てつがく的なカノジョ

裃左右

てつがく的なカノジョ


「なあ、哲学ってなんだ?」


「その質問がすでに哲学的だよね」


 実柚(みゆ)はそう言ってなんだか嬉しそうに笑った。

 彼女がすんなりとぼくの質問には答えることは少ない。

 むしろ、こちらの質問を掴みどころのない方向に持っていき、会話の主導権を握るのが彼女の常だ。

 だから、まず、ぼくが質問から会話を始めようとするとき、いつもこうして、彼女はまずはぐらかすようにして笑う。

 ……それが約束事のように。


「なんでだよ。哲学ってのは学問だろ?だったら、『こういうものです』って定義されてるはずだろ」


「まあ、そうだね」


「なら、こうこうこういう風に決まってます、って答えるだけで説明がつくだろう」


「でも、定義されたからってそれで終わりにしないのが哲学なのよ」


「終わらない? どういう意味だ」


「えーとね……」


 実柚の口調には、わずかな遊び心と含みが混じっていた。だから、止めた。


「ちょっと、待て」


「……なあに?」


「また難解な話から始まって、紆余曲折の挙句に本題に入る気だろ?」


 彼女の話は長い。

 実柚に病的に弁舌を尽くす人間だ。その上、話す言葉はわかりやすいくせに会話の組み立ては難解なのである。わかりやすい言葉が瞬時に出てくるのは、彼女の頭の良さを示している。それと同時にその会話の組み立ての特異さは彼女の思考と人間性をそのまま表している。


 回り道、くねり道、道草を食いに食い、満腹になって飽き飽きとした頃に、ようやく結論に繋がるキーワードが現れてくる。いわく、思考は結論ではなく、なぜ、そこに至ったかという過程にこそ、意味があるのだと。


 しかし、言葉の運び方とは正反対に実柚の感情は読みやすく、わかりやすい。その機嫌はそのまま表情に全て現れるからだ。

 それを踏まえて、この目は何一つわかっていない、何を見当違いなことを言っているのか、と言う目だ。さすがにそれくらいはぼくにでもわかる。


「なら手っ取り早く言おうか?」


「ああ、ぜひそうしてくれ」


「辞書から引用したような言葉を噛み砕いて言うと、概念を概念として確立していこうとすること、思考における論理的を観点を明確にすること、一つの問いに対し徹底的に考え抜き続ける」


「つまり、考えるための考え、ってことか?」


 ぼくは彼女の説明を自分なりに簡略化してみた。すると、実柚はまたしても嬉しそうに笑った。彼女のこの笑顔は、何かを言いたくて仕方がないときの前兆だ。


「まあ、そうとも言えるけど、それじゃ足りないかな」


「足りない?」


「考えるための考え、って言うとなんだか空っぽな感じしない? 哲学って、実はすごく実用的なのよ」


「実用的?まさか」


 哲学なんて、役に立たないことの代名詞だ。

 周りの人間で、それなりに哲学に傾倒したことのある人はいる。おじさんはお医者さんだったが、一時期、哲学にハマりにハマり、いろんな本を読み漁り、難しいことばかり言うようになったが、結論は『何の役にも立たない』だった。


「ほんとほんと。たとえば、キミがさっきの質問で『哲学って何?』って聞いたのも、考え方の道筋を見つけたかったからでしょ?」


「そう……なのか?」


 いや、単純にその役に立たない学問って言うのは、そもそも何なんだろうって思ったからだと思うけど。


「まあ、そういうことにしときましょ。でね、哲学ってのは、その道筋を整理したり、見えなかった部分を掘り起こしたりするためのツールなの。で、わたしたちはそれを、こうやっておしゃべりすることで自然にやっちゃってるんだよね」


 実柚はそう言って、コーヒーのカップを持ち上げた。彼女の指先が小刻みに震えているのを見て、ぼくは不意に気づいた。この話題は、彼女にとって特別なものなのかもしれない、と。


「でもさ、そのツールを使って何が変わるんだ?」


 ぼくがそう問い返すと、彼女は少し驚いた顔をした後、真剣な表情でぼくを見つめた。


「何が変わるか、か……いい質問だね」


「だろ?」


「うん、たぶんその問いこそが、哲学の本質なんだと思う」


「本質?」


「そう。本質っていうのは、変わることでしか見つけられないものなんだよ。だから哲学は、ただの『考えるための考え』なんかじゃなくて、『変わるための考え』でもあるの」


 実柚の言葉は一見、抽象的すぎて意味が掴めないようにも思えた。でも、その瞳の奥に宿る確信は、ぼくの中で何かを揺さぶった。答えが欲しいわけじゃない。問い続けることそのものに価値がある――そんな風に感じさせられた。


「……つまり、ぼくらは話してるだけで、変わってるかもしれないってことか?」


「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、それも含めて考えるのが楽しいんだよね」


 実柚はふっと笑って、またコーヒーを飲んだ。その仕草には、どこか達観したような、でも確かに生き生きとした何かが宿っていた。ぼくはその表情を見て、もう一度彼女に問いかけたくなった。


