、注目を浴びることが少なかったから」
ニナの実家は子だくさんの貧乏伯爵家だ。両親は子供たちに愛情を持っていたが、子供の数が多いので、子供たちはそれぞれ十二分に構ってもらえるという訳にはいかなかった。
前世の記憶を持って生まれ、たいていのことが一人でこなせるニナは特にだ。あの子はしっかりしているから、と悪気なく放置されてしまった。
前世でも似たようなものだった。共に働きに出ている両親は忙しかった。
親子仲は悪くなかったが、母親が家族に相談することもなく海外赴任を決めてきた時はショックだった。「中学生だから、もうママがいなくても大丈夫よね?」と嬉々とした表情でいわれれば返す言葉がなく、笑顔を作って見送った。
ひょっとしたら自分は親にとって自己実現の邪魔ものと思われていたのではないかと心のどこかで考えた。
「ニナ……恐がらせたくはないのだけれど、今後のためにいうわね……。
うちのいとこに好きな子が使ったフィンガーボウルの水を飲んだ変態がいるの……。
兄はまだそこまではしていないと思うんだけど……していないと信じているけれど……いつかする可能性はあると思っていて……それって大丈夫……?」
「……ちょっと無理かもしれないです」
ニナの離婚届を持つ手に力がこもった。
(……どうしよう)
実のところ、ミシェルがストーカーだったと知っても、ニナは離婚したいほど嫌いにはなっていない。
好きでも相手を監禁するのは許されないことで、勘違いに気づいた今はミシェルに怒っているが、すでにニナの一番辛い時期は過ぎてしまった。
将来に不安要素があるので一生かどうかは自信がないが、とりあえずまだ好きだ。
だが、ミシェルの方はどうだろう?
今の時点で大好きでいてくれているのは間違いない。
(私が異世界転生者と知っても好きでいてくれる……?)
ずっと勘違いしていたが、ミシェルは自分を転生者とは知らなかったのだ。
知った上で、なお愛してくれているのだと思っていたが、違ったのだ。
「考える時間をもらってもいいですか?」
「もちろんよ……ゆっくり考えて……。部屋の鍵は開けておくから自由にしてね……」
一人になると、ニナはベッドに身を投げ出した。
悩む。結論はなかなか出ない。
水でも飲もうと水差しを手に取ったところで、違和感を覚えた。
部屋の中に風が吹きこんでいる。窓は閉めたはずなのに。
夜風がうなじに吹き付けてぞくりとする。
「お迎えに上がりました、転生者様」
ニナは水差しを取り落としそうになった。
いつの間にか部屋に人が入り込んでいた。黒い装束に身を包んだ人物が三人。胸には目の形をしたペンダントが揺れている。“真実の目”のマークだ。
「我らが主は後継者としてあなたをご指名なされた。
ここはあなた様の居るべき場所ではない。我らと共に参りましょう。どうか我らをお導き下さい」
「ひ――人違いですっ!」
立ち上がった男に、ニナは水差しを投げつけた。
窓からさらに二人入ってこようとしているのを見て、体がすくむ。
男たちは目もくらむような高さの塔の外壁を登ってここまで来たらしい。恐ろしい身体能力だ。
部屋を飛び出し、階段を駆け下りる。先に明かりが見えた。
「だれか! だれか、来て! 変な人が!」
侵入者の一人がニナに追いついた。ニナに手を伸ばすが、つかむことはかなわなかった。
「“主の御名において命ずる、汝が信仰をその身で示せ”」
アナイスの詠唱で、黒装束の男が地面に平伏する。
塔の地階であるホールにはミシェルもいた。
「何があったの……?」
「部屋にいたら変な人が、“真実の目”の人が入ってきて」
「彼らが? ニナを狙ってきたんですか? どうして」
問われて、ニナは舌を凍りつかせた。
この二人からも逃げるべきかどうか迷う。
「サトウ・リナ」
はっきりと耳に届いた人名に、ニナは冷や水を浴びせられた気分になった。
ぎこちなく後ろに首を回せば、平伏していた男は起き上がりつつあった。
到着した仲間がアナイスの術を解いている。いち早く自由になっている舌を動かした。
「異世界、日本国の生まれ、女性。両親と兄の四人家族、犬を飼っていた。交通事故で命を落とし、この世界にニナ=マルタンとして生を受ける。
我らが主は偉大な“眼”をお持ちだった。遠く離れたできごとも、過去も未来もお見通しになった。あなたの前世だって。
人違いであるはずがない。あなたが我らの新しい主だ」
わざわざ確認しなくても、ミシェルとアナイスの自分に注目していることが分かった。
「転生者……?」
ミシェルのつぶやきに、ニナは一歩離れた。激しく首を横にふり、必死で命乞いする。
「ちがう、私は転生したけど普通の人間! 前世と同じで特別なことは何もできない、ただの人間。
普通に生きたいだけ。中途半端に終わった人生をここで続けたいだけ。お願い、許して。見逃して!」
「――それは、できませんね」
腕をつかまれた。強く。
ニナの指先は血の気が引いて白くなる。
こわごわ、ニナは涙目でミシェルを見上げた。
憎悪があると思っていた。嫌悪があると思っていた。
どちらでもなかった。ミシェルはニナが今までだれの顔でも見たことのない表情をしていた。
狂喜、といえばいいのか。
こらえきれない喜びと悦びにあふれた顔。
正しく整った顔は奇妙に歪んだ笑いを浮かべていた。
「そうだったんですか。ニナは異世界からの転生者だったんですか。
それは到底、見逃せませんね」
「う……あ……」
うまく声が出ない。震える背中を、大きな手がなでてくる。優しく。
「大丈夫ですよ、ニナ。絶対に逃しませんけど、あなたを傷つけたりはしません。
だってニナは普通に生きたいだけなのでしょう? 大それたことなんてしたくなくて、ただただ普通に暮らしたいだけなのでしょう?」
ニナは何度も何度もうなずいた。
「私は悪魔じゃない。毎日ちゃんと礼拝して、休息日には教会に行って、神様の教えを守ってる」
「ええ、知っていますよ。熱心に奉仕活動もして、あなたは信者のお手本のような人です。
主の御心は広い。悪魔だろうと帰依する者を拒んだりはしません。あなたは私たちの仲間です」
二人の横でアナイスが侵入者五人を足止めしてくれているが、徐々に距離が詰まってきている。
ニナはミシェルにすがった。
「ミシェル、お願い。助けて。私、何にもなりたくない!」
「――あなたの心のままに」
まるで神のお告げを受けたように。ミシェルは法悦に浸って応じる。
触れるのも畏れ多いというような慎重さで自分より小さな手の先に口付けた。
腰に下げた剣を抜く。使徒に授けられる、神の祝福を受けた聖なる剣。
「兄様……面倒だわ……一思いに潰しちゃってもいい……?」
「やめてくださいよ。片付けが大変です」
ニナは頭からミシェルの上着をかぶせられた。
後のことはよくわからない。
ミシェルの言いつけ通りその場でじっとおとなしくしていた。
目を閉じ、耳をふさぎ、口を閉ざして、ただ災難が通り過ぎるのを待った。
「もういいですよ」
「手が冷えているわ、ニナ……寒い……?」
すべてが終わると、ニナは二人の使徒に連れられて血のにおいのするホールを後にした。
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