「じゃあさ、変わるって、どういうことだと思う?」


 実柚は少しだけ間をおいて、今度は柔らかな笑みを浮かべながらこう答えた。


「それを考えるのが、哲学の醍醐味だと思うよ。少し考えてみて」


「ぼくは答えが知りたいんだけど」


「ふふ、わたしはね」


 いたずらっぽく笑うと実柚は、空っぽになったカップを片手に立ち上がった。

 どうやら、お代わりを入れに行くらしい。電気ポットに向かって歩いていく。


「答えよりも、キミがわたしと話すために考えてくれる時間が欲しいんだよ」


「……ぼくが、実柚と話すために?」


 その言葉に、思わず実柚の背中をじっと見つめてしまった。小柄な彼女が電気ポットの前でカップを傾け、湯気が立ち上る光景が妙に静かな温かさをまとっている。


「そうそう。だって、わたしの話が長くなるのって、嫌がってる割にいつも付き合ってくれるじゃない?」


 振り返った彼女の笑顔には、確かな自信と少しの意地悪さが滲んでいた。


「そりゃ、まあ……暇つぶしにはちょうどいいからな」


 そう言いながらも、ぼくの心は微妙にざわついていた。

 実柚の言う「考える時間」は、彼女自身のためではなく、ぼくが自分の中にある何かを掘り起こすための善意なのだろうか。

 それとも、ただ彼女がぼくと一緒にいる時間を長くするための口実を作っているだけなのだろうか。


 そんな風に考え始めると、彼女の何気ない言葉の一つひとつが哲学的な問いそのものに思えてくる。


「じゃあさ、もしぼくが考えるのをやめたらどうする?」


 意趣返しのように少し意地の悪い問いを投げ返すと、実柚はお湯を注ぐ手を止めた。


「やめたら?」


「ああ、考えるのが面倒くさくなってさ、ただ流されて生きるって決めたら?」


 実柚はカップを持ったまま振り返り、少しだけ目を細めた。その顔には、怒りも呆れもなく、ただじっとぼくの言葉を吟味するような静かな気配が漂っていた。


「それならそれでいいよ。無理に考えさせようとは思わない」


 拍子抜けするほどあっさりとした答えだった。


「……あっけないな」


「でも、ね」


 そう言って実柚は、ぼくの正面の椅子に戻ってきた。カップから立ち上る湯気の向こうで、ほんの少しだけ優しい表情を見せながら続ける。


「考えるのをやめた人でも、生きてる限り、絶対に何かにぶつかるでしょ?悲しいこととか、嬉しいこととか。そういう時に、また考えたくなるんじゃないかな」


「……そういうものなのか?」


「そういうものだと思うな。哲学って、わたしたちが考えるのをやめない限り、どこにでも転がってるから」


 その言葉に、ぼくは何も言い返せなかった。彼女の語る「哲学」は、決して難解な本の中だけにあるものではなく、こうしてぼくたちが交わす日常の会話の中にも生きている。それを知った瞬間、少しだけ彼女の言葉に惹かれている自分を感じた。


「……じゃあ、もう少し付き合ってやるよ。せっかくここまで来たんだしな」


 ぼくの言葉に、実柚は目を輝かせると、すぐさま次の話題を切り出してきた。


「ねえ、じゃあ次はこれ。『幸せって何?』って、どう思う?」


「……結局そうなるのかよ」


 ため息をつきながらも、ぼくは少しだけ楽しくなっている自分に気づいていた。

 たいてい、実柚が質問してくる時には、自分なりの答えを用意しているものだから、ある程度、こちらも準備をしなくちゃいけない。

 なにせ、実柚の答えと言うのは、考えに考え抜いたかのように、用意周到な内容になるから見合うものを用意するとなったら大変なのだ。


 だけど、まあ。

 シンプルに、素朴に考えて。


「今、この時間とか?」

「え?」


 目をまん丸くして、実柚がこちらを見た。

 つぶらな瞳にぼくが映る。


「なんだよ、幸せって何気ないものだっていうだろ。 だから。 今、実柚とこうしてる、時間、とか?」


 声が尻つぼみになって、どんどん、自信がなさそうになってしまった。

 実柚はしばらく何も言わなかった。ぼくの言葉を反芻するように、コーヒーカップをそっと置き、その指先をカップの縁に滑らせる。


 沈黙が少し長くなりすぎたのではないかと感じ始めた頃、実柚が小さく笑った。


「……ねえ、それ、ずるいよ」


「ずるい?」


 実柚の声はいつものおしゃべりなテンポではなく、どこか穏やかで優しい響きだった。


「うん。なんていうか、キミって時々、こういうこと言うよね。シンプルで、そのくせちょっと響く感じの」


 実柚はぼくの顔をじっと見つめて、くすくすと笑いながら首をかしげた。その表情には、少しの照れと、少しの安心感が混ざっているように見えた。


「いや、適当に思ったことを言っただけだけど」


「その適当がさ、なんでわたしの考えてたことに近いのよ?」


「偶然だろ」


「……ほんとに?」


 実柚は少し意地悪そうな目つきでぼくを見てきたけれど、その口元には微かな笑みが残っている。


「まあ、たしかにね。『今、この時間』って、たぶん正解なんだと思う」


「たぶん?」


「うん。幸せって、未来とか過去とかに探しに行くと見つからないんだよね。結局、目の前にあるのに、わたしたちがそれを見逃してるだけっていうかさ」


「……哲学っぽいことを言い出したな」


 ぼくが少し茶化すように言うと、実柚は「ふふっ」と笑った。


「でしょ? でもね、それってわたしが哲学を学んだから言えるわけじゃなくて、キミとこうやってしゃべってるから気づけることなんだよ」


「俺と?」


「そう。だって、哲学って独りで考えるものって思われがちだけど、ほんとは違うの。誰かと対話する中で、自分が見えなくなってる部分に気づいていくものなんだよね。 一人でうんうん唸るためのものじゃないんだよ」


 そう言うと、実柚はコーヒーカップをまた一口すすった。その仕草は、どこか満ち足りたようにも見えた。

 たしかに、今まで『哲学なんて意味がない』って言ってた人たちは、どこか独りよがりと言うか。自分の頭の中だけで答えを探そうとしていた気がする。

 でも、人間が大切な答えを見つけるのは、誰かと会ったり、話したり、コーヒーを飲んだり、そういう時間が必要なのかもしれない。だとすると、役に立つとか、立たないとかじゃなくて。


「一緒に考える誰かとの大切さに気付いたり、とか? 自分以外の価値観に触れたり? そういうこと?」


「そうそう! すごいね、わたしもそう思ってるの。 それってすごく素敵なことだよね」


「……なんか、今日はいい話ばっかりじゃないか」


「でしょ? たまにはこういうのも悪くないでしょ?」


 実柚の笑顔につられて、ぼくも少しだけ笑った。本当に、この時間が「幸せ」かどうかなんて、あとになってみないとわからないかもしれない。

 でも、少なくとも今、この瞬間が悪くないって感じることだけは確かだと思えた。


「ふーん。 なら、あれか。 実柚にとって哲学が特別なのは、その誰かと話すなかで、日々、感じたりしてることがたくさんあるからなんだな、それが実柚にとってなにか大事な変化が起きた、とか」


 話しながら、ぼくは考えをまとめようとするが、上手くまとまらない。元々口下手なのだ。

 ただ、口に出すことで、整理できるものもあるのは知っていた。それは実柚のお陰だ。


「それか、その誰かと話す中で『変えたいもの』がある、とかさ」


 そこまで言って、ちら、と、ぼくは実柚を見た。

 え、なんで、顔を真っ赤にしてるの? 耳まで真っ赤だけど。


「こ、この話題、やめようか。 なんか、」

「えー、なんでだよ」

「いいから! 今日は話題を変える!」


 こんな風な強い口調で話すのは、とても珍しい。ははん、よほど哲学にハマった理由をぼくに知られたくないらしい。


「とにかくね、こうしてキミと話してるのも、わたしにとってはすごく大事な時間なんだよ。 それがどんな話題であれ、ね」


「へえ。でも、ぼくはそんなに深いこと考えてないぞ。ただの暇つぶしだし」


 冗談めかしてそう言うと、なぜかため息をつかれた。

 失礼な奴だと思うけれど、ぼくも失礼な物言いをしているのでお互い様なのだろう。


「まあ、それでもいいんだよ。暇つぶしだって言いながら、ちゃんと話に付き合ってくれるじゃない。そういうの、わたしはそれでありがたいと思ってるんだから」


「そっか。なら、まあ、これからも暇なときは付き合ってやるよ」


「約束ね」


 気を取り直したのか、実柚はいたずらっぽく笑いながら、小指を差し出した。その仕草が妙に子どもっぽくて、思わずぼくも笑いながら指を絡めた。

 でも、まだ耳が赤い気がした。


「約束って年じゃないだろ、もう」


「いいじゃない。約束は形に残した方が、守りたくなるものだよ」


 そう言いながら、実柚はまたコーヒーを飲み始めた。

 その笑顔は、これまで見たどの表情よりも柔らかく、温かかった。たぶん、こんな風に対話を続けていく限り、ぼくらはこれからも少しずつ変わり続けてしまうのだろう。

 

 でも、ぼくは何も変わりたくないと思ってしまった。実柚が何気ない話をしたいと思ってくれるこのままの関係でありたい。実柚のことを、その言葉の意味を考える時間を大切にしたい。

 だから、きっとぼくは彼女と違って、哲学には向いていないのだろう。

 せめて、もう少しだけ。これ以上、変わらないでいて。そう、ぼくは祈った。

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